後追う者
常に言葉のシーンは後追いされなければならない。皆が先を争うアートシーンにおいてさえも。そうして思索のシーンにおいても。閃きを可視化することを表現と呼ぼう。全ての糧は閃光の一瞬のために。そうして恰も退屈に、そうして熱を持って具象化していく表現を。熱の中で加熱していく赤銅の迸りとなり、光は具体的なディテールを要求する。作家の技量とはそのためにあり、そしてその中で磨かれていく。新しさというものは常に満ちている世界そのものであるから、わざわざ求めるものなどではなくて、流星群のように降り注ぐ捉え切れようもない膨大なものたち。振り向く暇すらなく我らは溺れるように虚空へ手を伸ばす。肉体的な運動によりニューロンが繋がり感覚が突き抜けていく。わたしたちは誰かが言う脳活動制限10%の神話の残りの領域に隠れている姿なき支配者。そうして奴隷化された知性活動の道具。意思や意味という趣味嗜好を超えて広がる物理世界の有限と果てしなき時間という矛盾した無限の中で、漂うことも許されず唯一つ明晰であることだけを求められている。見えぬものが流れ込む。聞こえぬ声が止まない。記憶の香が馥郁と或いは苦々しく甘く漂う。時が止まる。思考が言葉を置き去りに遥か先へ先へと閃いていく。そうだ。わたしたちは後追う者だ。無軌道に明滅するように飛び回る光点としての閃きを追って、その先にあるはずの何かへ再び溶け合うために。もっと近くへ。もっと近くへと。
ファンタジーは事実のメタファー。願望である世界の奥底にあるものを見る。或いはべりべりと壁紙を剥ぐように。全ての空想の根源とは。あのはっきりと見える、それでいて形容しがたいものを。見失いがちな眩しさを。わたしたちは追いかけている。