4.絶望は突然に
「えーと……どうしちゃったの? みんな」
一日の授業が終わり、帰りのHR。
先生が、そして周囲の女子たちが、訝しげな表情で見つめていた。
満面の笑みを浮かべる、俺たち男子を。
「ふふっ、何もないですわよん」
「僕たちはいつも通りでございますわ」
「えっ、何これちょっと、大変。どこかで頭打った? 変なものでも食べた? それとも持病?」
失礼なことを言われている気がするけど、全然気にならなかった。
こんなに心を穏やかにさせてくれるなんて、温泉とは素晴らしいものなんだなぁ。
「ねね、マジでどーしたんすか? 陸っち。すんごい緩んだ顔してるっすけど」
「んー? いやあ、温泉が楽しみでなぁ」
「あれ、可笑しいですね。朝はあんなに興味なさそうだったのに。……まさか何か企んで……?」
「はは、人聞きの悪い。考えすぎだって」
……くっ、なんて鋭いんだろうか。
さすがは芙蓉。中学では学年上位の成績を取っていた秀才様なだけはある。
ここでたじろいだら、負けだ……!
崩れ出そうとする表情を何とか抑え込み、俺は笑顔のまま言葉を続けた。
「本当に、ただ温泉が楽しみなだけだよ」
「ふーん……」
芙蓉は少しだけ俺をジト目で見つめた後、
「……疑ってごめんなさい。温泉、楽しみですね」
ニコリと優しい笑顔を作った。
か、勝った! ……けど、罪悪感で胸が痛いっ!
「まぁ……そうね。喜んでくれたならそれでいいか」
先生もまた、それ以上は追求しなかった。
よかった……俺たちの疑いは晴れたようだ。
これで、不安要素の一つがなく――
「――さて、そんな報酬目当てのみんなに報告よ」
と、急に先生の口から新たな話が。
何だろう、言い方から温泉に関係があるものかな?
「今日の朝に、学校行事のプリントを配ったでしょ? 実は職員会議で一つ訂正が入ったの」
訂正?
ざわつきそうになりかけた俺たちを、先生は手をかざしてキャンセルさせる。
広がる静寂、不思議と伝わる緊張感。
先生は勿体ぶるように少しだけ間を開けて、
そして、力強くこう告げてきた。
「――ノルマが『赤点から五十点変更』されたわ!」
再び訪れる静寂。
少しして、この重苦しい空気を破ったのは、
「……ふっ」
耐え切れなくなった笑みをこぼした、女子生徒だった。
「「あははっ!」」
それからは爆発するように、女子たちの可笑しそうな笑い声が教室中に響き渡った。
「なーんだ、全然大したことないじゃない!」
「もう、変にハラハラしちゃったわよ」
「びっくりさせないでよ、先生ー!」
「ふっふ〜、ちょっと脅かしてやろうと思ってね」
楽しそうなやり取りが繰り広げられる。
どうやら女子のみんなはノルマが二十点ほど上がっても、何も問題はないらしい。……それはよかった。まず女子たちが達成してくれないと。空の温泉を除く羽目になってしまうからね。
「……ところで、男子のみんな?」
ここで先生が、顔を俺たち男子に向けた。
「どうして、頭を抱えて蹲ってるの?」
ふっ、その理由は至極単純なものだ。
……俺たちにとっては、大問題だったからだ……!
「五十点とかふざけてんのか! あぁ!?」
「無理に決まってんだろ! そんな高得点!」
「人生で一度も取ったことねえぞ!?」
「……アンタたち、よく高校生になれたわね」
心底呆れた、と言いたげな表情を見せる先生。
ズシンッ!
直後、そんな先生の目の前で爆音が放たれた。
それは、何か生物らしきものが教室の床に勢いよく着地したためだった。
「グウッ! ガルルルッ!」
続いて、獣のような唸り声。
低い姿勢から恐らく先生を睨みつけているであろうその生物は、和樹だった。
どうやら学園長の孫娘を見る機会がなくなったショックが、よっぽど大きかったらしい。
「グルル、ルルルォォシャアア――ッ‼」
マスクがなければ唾液が飛び散りそうな叫びを上げ、地を蹴る和樹。
硬く握り込んだ拳を振り上げ、先生に飛びかかる!
「落ち着け和樹いいッッ‼」
その直前、俺はこの不審者を羽交い締めにした。
「バウッ! バウウッ!!」
めちゃくちゃに暴れるが、何とか押さえつける。
……さすがに、教師に手を出したらアウトだ。その理由がノルマや報酬にあると知られたら、今後の学校行事に関わるかもしれない。今回の温泉がなくなる可能性だってないとは言い切れない……!
「グルァ!」
「どうどう! ハウスッ! ハウスッ!」
「な、何! 何事!? 橘ちゃんどうしちゃったの?」
黒板に張りついて怯える先生。
そうだ、とりあえず事態を説明しておかないと!
「こいつ現実が受け止められていないんだ! 俺たちの中でも温泉を一番楽しみにしていたし! ずっとノルマを達成できると信じていたから、あまりのショックに本来の自分を取り戻しちゃっただけなんだ! どうか許してほしい!」
「ええっ、本来!? それが本来の姿なの!? 何者なのよ橘ちゃん!」
あれっ、気になったのはそっちなのか。
まぁ何がともあれ、これで誤魔化せそうだな。
後は……、
「ふんっ!」
ガラ空きになった和樹の股の下から、俺は侵入させた膝を思い切り振り上げる。
スイッチOFF!
「ギャブッ!?」
耳障りな奇声、鈍い音、膝に伝わる嫌な感触。
次の瞬間、がくり、と和樹は崩れ落ちた。
「お騒がせしました」
俺は失神したそいつを肩に担ぐと、自分の席に戻った。
「あ、あの……大丈夫なんですか? 橘君」
和樹を席に放った後、芙蓉が心配そうにそう尋ねてきた。
こんな変態を気遣うなんて優しいなぁ。俺が芙蓉の立場だったら絶対無理だ。
それどころか、追撃を加えていると思う。
「ああ、問題ないよ。今回は力を抑えたから、もうそろそろ目を覚ますはず。その時にはいつものロリコン野郎に戻ってるはずだ」
「今回『は』ってことは、一度や二度じゃないってことすか?」
「今回で五十回目くらいかな」
「もう子孫残せなさそうっすね」
「こ、こら。そんなこと声に出さないでください」
まったくだ。女子なら少しは恥じらいを持って欲しい。
「……まあでも」
そんなことを考えていると、芙蓉が口を開いた。
「世の中のためになるかもしれませんね」
「「一理ある」」
俺と椎名は頷くしかなかった。
金的は和樹のためでもある。このままではいつか犯罪を起こすことは確定だ。全国の小学生と和樹自身を守るために破壊しておかなきゃならない。
どうせなら、もう一撃加えておこうかな。
「――確かに、橘の暴走はわからなくもない!」
行動に出ようとしたその時、だった。
男子たちが、再び声を荒げたのは。
「先生! マジで頼むよ! 五十点は無理だって!」
「三十点が限界だ!」
「机の上で土下座するからさぁ!」
「……本当、騒がしい人たちですね」
「まったくだ。少しは静かにできないのかよ」
「……だからって、静かに机の上に乗ることが正しいわけじゃないんですよ?」
俺を見上げる芙蓉の表情は、呆れ果てていた。
いや、だって五十点なんて無理だし。取れないし。
「あ、あれ? 篠崎ちゃんも?」
俺を見て、目を見開く先生。
「頭いいんじゃなかったの? 中学の時、クラス順位が一位とか二位とか言ってたじゃない」
「先生、それこの人が三年生だった時の話です。彼のクラスは奇跡的にも成績の悪い生徒たちが集まっていたわけで」
「つまり底辺の王ってわけっす」
「……なるほどね。少しでも、優秀なんだなぁ、と思った自分が恥ずかしいわ。やっぱり人間見た目なのね」
この人ホントに教師なのかな。
と、というか俺はそんなに頭が悪そうに見えるのか? いやいやそんなわけ、
「一理あります」
「一理あるっす」
「よーし泣くぞぉ、今から泣いちゃうぞー」
今日ほど二人が嫌いになる日があっただろうか。
「というか、私に言われても困るのよ。これは学園長の意向だしね」
ガタッ、と。男子の一人が立ち上がる。
「そうか! じゃあ学園長を説得すれば……」
「無理でしょうね、鼻で笑われて追い返されるだけよ」
ガタガタッ、と。今度は男子全員が立ち上がった。
「「「じゃあ脅そう!」」」
「バカ言うんじゃないの! 部屋を追い返されるどころか学校から追い出されるに決まってんでしょ! ……というか、何でそんな物騒な言葉が綺麗にハモるのよ!?」
くっ、中々良い手だと思ったんだけどな。
……それにしても、なんて非道なことをしてくれるんだろうか。五十点を取れだなんて、俺たちにとってはその言葉の方が物騒だ。
「学園長め……それでも教育機関の長なのかよ!」
「教育機関の長だからよ、篠崎ちゃん。……知ってると思うけど、この学園のシステムは『生徒の能力の向上』を目的としているの。努力すればその分、良い思いができる。逆に努力が劣れば悪い思いを受けることになる。つまり、自然と頑張ることになるでしょ? そして自然と能力が身につくわけ」
だからね? と、先生は続ける。
「赤点を回避しただけで恩恵を受けられるなんて甘過ぎる、と学園長は考えたらしいの。まぁ確かにそんなことじゃ能力の向上なんて見込めないものね」
「「なんて捻くれた考えなんだ!」」
「捻くれてんのはアンタたちの頭よ」
ああ言えばこう言う、これだから大人ってやつは!
子供がこんなに苦しんでいるんですよ!
「と、に、か、く! 温泉が楽しみならちゃんと勉強すること。人間、何かを得るためには見合った努力をしないといけないようにできているものなのよ。楽をしようとくだらないアイデアを考えるくらいなら、その時間を勉強に回しなさいね? それじゃまた明日!」
「「「ブー!」」」
ブーイングを受けながら、教室を出ていく先生。
くっ、無視までするのか大人は! もう少し俺たちの言葉に耳を傾けてはくれないのか!
「……ふぁぁ、あ? 何だこの騒ぎ? なあ陸? なぁ」
お前じゃないわ!