7.不法侵入者
ピピピピ、と。
突如響き始めた電子音によって、俺は睡眠によって喪失していた意識を瞬時に取り戻した。
開いてたまるかぁ! と、反抗する瞼を無理矢理に押し上げ、顔を上げる。
そこには、学校側から支給された時計があった。
ボヤけた視界を擦って確認すると、特に何の面白みのないシンプルな形をしたそれは、今が『朝の七時』だという事実を伝えてくる。
まったく優等生みたいな真似をしてしまったものだ。七時なんて早起きにもほどがあるぞ。
だが、そんな時間に起きたのには理由がある。
日直、だ。
何でもその役に任命された生徒は、いつもより早く登校して教室の鍵を開け、機材の掃除や花の水換えをしなくちゃならないらしい。なんとも迷惑な話だ。
そして、今日が俺の当番の日であったりする。
面倒くさいけど、やらなきゃ怒られるので行くしかない。それにペアに迷惑がかかるし……、
「……待てよ? 確かペアは芙蓉だったよな……」
日直は、二人で仕事をするのが基本だ。
でも頭が良く器用な芙蓉なら一人で二人分の仕事をスムーズに、そして完璧にこなせるだろう。むしろ俺がいた方が邪魔になる可能性が高い。
うんそうだ。きっとそうに違いない。
俺は上げた頭を枕に落とし、再び目を瞑って、
「ごぶッ!?」
思い切り毛布で顔面を叩かれた。
「おはようございます」
低い声での挨拶。
毛布を取り除くと、ジト目の芙蓉と目が合った。
「ふ、不法侵入者ッ!」
「バカ言わないで。君が鍵を預けたんでしょ」
「俺が……?」
眠気で回っていなかった思考を、冷静に働かせる。
……そう、そうだ。昨日の放課後。帰る前、芙蓉にスペアキーを渡したんだった!
絶対に寝坊するから起こしに来てくれ、ということを伝えながら手渡した記憶が蘇ってくる。
「ごめん芙蓉、寝ぼけてたよ」
「はいはい。それじゃ早く準備してください」
「待ってくれ芙蓉。俺、少し考えたんだけどさ」
「わたし一人にすべて任せるつもりですね?」
「ははっ、急いで支度します」
くそっ、エスパーかお前は!
何も言い返す言葉が見つからなかったので、渋々俺は先ほど芙蓉に叩きつけられた布……制服に着替え、カバンを手に取る。
そして台所に行き、朝食用にパンを頂こうとして、
「ほら、時間がありませんよ」
腕を引いてきた芙蓉によって、キャンセルされた。
「ええっ! あ、歩きながら食えばいいじゃんか!」
「行儀が悪いですから」
結局物は食えず、髪を整える時間もないまま、俺は寮を後にすることになった。
いつもより人数の少ない通学路を、横並びで進んでいく。
「あれ、意外に人がいるな」
「まあ部活動の朝練がある人もいますしね」
「部活、か……芙蓉はどっか入らないの? 色んな部活から熱烈なスカウトが来てるらしいじゃんか」
頭が良いだけじゃなく、芙蓉は運動もできる。
中学の時は運動部の助っ人として様々な大会に出場し、芳しい結果を残していたりする。だからこそ、喉から手が出るほど欲しい人材なんだろうな。
「んー……今のところは入るつもりはないですね」
「え、そうなの? 実績を出せば、大学を受験する時に有利だったりするんじゃないか?」
「確かに、その通りなんですけど……」
ここで、芙蓉がちらりと俺を見た。
見つめ返すと、すぐにそっぽを向き始める。
「ん? どしたよ」
「別に」
少ししてこちらに見せた顔は、いつもの表情だった。
ちょっとだけ頬が赤く見えるのは気のせいかな。
改めて、前を向く。
「あ」
「どうしました?」
「いや、あれなんだけど……」
俺は進行方向にある校舎の昇降口を指差す。
透明なガラスの入り口の前に、何かが倒れていた。
こちらに向けられた地面と密着した顔には、サングラスとマスクが装着されている。
加えて赤いオールバックときた。やつしかいない。
「そういえば昨日、昼休みが終わっても姿を見せませんでしたよね? 彼」
俺はやつがボロ雑巾に変わっていることに心当たりがあるけど、それを芙蓉に話すわけにはいかない。ここは、適当に作り話をしておこう。
「ったく、不真面目な生徒だな」
「…………」
芙蓉がジト目で睨んでくる理由がわからない。
俺は誤魔化すように和樹へ駆け寄ると、そのボロボロに成り果てた体を肩に担いだ。
そのまま、校舎に足を踏み入れる。
「……ん?」
靴を履き替え廊下を歩いていると、作業着を身につけた大人たちが目に入った。
脚立に登り、何かを取りつけているように見える。
「こんなに朝早くから……ご苦労様です」
「ホントになぁ」
感心してそう呟きながら、少し落胆する。
見たところ、取りつけている物は中々に小さい。それに教室じゃないので、俺が望んでいたエアコンとは違う物だと気づいたからだ。
これじゃ夏は大変そうだなぁ……。
項垂れながら職員室に行き鍵を借りると、Ⅱ組の教室に向かい、扉の鍵を開ける。
当然だけど中には誰もいない。……おお、こんなに教室って広かったっけ? 何だか新鮮な感じがする。
「ほらボーっとしてないで。早く済ませましょう」
「うーい」
芙蓉の指示を受け、俺は和樹をその辺に捨てると作業を開始する。
そして、数分ですべてが終わった。
ちょうど芙蓉が花の水換えを終えて戻ってきたので、俺は尋ねる。
「なあ芙蓉、他には?」
「これで終わりですね」
「そか」
短くそう返し、自分の席に着く。
芙蓉も隣の席に腰を下ろした。
「…………」
「…………」
沈黙。
ただ静寂のみが教室を支配していた。
耳をすませても、廊下から音は聞こえてこない。
何気なく黒板の近くにある時計を見る。
時間は七時二十分を示していた。朝のHRが始まるのは八時半なので、まだ一時間以上も――
「……一時間?」
よく考えてみれば、いくら日直だからといってこんなに早く来る必要はないよな?
つまり、芙蓉が時間を誤ったってことか? ……この真面目な芙蓉が?
ガサッ。
そんなことを考えていると、隣から音が。
見れば、芙蓉がカバンに手を突っ込んで――ま、まさか、俺に勉強をさせるつもりか!?
……そういやこの前やっていた勉強会は、聞いたところだと早朝からやっていたらしいし、中学時代も俺に無理やり勉強させようとしてきたっけ……。
ま、マズい! 今すぐにでも逃げ出さなきゃ!
「外に出るつもりですか?」
体の向きを廊下に変えた瞬間に、声がかかる。
物音一つさせずに動いたつもりなのに……!
思わず硬直してしまった俺を置いて、ガサガサ、という音は続いていく。
も、もうダメだ! 優等生になっちゃうっ!
「――それはいい考えですね」
……え?
予想外の反応に、俺は振り返らずにはいられなかった。
そこには、こちらを向く芙蓉の姿があった。そして手元には教科書……などではなく、重なった二つの箱。
よく見なくてもそれが『弁当箱』ということが、俺にはすぐ理解できた。
べん……とう。あれ? べんきょう、べんとう? どっち?
想像を遥かに超える事態によって混乱する俺に、
「朝ごはん、食べましょう?」
芙蓉は、柔らかい笑顔を見せてきた。