詩とメロディーに親和的な休符について
そうだ。前から言いたかったことがある。詩のスタイルのことである。空行の濫用に関してである。誰かが何処かで言っていた(なんて無責任)が、「空行を入れると詩っぽくなる」ということである。それはリズムの問題であった。わたしも詩を書き始めた当初(三年ほど前か)は、そのようなスタイルをとっていた。(最初に書いた詩らしきものはまさしくそうだった)しかし、詩(散文詩ではなく行分けの詩)がなぜ空行を必要とするのか。それは塊としての詩句があり、そこから次の詩句へ移る時に必要となるからだ。或いはもっと高度な技法として行われる場合があるが、それはここでは置く。そもそもわたしはそんな技法は使えないし、一般的にも難しすぎるのではないかとも思う。マニア向けであろう。さて、それよりも初心者の話である。このなろうにおいては、僭越ながら殆ど(全てとは言わない)初心者の域を出ない詩書きばかりである。詩人とは最早如何ともし難い塊から逃れようとするごとく抗うものだとわたしは考えている。そしてそれでいて言葉を持っている。オリジナリティなどという生易しいものでなく、切って噴き出る血のようなものである。ここにとって、空白行の必要性はどうか。生々しすぎる文字列の体裁を整えるべく、それは伸びた髭を剃るような、蓬髪を整えるような、荒ぶる息を鎮めるような、そんな休符としての拍である。詩文の文字列は五線上の音符たちに似て、走り、休み、急ぎ、緩み、上がり、下がり、連なり、延びる。自由詩もまた軽々と小節を跨ぐ。わたしが最近感じているスタイルでは、メロディーと同じく詩にも必ず緩急が必要なのだ。それはリズムとなって読み手と調和するための大切な独自の定型となる。書き手と読み手はそこで等しく進み、そして休む。そのための休符として、空白行はあるべきなのだ。
一度、自分の書いた詩の空行を全て削除し、読み返して下さい。その上で、必要と思われる行に空行を入れる。勿論、その前に必要なら推敲することが重要ですけれども。