鏡恐怖症
葉桜が目立つ様になった頃、私は出張で名古屋に行った。二日にかけて新築ビルの内装を決める仕事だ。初日の仕事を早めに切り上げ、ビルのオーナーと飲みに行った。居酒屋では様々な恐怖症が話題に上がった。どうやらオーナーは高所恐怖症らしく、社長室が上層階にあるのが不安らしい。高いところが苦手ならもう少し低い場所に社長室を設ければよかったのではないか。次は君の番だと言い酒を注いでくるので、私はこんなことをぼやいた。
私はなんとなく鏡が苦手だ。それは決して自分の顔が醜くて嫌になるーーといったものではない。なんとなく鏡は怖い物と刷り込まれてきたのだ。昔から鏡には伝承や迷信というのはつきもので、漫画やゲームでも日常と非日常の境界の様に表現されてきた。そのためか、部屋の鏡に対してどうしようもない恐怖を感じる。出先の洋服屋にある姿鏡などは全く怖くないが、家にある鏡にはどれも恐怖を感じる。特に自分が寝ているときは、必ず鏡が目に入らない様配置する程だ。
こんな話を聞いたオーナーは、ビルのトイレにはちゃんと鏡をかけておいてくれよ。と冗談を言った。
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オーナーと別れ、予約したビジネスホテルに着くと夜の9時半であった。翌日の仕事は特に早いという訳でもないので、買ってきたアイスを食べながらダラダラとテレビを見ていた。
特にやることがなく暇だったからか、うたた寝をしていたらしい。手元のスマホを見ると、夜の12時を回ったところらしい。朝早く起きる必要もないので、シャワーでも浴びようかとぼんやりしていた。少しして、ふと違和感を覚える。部屋が静かなのだ。賑やかしにテレビをつけっぱなしにしていたのだが……と思ったが、気にせず起き上がろうとした。そしてさらなる違和感に気づいた、部屋の照明がついていないのだ。私の身体は少し強張った。もともと私は怖がりということもあり、出張先のホテルでは滅多に照明を消したりしない。時間で照明が消えるタイプなのかとも思ったが、そんなホテル今まで宿泊したことはなかった。とにかく照明をつけようとして部屋を見渡すと、直視したくないものを見つけた。
……鏡だ。
大きな鏡が、机の上に設置されていた。ほろ酔い状態で部屋に入った時は気にもしなかったが、恐らく始めから設置されていたのだろう。暗がりで見える鏡はとても不気味なものだ。私は極力直視しない様ベットから這い出ようとしたが、どうしても横目で鏡を見てしまう。勿論鏡に変なものが映っている訳ではないのだが、直視したら何か見えてしまいそうで気が気ではなかった。
無事ベットから這い出て立ち上がる。都会のビジネスホテルということもあり、慣れるとそこまで暗い部屋ではない。外から漏れるネオンの光が今は心強かった。少し落ち着いて部屋の照明スイッチを確認すると、スイッチはオフになっていた。スイッチをオンにすると問題なく照明はつく。試しにテレビの電源をいれると問題なく番組が流れる。
唐突に不安になった。何かおかしい。テレビはともかく、部屋の照明が勝手に切れるのは不自然だ。今思えばカーテンも始めは閉まっていなかったか。そう考えていると、とても不気味な感覚に陥った。こうなっては落ち着いて眠ることはできない。開いていたカーテンを閉め、テレビはなんでもないバラエティに変更しておく。恐る恐るユニットバスも確認したが、変な物は無かった。それでもなかなか落ち着かなかった。ふと、机の上の鏡に目がいく。やはりベットのすぐ近くに、こうも大きい鏡があると落ち着かない。どうしても何かの気配というか視線というか、そういった不気味な物を感じてしまう。そこで試しにバスタオルで鏡を隠してみる。すると少し気分が落ち着いた。そこに鏡があるという不安までは拭えなかったが、なにもしないよりはマシだった。この日はこのまま無理矢理眠る事にした。
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朝、予定通りに目がさめる。多少眠気も残っているが、比較的爽やかな目覚めだ。部屋を見渡しても特に異常はない。やはり昨夜のことは何か考えすぎていたのだろうか。
朝のシャワーを終え、テレビをつけながらバスタオルを手に取る。直ぐにバスタオルが不自然に湿っているのに気づいた。疑問に思い少し考えていると、机の上に設置された大きな鏡に目がいった。その表面は冬場のガラス窓の様にひどく結露していた。そして気づく、このバスタオルは昨夜鏡を隠す為に使ったものだと。
私は急に不安になった。昨日今日で大きな気温変化があったとは思えず、ホテルの部屋に加湿器がある訳でもない。どうしてもこの現象に説明がつけられなかった。
どうにも落ち着かない私は、早めにホテル出た。サラリーマン達が足早に駅へ向かう、なんでもない日常の光景があった。私も急ぎ足でホテルを離れ、近くの喫茶店に入る。そしてホテルでの出来事を思い出さないよう集中して仕事の準備をしていた。
今回の出張で私の鏡恐怖症は治るどころか悪化した。勘違いや考えすぎなのかもしれないが、やはり鏡は不気味な物だ。これからも私は出張等でホテルに泊まる事があるだろう。そのときは真っ先に鏡を隠すに違いない。