3.蒼井奈津美
冷房が効いているとはいえ、体育館の中は蒸し暑い。そんな中で二試合目ともなると、集中力も途切れがちだった。
「文江さん、お願い」
奈津美が上げたトスに文江が向かっていく。タイミングが合わず、かろうじて触れたボールは相手のチャンスボールとなってふわりと落ちて行った。レシーブされたボールがきれいにセッターへ返る。
「来るよ!」
小百合が味方に声を掛ける。直後、ライトから対角線へ強烈なスパイク。コーナーぎりぎりに飛んできたボールには誰も触れることが出来なかった。
昇格と降格が懸かるクラス別のトーナメント戦。初戦を勝ち上がって降格することはなくなったのだけれど、昇格はお預けとなった。
奈津美は一度帰宅してシャワーを浴びた。それから食事の支度をして身支度を整えた。
「また出かけるのか?」
リビングのソファに腰かけてテレビを見ていた亭主の洋介が声を掛けた。
「これから打ち上げがあるの」
「ふーん…」
「子供たちをお願い…」
洋介は奈津美のその問い掛けには答えず、スマートフォンを触り始めた。奈津美はいつもの光景に苦笑して家を出た。
奈津美が店に到着すると、他のメンバーは既に揃っていた。ほとんどのメンバーはジャージ姿のままだ。帰宅せずに直接ここへ来た者も居る様だった。
「奈津美、遅いよ。もう乾杯しちゃったわよ」
小百合がそう言って自分の隣を指した。奈津美が着席すると、小百合が間髪入れずにビールの瓶を差し出した。奈津美はグラスを手に取り小百合がビールを注いで音頭を執った。
「じゃあ、もう一回行くよ…。乾杯! アンド残留バンザーイ!」
奈津美は注がれたビールを一口だけ飲んでグラスを置いた。そして、グラスが空になっている先輩たちにビールを注いだり焼酎を作ったりし始めた。
「そんなに気を遣わなくてもいいよ」
文江や小百合はそう言ったのだけれど、奈津美にしてみればそんな風に動いていれば自分が飲まずに済むと言うのが理由の行動だった。奈津美は酒が強い方ではない。
テーブルには寿司桶やオードブルなど、豪華な料理が並んでいた。既に何人かのメンバーは持参したタッパーに料理を詰め込んでいた。
「今夜の晩御飯よ」
そう言って笑うメンバーも居る。
最初は今日の試合の話で盛り上がっていたのだけれど、しばらくするとカラオケが始まった。奈津美は最初に注がれたビールをようやく飲み干したところだった。
「奈津美、焼酎でいい?」
「はい。でも、自分で作るので大丈夫です」
そう言って奈津美は新しいグラスに氷とウーロンちゃんだけを注いだ。
「さあ、そろそろ奈津美も歌いなよ」
小百合がそう言ってデンモクを奈津美に手渡した。奈津美が選曲しているところに三人組の客が入って来た。野球のユニフォームを着ている。
「あっ…」
奈津美は思わず声を漏らした。知っている顔がその中にあったからだ。
「どうした? 決まった?」
「すみません。ちょっとお手洗いに行ってきます」
そう言って奈津美は一旦席を外した。
半月ほど前だった。
練習試合の相手は同じ地域で活動しているチームだった。試合が終わった後、奈津美は相手チームのキャプテン桐谷晶から声を掛けられた。
「蒼井さんだっけ? ずいぶん上手になったね」
奈津美はそんな風に褒められた。その後もしばらく話していると奈津美の背後から声がした。
「晶、迎えに来たよ」
「あ、パパが迎えに来たわ。じゃあね、蒼井さん」
振り向くと、晶が“パパ”と呼んだ男性が居た。一瞬。目が合い、相手がお辞儀をした。奈津美も頭を下げた。それから笑顔で話をしながら遠ざかって行く二人を奈津美はずっと見つめていた…。
手洗いから戻ってきた奈津美はデンモクを持って再び席を立った。後から入って来た三人組の方へデンモクを持って近づいた。
「騒がしくてすみません。よかったら皆さんも歌ってください」
そう言って、18番のユニフォームを着た男性にデンモクを渡した。そして、他の二人にも微笑みかけると席に戻った。
席に戻ると動悸が止まらなかった。一瞬だけだったけれど、しっかりと近くでその顔を見ることが出来たから。あの日、晶が“パパ”と呼んだ男性の顔を。今日、その人は背番号30のユニフォーム姿だった。