17.蒼井奈津美
孝之と別れた直後に届いた哲からのメール。奈津美は辺りを見回した。見ているというのなら、近くに居るはずだ。すると川の対岸でこちらをじっと見ている人影に気が付いた。暗くてはっきりとは判らないのだけれど、その体格や身なりからして哲だと確信した。奈津美はすぐに哲に電話を掛けた。
「そんなところで何をしているんですか? 今、川の向こう側に居るのは哲さんですよね?」
『お前、タカさんと付き合ってるのか?』
「そうではないですよ。ソフトボールのことでお話があるということでしたからお会いしただけです」
『じゃあ、なんで抱き合ったりしてたんだ?』
「少し酔っているのでふら付いただけです」
『それなら、今からちょっと付き合ってくれよ。少し話がしたいんだ』
「解かりました。では、今からそちらに行きます」
奈津美は電話を切ると、橋を渡って哲が居る川の対岸へ向かった。今のままでは、ずっとこんな風に付きまとわれる。きちんと話をしておかなければならないと思った。
遊歩道の人目につかない橋の下で奈津美は哲と向き合った。
「どうしてこんなことをするんですか?」
奈津美は哲からのメールを見せながら詰め寄った。
「なっちのことが心配なんだよ」
高圧的なメールの内容とは打って変わった弱々しい哲の口調に奈津美は少し戸惑った。
「子供じゃないので余計な心配はしてもらわなくてもいいです」
「タカさんとは本当に何でもないんだな?」
「なんでもありません」
「じゃあ、俺と付き合ってくれよ。なっちだって俺のことが好きなんだろう?」
「付き合うって、今でも一緒にソフトボールをしているじゃないですか」
「そうじゃなくて、俺の彼女になって欲しいんだよ」
「哲さんには家庭があるでしょう? それは私も同じです。だから、そういうお付き合いは出来ませんよ。もし、どうしてもというのなら奥さんと別れてください」
そんな風に言われて哲は黙り込んだ。さすがに奥さんと別れてまで自分と付き合うことはないだろうと奈津美は思った。だから、そう言えば哲も諦めると思っていた。
「解かったよ。ちょっと考えてみる」
「はい。そうしてください」
これで、哲があんなメールをよこすことはもうなくなると奈津美は思った。
数日後、奈津美のもとに哲からメールが入った。
『かみさんとは別れる。だから、俺と付き合ってほしい』
それを見た奈津美は青ざめた。こんなことになるとは考えてもみなかった。外出中だった奈津美はまたどこかで見張られているのではないかと辺りを見回しながら、帰宅する足を速めた。マンションの前までたどり着くと、そこに哲の姿があった。奈津美が裏口へまわろうとした時、哲が駆け寄ってきた。
「なっちの言う通りにするよ。だから、俺と付き合ってくれよ」
「ごめんなさい」
それだけ言うと、奈津美は哲を振り切ってマンションの中に駆け込んだ。そんな時に修二からメールが入った。
『哲のことなんだけど、何か困っていることがあるんじゃい?』
そのメールを見て、きっと、孝之が何か話したのだと奈津美は理解した。孝之がどこまで話したのかを考えると、すぐに修二へ返信することが出来なかった。
ファーストの守備を教えてくれて、オーダーメイドで自分用のファーストミットを作ってくれると言った孝之に奈津美は惹かれていた。だから、あの日、哲のことを話して自分の弱いところを見せれば守ってくれるのではないかと思った。孝之に守ってもらいたいとさえ願っていた。そして、その帰り道、酔ったふりをして孝之に抱きついた。孝之はそんな奈津美を叱責して立ち去った。自分の不用意な行動を奈津美は後悔していた。修二がそのことを知ったら自分のことを嫌いになるかも知れない。そうなって欲しくはない。気持ちを整理するまでに時間がかかった。孝之に確認のメールも入れてみた。
『この間のことを桐谷さんに話しましたか?』
孝之からの返信はなかった。このままにはしておけない。そう思って奈津美は修二に『今から会いたい』とメールをした。修二はすぐに会ってくれると言ってくれた。
待ち合わせした店で修二の顔を見て奈津美は少し気が楽になった。いつものように優しい修二の顔だったから。そこで、まず、修二が孝之からどこまで話を聞いているのかを確認してみた。幸い、一番知られたくないことは聞いていないようだった。そして、話は哲ことに。修二から聞かれたことに奈津美は素直に答えていった。
「なるほど…。あと、どうしてボクにではなくて、先に孝之に相談したの?」
そう聞かれた時に奈津美は答えに困った。それを答えたら修二に嫌われる。修二だけは他の人とは違うのだ。それは奈津美自身よく解かっていること。口籠る奈津美を見かねたのか修二は自分から奈津美を弁護するように話を続けた。
「ずっと辛い思いをしてたんだね。みぃこにそんな顔は似合わないよ。とにかく哲のことは俺に任せて。そして、それでもだめだったら、警察に相談しよう。そして、みぃこの旦那さんにもきちんと話をした方がいいよ」
修二は奈津美のことを本当に心配してくれている。しかし、警察沙汰にはしたくない。まして、旦那に話すなんてできるわけがない…。