18.西川妙子
給与が振り込まれる日、妙子が口座を確認に行くと、振込金額が異様に少なかった。哲の仕事は建築作業員。天気に左右される仕事なので、雨が多いと出勤日数も減る。それが収入に直結するのだけれど、今回はあまりにも少なすぎる。確かに雨は多かったけれど、それでもそうではない日には休日出勤もけっこうあったはずだ。
「あなた、今月のお給料はどうしてこんなに少ないのかしら?」
「雨で仕事がない日が多かったからだろう。先月はいつも以上に余計には稼いでるんだから文句はないだろう」
「そうだけど…」
不審に思った妙子は哲が風呂に入っている間に哲の携帯電話をチェックした。そして、メールの履歴を見て驚いた。特定の女性にあてたメールが何通もある。しかもその内容が尋常ではなかった。本人に問いただそうにも、日ごろから暴力的な面がある哲には聞けなかった。そこで付き合いの古い博仁の妻、茜に聞いてみた。
「蒼井奈津美とか、なっちとかいう人に心当たりはないかしら?」
「蒼井…。ああ、なっちっていうのはソフトボールのチームに居る子じゃない? うちの旦那がそんな話をしていたわよ。それがどうかしたの?」
「ううん、なんでもないわ」
妙子は確信した。哲はその蒼井奈津美という女に入れ込んでいる。
翌日、哲が家を出ると、妙子はそっと哲の後をつけた。駅の方へ向かって歩き出す哲。しかし、途中にある公園の前に差し掛かると、その公園の中へ入って行った。人目につかない木陰に座り込んでじっとどこかを見ているようだった。しばらくすると、急に立ち上がってその場を離れた。
「どこへ行くんだろう…」
哲が向かった先には自転車に乗った女性が居た。哲はその女性の後を追いかけるように付いて行く。その女性がある建物に入って自転車を降りると、物陰からその様子を窺っているようだった。女性の姿が見えなくなると、彼女が乗っていた自転車に近づいて行った。
「なにしてるんだろう…」
次の瞬間、哲はポケットから何かを出して自転車のタイヤにそれを突き刺した。衝撃的な場面を目の当たりにした妙子は急に哲のことが怖くなった。その日はその後も哲は仕事に行かず、公園で時間をつぶしていた。
夕方になって哲が帰宅する。妙子は哲の顔を見ることが出来なかった。給料が少なかったのはおそらくこういうことだったからなのだろう。それにしてもあの女性が蒼井奈津美なのだろうか…。
夕食を終えると哲はまた家を出た。妙子はまた哲の後をつけた。またあの公園に入って行く哲。どうやら哲が見ているのはその前にあるマンションらしい。すると、そのマンションから朝の女性が出てきた。哲はまたその女性の後をつけていく。
「ストーカー…」
妙子の脳裏にそんな言葉が浮かんだ。まさか自分の夫が? 信じられなかった。けれど、それが事実だとしたらもう、一緒には暮らせない。その日のうちに妙子は実家に戻った。深夜に帰宅した哲から電話があったが、父親の具合が悪くなったからしばらく実家に居ると伝えた。
日曜日の午前中。この日はソフトボールの練習がある。妙子はこっそり練習場所を見に行った。あの女性もそこに居た。女性はチームに一人しかいないようで彼女はチームのアイドル的存在のようだということが判った。
「彼女が蒼井奈津美…。なっちなのね」
練習中に哲が奈津美と特別親しくしているような様子はなかった。そして、哲からストーカーの被害にあっているであろう奈津美も特に哲に対して不自然な態度をとるようなこともなかった。ただ、奈津美が墓のメンバーと話しているところをじっと見ている哲の姿は妙子には異様に映っていた。
「あの女のせいであの人はおかしくなったんだわ…」
そうは思ってみたものの、妙子にはどうすることも出来ないのも理解した。実家に戻った妙子は離婚届に判を押して哲のもとへそれを送った。哲からはすぐに離婚届が返送されてきた。そこにはちゃんと哲の印も押されていた。それを見た妙子は無性に情けなくなった。同時にある種の解放感も覚えた。
「これでいい…。後のことはもうどうでもいい」
おそらくこれで哲の奈津美に対するストーカー行為がエスカレートするかもしれない。あの女も家庭がバラバラになるかも知れない。けれど、そんなことはもう知ったことではない。哲がそうなるようなきっかけを作ったのはきっとあの女なのだから。