11.和樹、死す
「腹痛え……先生、便所行ってもいいっスか?」
二時間目、数学の授業中のことだった。
和樹が苦しそうに手をあげたのは。
「だ、大丈夫?」
優しさに定評のある数学担当の鈴木先生は、口元に手を当てながら心配そうに和樹を見た。
「う、うん。早く行って楽に……あ、一人じゃ辛いよね? 先生、肩貸すわっ」
手に持っていたチョークを急いで置き、和樹の元に駆けつけようとする鈴木先生。
……だが小柄で、言い方は悪いがひ弱そうな彼女じゃ和樹は支えられないだろう。
「あ、先生。俺が連れていきます!」
だから俺はすぐに立ち上がり、和樹を支えた。
鈴木先生に無理はさせられない。
「本当? 篠崎君、優しいのね……先生嬉しい」
うるうると鈴木先生の瞳が緩む。
涙もろさも、優しさの象徴だ。
「任せてください」
俺は笑顔でそう告げると、教室から出た。
そして廊下を歩いていく。トイレまでやって来た。個室まで和樹を引き連れ、俺もまたその隣に入る。構わず膝をつき、洋式便器の中に顔を近寄せ、最後に水を流して、
ジャアアッ‼
「「――俺たちは人間のクズだああああッ‼」」
ゴウゴウッ‼
流れる騒音に、俺と和樹は最大量の絶叫を乗せた。
目の前で起こる渦巻きに涙を落としながら、俺たちは自分の愚かさを嘆いた。
「あんな聖人を騙すなんて……」
「俺たち、天国にはいけねえな……」
ロリコンの和樹でさえ、鼻をすすっていた。
それほどに鈴木先生は心優しい。踏み潰された雑草を見つければ綺麗に整え、害虫を見つけたら殺さず柔らかな笑顔で野生に返すような人間だ。
そんな美しい心を持った彼女を騙すなんてこと、心の汚れた人間でもそう容易くできない。
トイレで思いを吐き出すまでの間、崩壊しそうになる自我を保つのは今までにないほど苦痛だった。あと数秒遅かったら発狂していただろうな……。
「行くぞ……時間がない……」
「おう……」
精神的ダメージによって疲労した体を無理やり動かし、俺たちはトイレを出た。
「……ん?」
瞬間、反射的に向かい合う先にあった窓を見る。
そこには誰もいない中庭の景色があった。
でも、何か視線を感じたような……気のせいかな。
「おい早く行かねえと」
「あ、ああ」
きっと、授業中に出歩いているというこの状況から変に敏感になっているんだろう、といううことにして、歩き出した。
やがて辿り着いた先は、職員室。
そっと覗いてみると、やはり中には誰もいなかった。続いて扉に触れてみると、鍵がかかっていた。
間違いない、今は無人だ。
俺は愛用の針金を取り出し、鍵穴に通す。
……さてこの状況だけど、もちろん偶然じゃない。こうなると理解していたから狙ったのだ。
教師が全員、別の場所で活動するこの時間を。
「しっかしツイてるよなぁ。まさかこんな日に限って無人になる時間があるなんてよ」
「まあな。でも油断すんなよ?」
「おう。何か忘れ物とかで教師が戻って来る可能性だって十分にあるだろうしな」
「……うん、そうだな」
「? ンだよ浮かねえ顔しやがって」
「いや、何でもない。……うっし開いたぞ」
針金をしまい、扉を開く。
昨日は侵入できなかった室内に足を踏み入れると、扉を閉めて鍵をかける。これで誰かが来ても、すぐに隠れれば気づかれないだろう。
俺たちは外からバレないように姿勢を低くさせると、教師たちの席に設けられたロッカーを探り始めた。音を立てないよう慎重に、だが素早く。
……なんかよくわからない資料がたくさん入ってて邪魔だなぁ。重いし無駄に音が出るし、
「――ッ!」
唐突に現れた目当ての宝に、思わず大きな声が出そうになるのを堪える。
それは封筒。
昨日、先生が持っていた物と同じ形をしていた。『中間試験解答』とシールが貼られているので、間違いないだろう。
よし、まずは一つ目だ!
「おい和樹、そっちはど……」
「――そこで何をしているんですかっ!」
和樹の状況を知ろうとした、その時だった。外に通じるガラス戸が開き、教師が姿を現したのは。
瞬時に体を机の下に引っ込めたけど、その特徴的な甲高い声から、それがⅢ組担当の石原先生だということはわかった。
若い橋本先生や鈴木先生と比べると、フレッシュさのかけらもないおばさん……ちょっと言い方が悪くなっているのは、俺は彼女のことが苦手だからだ。
鈴木先生と対照的で非常に厳しく、授業中に怒号を聞かなかった時間は一度もない。石原先生の授業がある日は、みんなテンションが低かったりするほどだ。
なんでも婚期を逃してから生徒たちに強く当たるようになったとか。ホント勘弁して欲しい。
ズカズカ、と強い足音が室内に侵入する。
それは俺が身を隠した机と向かい合う席、先ほどまで和樹が探っていた場所だ。
「私の席を探って……一体なんのつもりです!」
不運にも、そこは石原先生の席だったらしい。
しかし、幸運な点もある。廊下側にいたこともあって、俺は見つかっていないという点だ。まさか外から入ってくるなんて考えてもみなかったため、反応は遅れたけど……助かった。
あとは和樹がヘマをしなければいいんだけど……。
「あなたは確か……Ⅱ組の!」
「ッ!? な、なぜそれを……っ!」
和樹の声からは狼狽えが伺えた。
いやそんなに驚くことはないだろ。そんな見た目していたら誰だって忘れないよ。
「さあ白状なさい。何のためにこんなことを?」
足音が、和樹に近づいていく。
「……そういえば、どうやってここに忍び込んだんです? 鍵は教員しか持っていないはずなのに」
うぐっ、絶対絶命だ!
何か指示を出すか? いや何を!? どうやって!?
けど和樹だけの力でこの状況を打破するのは限りなくゼロに近い。どうする……どうする⁉
「黙っていないで答えなさい! あなたは――」
「――すいませんでした!」
石原先生の怒号を遮ったのは、和樹の謝罪だった。
……でもダメだ、それだけじゃ弱すぎる……!
「それは何に対しての謝罪ですか? そうやって深く頭を下げなければならないほどの行いをしたと?」
痛恨の一撃。
こ、ここから逆転するのは至難の技だぞ……。
「そうです。俺はとんでもない過ちを犯しました」
だが、和樹は予想外の言葉を口にした。
どうした急に開き直って……ま、まさか! 真実を告げるつもりか!?
「過ち、とは?」
「はい。過ちとは……」
は、早まるな和樹! まだ手はあるかもしれない!
そんな俺の助言は届かない。届くわけがない。
ここまでか……!
悔しさで表情を歪める俺など知らない和樹は、その一言を告げた。
「――俺が、先生を愛してしまったことです!」
「「!?」」
俺は目を見開いて、見えない相手の方向を見るしかなかった。
多分、石原先生も同じ表情をしているに違いない。
「そ、それ、それれれは、ど、どどど、ど……」
さすがに動揺する石原先生。
そーっと机を出て確認すると、先生の顔は耳まで真っ赤に染まっていた。
満更ではない様子。どうやら婚期を逃すと見た目が不審者な相手でも問題ないらしい。
「だ、ダメよ! 私とあなたの関係は生徒と教師であって……け、決して恋愛感情なんて抱いては……!」
「生徒と教師だから何だっていうんです! 人を愛する権利は自由だ!」
「そ、それは……でも……」
「わかっています。だから……だから俺は過ちを犯してしまった! どうしても先生を側に感じたくて! 物を盗むという犯罪行為を!」
和樹は悲痛さを思わせる声でそう言い放つと、両腕を石原先生に差し出した。まるで手錠をかけてくれと言いたげに。
……なんて絵になる姿なんだろう。いつかは目の前の相手が警察官になるんだろうな。
「然るべき罰は受けます。せめて最後はあなたの手で……」
「え、ええと。その……ごほん!」
先生は戸惑いを咳払いで消滅させ、言った。
「……確かに、君の行いは認められたものじゃありません」
冷静に見えるが、結構な量の汗をかいていた。
厚化粧が崩れてドロドロになり始めた顔を赤らめて、石原先生は続ける。
「けど原因は、あなたの心を奪ってしまうほどに美しい容姿を持ってしまった私にもあります。今回ばかりは見逃しましょう」
「調子乗んなババア」
ダンッ!
その音は、ちょうど机の上に見つけた消しゴムを窓に俺が投げつけたことによって発生したものだ。
「な、何っ!?」
慌てふためく先生。よかった、先ほどの和樹の問題発言は聞こえなかったようだ。
……まぁ気持ちはわかる。俺も危うく消しゴムじゃなく、側の椅子を先生に投げつけるところだった。
「で、では先生! 俺戻りますんでっ!」
「ああっ待って! 電話番号くらいなら……」
和樹は石原先生が入ってきたガラス戸から逃げるように飛び出していった。
その背中を見つめる石原先生はまるで恋する乙女のような顔をしていた。ドロドロだけど。
思わず椅子を掴もうとして、何とか堪える。せっかく和樹が作ってくれたチャンスを潰すような真似はしたくない。
そのまま石原先生は動かなかったので、あまりにも長いと鈴木先生がさらに心配しそうだし今回は解答を諦めることにした。足音を立てずに扉に近づき、この場所を後にする。
そして廊下をゆっくり歩き、先ほど入ったトイレの前まで辿り着くと、
「か……かが、か……か……ハっ……」
掠れた声をこぼして倒れる和樹を見つけた。
マスクの隙間からは泡がこぼれ出ている。
まるで陸に上げられた魚のように、びくんびくんと痙攣している。
……そうか、同年代が老人に見える和樹にとって石原先生は、もう醜い怪物とも呼べる存在だったんだろう。
それと向き合い、愛の告白なんて考えただけでも恐ろしい。よく実行し、石原先生から逃れるまで自我を保ったものだ。
「よ、よう……じょ、の……は、だ……か……」
和樹の弱々しくも、確かな力が込められた声に涙が出そうになる。
お前の桃源郷に対する熱意、受け取ったぜ……!
俺は和樹を担ぎ、教室に向かっていく。
「……それにしても、やってくれるな」
俺がこぼした言葉は、和樹に向けたものじゃない。
――側に設けられた窓から忌々しそうな顔で見つめてくる芦澤に対してだ。
閉まっているから声は聞こえないだろうけど。
この時間、Ⅰ組は石原先生が担当である美術の授業を受けているはずだ。この授業は室内だけでなく、外で行うことも多い。石原先生が外から現れたのはそのためだろう。
そして先ほど感じた視線。それはやつのものだ。
この瞬間まで運が悪く先生が戻ってきたと思っていたけど、芦澤たちⅠ組がそうなるよう仕向けたんだろう。外ということを利用して、俺たちの様子を確認して、カウンターを食らわせようとしてきた。恐らく、甘いマスクと巧みな話術で石原先生を職員室に向かわせたのだろう。
今の芦澤の表情から、相当な自信があったと見える。
でも確かに、鍵のかかっているはずの職員室に忍び込み、引き出しの中を探っている姿を発見されたら、普通は逃げようがないもんね。
(残念だったな)
俺はそうおちょくるように舌を出して見せると、教室に向かって歩いていった。