5.転機
翌日。
ショックのあまり寝不足になった俺は、ふらふらとした足取りで寮を出た。
気のせいか、寮のロビーや通学路には俺と同じように動きが鈍い男子が多く見られた。
あれ、うちのクラスの生徒以外の顔もあるような? ……やっぱり五十点は厳しいよなぁ。
ため息をつきながら校舎に入り、下駄箱で上履きを取り出し、いつも通り廊下を進んでいく。
「どーん!」
その途中で、背中に強い衝撃。
体力的に乏しい状態の俺は、耐え切れず前方に吹き飛び、膝から崩れ落ちる。
そのままの体制で振り返ると、そこには腕を伸ばしたまま硬直する椎名の姿があった。
表情は、心底驚いた、と言いたげだった。
「えっ! そ、そんなに力強かったすか!?」
「お、おはよう椎名……いや、ちょっと踏ん張る体力がなくてな……」
「そ、そうだったんすか。ごめんね?」
申し訳なさそうな顔で駆け寄ってくると、手を取り立ち上がらせてくれる。
見た目は派手だけど、優しい子なんです。
「あれ? 今日髪どうしたんすか?」
椎名が整えられていない俺の髪を指差す。
いつもはワックスで形を変えているので、この姿は新鮮なのかもしれない。
「昨日寝つけなくてさ、今朝寝坊しちゃって整える時間がなかったんだよ。とりあえず寝癖は直そうと髪だけ濡らしてきた」
「まーたまたぁ。実は夜遅くまでいやらしいことでもしてたんじゃないすか?」
「気になる?」
「微塵も」
ちょっと泣きそう。
「そ、それでさ椎名、ワックス寮に忘れちゃったんだけど……持ってたら貸してくんない?」
「あ、持ってるっすよ。ついでに鏡も」
「おお、さすがギャルっぽい見た目だけあるな。教室に着いたら使わせてくれ」
「褒めてんすかね、それ」
そんな会話を交わしながら、教室に向かっていく。
「……ん?」
その途中で、俺はある異変に気がついた。
――廊下を往来しているのが、学生だけじゃない。
それは、作業着を身につけた大人たち。でも、学園の教師とは違う。どうやら一般の作業員のようだ。
「なんだ? 工事でもすんのか?」
「うん、何か機械を取りつけるらしいっすよ」
椎名の説明を聞きながら、作業員を見る。
……ふーむ、多くの人が脚立を肩に抱えているなぁ。つまり天井とか高い位置に機械を設置するわけだ。
これから夏がやってくるし、エアコンとかだったら嬉しいな。
「ちなみにっすけど、これは前々からHRで先生が言ってた情報だったりするんすよね」
「いやぁ一日の授業が終わると、疲労でつい眠くなっちゃうんだよなぁ」
「陸っち授業中ほとんど寝てるっすけどね。……ちなみに、話があったのは朝なんすけどね」
「朝は眠気が取れてなくてついなぁ」
「……だから夜、寝られないんじゃないすか?」
昨夜前はぐっすりだったんだけどね。
そんなこんなで、俺たちはⅡ組の教室にたどり着いた。
「よ、和樹」
「おう……陸」
最初に挨拶を交わしたのは、和樹だった。
不思議なことにそいつは、何故か自分の席でダンゴムシのように体を丸めていた。
「どしたんすか?」
「あ、ああ……ちょっと股間が痛くてな……」
「うわ、どんだけ一人エキサイトしたんすか?」
「おいコラ女子」
ちょっとは慎みなさい。
「別にそういうアレじゃねえよ。……オレさ、定期的に意識を失うことがあるんだけどな? いつも目を覚ますと股間が痛えんだ。丸一日経った今でも消えないくらいにさ」
「へ〜、ウチ女の子っすからわからないけど……やっぱり痛いんすねえ」
「まあな。……何つーか、羽交い締めにされた後、下っ腹に力を入れてない状態で誰かに後ろから膝蹴りを食らわせられたような痛みを味わっている気がするんだよな」
もしかしてこいつ天才なんじゃ?
「そりゃそうっすよ。だって陸っちが――むぐ」
悪いことを言おうとした口を封じる。
「心配すんな和樹。俺もよく味わうぞ、その現象。つーか男なら誰でも通る道だ」
「ん、そうなのか? ンだよ、心配して損したわ」
時には真実を告げないことも優しさだ。
「……さて、そんなことよりも椎名。ワックスと鏡貸してくれ。そんで時間ないからできれば手伝ってください!」
お願いしながら、手を離す。
「ぷはっ。……仕方ないっすね、ジュースっすよ〜?」
やれやれと言いたげな顔を作りながらも、椎名はバッグからワックスと鏡を取り出し、やり難い後ろ髪を整えてくれる。
俺は前髪をわしわしと掴んで形を変えていく。
「あれ、そーいや凪っちは?」
その途中で、椎名がそう尋ねてきた。
左に目を向けると、確かにそこは空席だった。
うーん、優等生の芙蓉がHR直前に登校……ましてや遅刻なんてあり得ない事態なんだけど。
「ああ、あいつならもう来てるぞ」
そう言い和樹が指差す先には、女子たちに囲まれている芙蓉の姿があった。
みんな教科書やノートを用意していることから、勉強を教えているのだろう。さすが中学時代、学年上位の成績を収めていただけはある。……というか、よく朝から勉強なんてできるよなぁ。
「……よし、ちょうどいいっすね」
「ん、ちょうどいい? 椎名も教わりに行くのか?」
「ブッブーっす」
む、違うみたいだ。
椎名も俺たちほどじゃないが、成績はあまりいい方じゃない。だから芙蓉を頼ると思ったんだけど。
そう考えていると、椎名が小声で話し始めた。
「……実はここだけの話なんすけど、この学園に入って最初の中間テストって、毎回同じ問題が出題されるらしいんすよ。それも一つや二つじゃないっす。少なくとも十を軽く超えているとか」
「「詳しく」」
「やっぱこういう話には食いつくっすよね。……これは昨日、新聞部で教えてもらった裏情報なんす。部員の人たち、過去の中間テストのデータを記録してたんで間違いないっすよ。つまり過去問通りに勉強すれば、ノルマを達成したも同然ってわけっす」
過去問、か……。
その話が本当なら是非とも使用したい。けど、そのためには上級生を頼らなければならない。
「なあ和樹、親しい先輩とかいるか?」
「ロリコンに年上を求めんな」
「ま、そりゃそうか。椎名はどうだ?」
「残念ながら。まだ入学してから数日っすもん」
「んー、そうだよなぁ……さすがに無理があるか」
人懐っこくて好かれやすい椎名ならもしやと思ったんだけど……。
こうなったら、残る手段はただ一つ!
「仕方ない、強奪するか」
「やむを得まい」
「頼み込むって考えは浮かばなかったんすかね」
「……しっ!」
唇に指を当て、二人に『静かにしろ』と伝える。
気づいてしまったからだ。少し離れた位置からジト目でこちらを睨みつけてくる芙蓉の姿を。
(ど、どうするんすか!?)
(どうすんだよ!?)
椎名と和樹が視線で必死にそう尋ねてくる。
確かに楽をして点数を取る作戦なんて、優等生の芙蓉が許すはずがない……。
過去問についての情報を知られたら最後、先生にチクられ、テストの問題が作り変えられてしまうだろう。それに来年の新入生たちが楽をできず、悲しい思いをすることになる。
……気づかれるわけにはいかない。未来の後輩たち、そして側で震える友人たちのためにも!
「――ッ!」
ブワッ、と。
昔、ヒーローに憧れて正義の味方を夢見た記憶が唐突に蘇る。
……そうだ、俺も勇敢な主人公のように、誰かを助ける男になりたかった。
闇を退ける、眩しい正義の味方に……!
(任せとけ)
自信満々に二人にそう伝えた後、俺は芙蓉と向き合う。
そして……自分が出せる最高の笑顔を見せつけた!
理由は、笑顔が印象をよくするものだからだ。
どんなに疑心を抱いていても次第にその気持ちが晴れ、優しい気持ちに変わっていく。
また、笑顔は伝染すると言われている。
俺の笑顔を見て、芙蓉もまた釣られるように優しい笑顔を表情に浮かべるに違いない。
みんな安心してくれ、これですべてが解決するぞ。
「――何を企んでいるんです!」
みんな助けて。
(……な、何でだ!? あんなに美しい笑顔を見せつけたのに! それに芙蓉の表情が和らぐどころか怒りに満ち溢れているように見えるんだけど!?)
(まあ死ぬほどキモい笑顔だったしな)
(近くで見ててマジ腹立ったっす)
くそっ、眼球節穴どもめ!
「白状しなさい」
目の前に来るや否や、ずいっ、と顔を寄せてくる芙蓉。
その際に揺れた胸元の二つの膨らみを、俺は見逃さなかった。
「なるほど、如何わしいことを考えていたんですね」
芙蓉も見逃さなかったようだ。
……マズいな、さらに疑われてしまった。頭の良い芙蓉をここから騙すのは、さすがに厳しい。下手をすればさらに疑心を抱かせてしまうだろう。
(仕方ないっすね)
何か視線を感じ下を見ると、鏡に映る椎名と目が合った。
直後、パチンとウインクを見せつけてきた。まるで『任せて』と言いたげに。
自身があるみたいだな……よし、頼んだぞ!
「凪っち〜、見て見て?」
芙蓉の意識を、俺から切り離す。
しかし一体、どんな手を――
「ツインテール!」
側頭部に置かれた髪が、一気に持ち上げられる。
間髪入れず、その部位をゴムで固定される。……俺はもう鏡を見ることができなかった。
「ぷっ、これは中々――」
「でしょでしょ? 中々――」
だが、女子二人の反応はウキウキとしていた。
あれ? もしかして……中々似合ってたり?
「「――気持ち悪い」」
わかってたよちくしょう!
「お次はポニーテールっす!」
「ふふっ、これも中々……あ、結衣。わたしにもやらせてください。これをこうして……」
「……あははっ! 凪っち、それは反則っす!」
「元々が残念な見た目だからな。こりゃ面白えわ」
「うっせうっせ!」
そんなこんなで、心に傷を負う代償として、芙蓉を誤魔化すことに成功した。
……まあ正義の味方ってやつは、何かを成し遂げるために自分を犠牲にするもんだしね?