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坂の途中の秘密

作者: 叶 こうえ

 ピンポンピンポンピンポーン、とインターホンを連打する音が耳に飛び込んできて、美恵子は反射的に「ハッ?」と息を吸い込み、瞼をこじ開けた。蛍光灯の白い光が目に痛い。もう一度目を閉じこめかみを押さえていると、相変わらず鳴りつづけるインターホンに加え、拳でドアを叩く音まで聞こえてくる。急かされている。ドアの外には複数人いるのかもしれない。若干の警戒心が生まれるが、出なければしつこくノックされそうで余計怖い。美恵子はソファから体を起こし、居間と廊下の境目にあるインターホンに向かった。視界に入ってきた壁時計は七時を差している。この夕飯時に、何事だろう? 受話器を取り耳に当てる。

「はい、どちらさまですか?」 

「ちょっと、すいません! お宅のガレージ、見せてもらえますっ?!」

 思わず耳から受話器を遠ざけた。まずは名乗ったら? と言いたくなったが、声の主はすぐに分かった。よく家の前でおしゃべりをするご近所さんだった。夏目亜里沙。四十歳の美恵子より一回り若いシングルマザーだ。

「ちょっと待ってね」

 ご近所さんだと認識した途端、体から力が抜けた。美恵子は警戒を解き、外向きの笑顔をつくった。人ひとりが通れるほどの狭い階段を下り、玄関ドアの前に立ち、念のため魚眼レンズを覗いた。正解。茶髪のショートカットに、きちんとしたメイク。化粧なんかしなくても十分綺麗なのに、亜里沙はいつもアイラインとマスカラを施している。そんな彼女は近所、いや北区で一番の美貌なのではないか。少なくとも、芸能人になれるレベルだと、美恵子は思っている。

 ドアを開けると、バニラエッセンスのような香りが漂ってきた。前はフローラル系の香水をつけていたはずだが。どちらかと言うと、美恵子は前の香りの方が好きだった。

「やっと出てきた! 早くガレージを開けてくださいってば!」

 亜里沙が険しい表情でこちらを睨みつけてきた。今にも掴みかかってきそうな勢いで、美恵子に向かって身を乗り出してくる。どんな時も笑顔を欠かさない亜里沙の行動とは到底思えない。息は乱れ、顔は蒸気し、額からは汗が噴き出ている。――只事ではなさそうだ。

「わ、わかったから……ガレージを開ければ良いのね?」

 事情を聴くことさえ許されない雰囲気だ。亜里沙の体を押し返し、玄関から外へ一歩踏み出すと、訪問者が一人ではないことに今さらながら気が付いた。

「あ、渡瀬さん」

 おろおろしたような表情で、美恵子の方を見つめてくる。私は知らないわよ。たまたまここに居合わせただけなのよ――そう言いたげな面持ちだ。

「立吉さん! 早く!」

 亜里沙が足踏みをし出した。ぼやぼやしている場合ではなさそうだ。

 訳がわからないまま、美恵子は下駄箱の上に置かれたリモコンを手に取り、二人を連れてガレージに向かった。


 美恵子の家は、坂のちょうど曲がり角に建っている。郵便受けの横伝いにガレージがあり、今は灰色のシャッターがきっちりと閉まっていた。

「開けるよ」

 美恵子がリモコンの開ボタンを押すと、オーバースライダータイプのシャッターは音も立てずに上がり始めた。十秒程度で上がりきるというのに、それを待たずに亜里沙が体を屈めてガレージの中に入っていった。渡瀬がそれに続くので、美恵子もつられて中に入り、壁に設置された照明ボタンを押した。

「沙菜! さなぁ!」

 悲鳴に似た声で、亜里沙が何度も娘の名前を呼び、車の下を覗き込んでいる。渡瀬もそれに倣っているので、美恵子もとりあえず、ガレージ内を見渡した。照明のお蔭で、ガレージの中がはっきりと見える。車二台分を収納できるスペースには、黄色い軽自動車が一台。持て余すはずの空間は物置と化し、そのほとんどが埃をかぶった不用品だった。使っていないDIY用具、作りかけの折りたたみテーブルと、手をつけていない木材。夫の趣味のエレキギター数台。空気の抜けたビーチボール、三輪車。軽自動車と壁の間に、十年近く使っていない大型のベビーカーも置かれている。ああ、これは私が捨てなくちゃ――そう思ったと同時に違和感を覚えた。空っぽのはずのベビーカーになにか――

「沙菜! よかった! いた!」

 美恵子よりも早く、母親の亜里沙が娘を探し当てた。亜里沙はベビーカーに走り寄り、座りながら寝息を立てている我が子を、掬い上げるようにして胸に抱いた。感動的なシーンなのだろうが、美恵子にはさっぱり訳がわからず、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

 ――はぁあ? なんで我が家のガレージに他人の子供がいるのよ?

 

 玄関に二人を待たせ、美恵子は三階の息子の部屋に向かった。ノックをしても名前を呼んでも返事がない。――うちの子にも何かあったんじゃ……。胸騒ぎを覚え、勢いよくドアを開けた。

「優、なにやってんのよもう……」

 拍子抜けして、美恵子は廊下にへたり込みそうになった。

 目の前には、息子の丸まった背中、その一メートル先にはRPGゲームの画面が映し出されたテレビがあった。息子の優は、ヘッドホンを装着して、夢中になってコントローラーを連打している。

 美恵子はずかずかと優の背中に近づき、彼の頭からヘッドホンを分捕った。

「あんた今日、家に帰って来たときガレージ閉めた?」

 呆けた顔をした息子が、不思議そうに目を瞬かせ、考えるように首をかしげながら「うん」と答えた。

「だって、開いてたら閉めてっていつもお母さんが――」

「中に人が居たのよ」

「ええ? うそ?」

 驚いたように目を見開き、優が頭を横に振る。

「知らないよ。人がいるなんて。誰がいたんだよ?」

 これは嘘をついていないな。息子の反応を見て、美恵子は内心、胸をなでおろした。

「今日はいつもと同じ時間に帰って来た?」

「うん。六時半。お母さん寝てたよね。ただいまって言ったのに返事がなかった」

 亜里沙が沙菜のお迎えを終え、美恵子の家の前を通るのも、いつも大体六時半。度々、我が家の門扉の前でママ友としゃべっているのを見ることがある。今日もそうだったのだろう。美恵子の家は、数本の道が分岐している場所にある。ママ友と話が盛り上がって別れが名残惜しいとき、美恵子の家の近くでぐずぐず話しつづける保育園帰りの女性は亜里沙以外にもいた。

「あんたが帰ってきたとき、家の前に夏目さん、いなかった?」

「家の前に人が立ってたのは見えたけど……ガレージ閉めてすぐ家に入ったから顔まで見てないよ。暗かったし」

 

「じゃあ、お宅の優くんが、うちの子が中にいるのに気付かないで、ガレージのシャッターを閉めちゃったってことですよね」

 ぐっすり眠っている幼子を抱っこしながら、亜里沙は怒りが冷めやらぬ様子で捲し立ててくる。

「まあ、そうみたいね。うちが不注意だったかもしれないね。ごめんなさいね」

「そもそもガレージを開けっ放しにしてるのがおかしいわ」

 空気と化していた渡瀬が、初めて口を出してきた。美恵子はなぜかムッとした。同年代だし、本来なら仲良くしたい女性のはずなのに、どうも彼女とは反りが合わない。

「こちらにも落ち度はあったかもないけど……あなただってね、きっちりお子さんのこと見ていればこうはならなかったでしょ。どうせおしゃべりに夢中で、子供がいなくなったのにも気が付かなかったんでしょ」

 渡瀬を無視し、強気になって亜里沙に言い返す。下手に出て、慰謝料をふっかけられたりしたら困る。大体、こちら側に落ち度なんてあったのだろうか。ガレージを開けっ放しにしていたのは、すぐにまた車を使う可能性があったからだ。午後六時を過ぎると仕事の電話がかかってこないから、学校から帰宅したときにシャッターが開いていたら、手動で閉めてと優に日頃から頼んでいた。息子が人の気配に気が付かずシャッターを閉めたのも、ガレージの中が薄暗かったせいだろう。サッカー部で体を動かしてきて疲れていて、わざわざガレージの中をチェックする気力はなかったはずだ。――帰宅後ゲームをしていたが……とにかく、これはどう考えても不可抗力だ。

「……ちょっと、聞いてます?」

 亜里沙の怒りを含んだ声が、美恵子の物思いを蹴散らした。

「この子の目元、見てくださいよ。赤くなってる。ガレージの中で泣き叫んでいたはずなんです。それなのに気が付かないなんて……」

 ――あんただって気が付かないで、ペチャクチャしゃべってたんでしょ。

 言い返したくなったが美恵子は堪えた。これ以上喧嘩腰で話し合っても不毛なだけだ。

「ほんと、ごめんなさいね。主人がエレキギターを弾くもので。ガレージで練習したいからって、防音対策をしっかりしてるんですよ」

 例え防音でなくても、気が付かなかったかも。美恵子はぼんやりとそんなことを考えた。息子は自室で周りの音を遮断してゲームに熱中していたし、美恵子自身はソファで眠っていた。

「そろそろ帰ってもらえる? まだ夕飯の準備もしてないのよ」

 まだ文句を言いたそうな二人を、無理やり玄関から追い出した。

 

 とりあえず家長には報告しておかないと、と美恵子は帰ってきたばかりの夫に、先ほど起こった事件を事細かに話して聞かせた。

「菓子折りでも持って、改めて謝りに行った方が良いんじゃないか」

夫は事なかれ主義で、自分が悪くなくても空気を読んで謝るタイプだ。こういう性格は、ある程度までは出世できるが、必ず頭打ちになる。四十半ばになっても係長止まりの夫は普通なのか。それ以下なのか。就業時間のほとんどは、車を運転して外回りの仕事をし、出勤と退勤の時間を打刻するために江東区にある会社まで赴く夫。頭が下がる思いだが、なぜ出世できないのよと、情けなさと呆れを感じてしまう自分がいた。創業者が沖縄出身、上層部もその親戚が幅を利かせ、東京生まれ東京育ちの夫は不遇な目に遇っているのか。まさか。そんな理不尽なことは、普通ないだろう。くたびれたネクタイを気怠そうに解く、至ってふつうの中年男を眺め、美恵子はポスティングより割りの良い仕事はないかしら、と思案した。家計の足しになればと時間の自由がきく歩合制の仕事を選んだが、息子ももうすぐ中学生になるし、そろそろ真面目に正社員の仕事を探した方が良いかもしれない。

 夫の外したネクタイが、いつの間にか隣の椅子の背もたれに掛けられている。皺になるのを恐れてのことだろう。

「もしくは、沙菜ちゃんが好きなキャラクターグッズをあげるとか」

「キャラクターグッズねえ。好きな動物は熊だって言ってたかな。この前沙菜ちゃんを預かったとき、優と森のくまさんごっこをしていたし……って、ちょっと。私はね、優にも私にも落ち度がないと思うのよ。普通に考えてみてよ。自分の家のガレージを開けようが閉めようが、こっちの自由でしょ。それにこれってさ、不法侵入ってやつじゃない?」

「三歳児に向かって不法侵入って、お前……。故意じゃなくても、ガレージに三歳の子供を閉じ込めたんだから謝った方が良いんじゃないのか、人として」

呆れた顔をして、夫は手抜きだらけの夕飯に箸をのばした。豚コマ肉とカット野菜の炒めものと、ストックしてあった冷凍食品の餃子と春巻き。文句を言わず食べてくれることに感謝しつつも、意見の合わない夫に苛々する。

「じゃあさ、ネットの質問サイトで、どっちが悪いか聞いてみない?」

「アホか」

 ――なによ、亜里沙ちゃんには甘いんだから。

 夫は、亜里沙が歯科助手として務めている医院の常連だ。一度知覚過敏で診察を受け、その後は定期健診やら歯石取りやらで、一ヵ月に一度は歯医者に通っている。本人は近いから通いやすくて、と言っているが、本音はこうなんじゃないかと思う。

 ――たまには俺だって美人と接近したいぜ。

妻としては面白くないが、男なんてそんなものだろう。女の美恵子だって、不細工な歯医者に診てもらうより、イケメンに診てもらった方が嬉しい。仕方のないことだ。ただ、美恵子も夫と同様、顔の骨格がしっかりしていて歯並びが良く、歯磨きも上手にできるので、なかなか歯医者にお世話になることがない。

 夫とは亜里沙が原因で喧嘩をしたことが何度もある。彼女が何かをしたというわけではない。夫が折に触れて彼女の容姿を褒めるので、美恵子が怒り夫婦喧嘩が勃発するのだ。

 ――だったら私より、もっと綺麗な人を奥さんにすれば良かったじゃない! と、啖呵を切ったのが半年前。その後夫は、一切彼女の話をしてこなくなった。喧嘩が減り、平穏な日々が戻ってきたと安堵していた矢先に、この騒動が起こってしまった。

夫は食べることに集中し始めた。一応報告が終わりスッキリすると、今度は睡魔が襲ってくる。そういえば今日は、良い気分で寝ているときにピンポンで叩き起こされたのだ。

「この件はもう、終わりにしてほしいわ」

「近所に住んでるんだから、お互い納得するまで話し合えよ」

 他人事のように言う夫の手元に、無言でお茶の入った湯呑を置く。美恵子は寝室へ向かうべく、夫の顔も見ずに「おやすみ」と言って台所を後にした。


 翌日の朝は雲一つない快晴だった。にも拘わらず、夫と息子を送り出した後、洗濯機を回したまま二度寝してしまい、起きたときは正午過ぎという体たらくだった。美恵子は慌てて三階のバルコニーに行き、洗濯物と布団を干すことにした。布団を干そうと手すりを軽く雑巾で拭く。年季の入った手すりはサビで茶色くなっている。築五十年の我が家は、ちょこちょこリフォームをしているものの、外観はかなり老朽化している。

「引っ越したいなあ」

 夫の両親から譲り受けたこの家を、完全に倒壊して建てなおすのと、家を売り払い近県の、少し不便だが安い土地を購入して家を建てるのと、どちらが得策なのだろうか。美恵子が住んでいる北区は、都内の割に自然が多くあり、子育てをするにはもってこいの場所だ。家の前の坂を上り続けると、亜里沙の娘が通う保育園が見えてくる。優が一歳から小学校に入るまでの間、通っていた保育園だった。保育園の送り迎えをする亜里沙と、坂の途中で会話をするようになったのは、一年ほど前からだ。最初は挨拶程度だったが、子供が同じ保育園に通っていたこともあり、自然と立ち話の時間が長くなった。亜里沙は社交的な性格だった。おしゃべりで、噂話にも敏く、話題に事欠かないし、いつも笑顔。人気のある地元の歯医者で働いているため、保育園近辺にも知り合いは多くいた。

かつては美恵子も、正規雇用で働いていた。

「辞めないほうが良かったかもなあ」

短大を出て、新卒で入社した会社だった。勤続十年を超え、居心地はよく、仕事の内容にも文句がなかった。事務職だったから、体も楽だった。だが、優の小学校進学と同時に退職した。時短勤務が適用されなくなり、定時の七時まで働かなくてはならなくなったからだ。子供が未就学の間しか、時短勤務を認めてくれない会社だった。お互いの親に助けを求めることもできなかった。美恵子の両親はすでに離婚しており、それぞれ新しい家庭を作っている。夫の両親は、義姉家族が住む新潟へ移住した。美恵子がここに嫁ぐ当初、二世帯住宅に改築し、同居をする話も出ていたのに、突然義両親が「その話はなかったことにしてくれ」と言ってきた。あの時、もっと話し合いをしておけばよかった。義両親と同居していれば、美恵子も正社員の職を失わずに済んだかもしれない。

 ――後悔しても後の祭りだ。美恵子は後悔の念から逃れるため、お気に入りの場所を思い出しながら、青空に溶けた景色を眺めた。

ここから見渡すことができるゲーテの小路を上りきれば、すぐ近くに桜の名所である飛鳥山公園があるし、息子のお宮参りでよく利用した王子神社もある。結婚してからの十二年間、お気に入りの場所は増えたり減ったりしている。

 手すりに干した布団に顔を埋め、暖かい陽射しを体全身で受け止めた。日当たりは良好だ。立地的には、短所よりも長所のほうが多い気がする。洗濯物の入ったカゴに手を伸ばしたとき、ジーンズのポケットに差し込んでいた携帯電話から、着信音が流れる。このメロディは、亜里沙のものだ。少し緊張しながら、通話ボタンを押した。

「もしもし、亜里沙ちゃん?」

「昨日はごめんなさい。勝手にガレージに入った沙菜が悪いのに、美恵子さんを責めてしまって」

 亜里沙のしおらしい声に、美恵子はほっと溜息を吐いた。一晩経って、冷静になってくれたらしい。

「ううん、こっちもね、不用心だったって反省してるのよ。これからはその都度シャッターを閉めるから」

「――ただね、沙菜が少し、気になることを言ったんです。ガレージに亀がいるよって言われて、それで見に行ったんだと」

「……え? 誰に言われたの?」

 それが本当なら、立派な事件ではないか。

「問い質しても答えてくれないんですよ。そもそも亀の話が本当かもわからないし、私の聞き間違いかもしれないし。三歳の子供が言うことですから」

 たしかに、沙菜の話を百パーセント信じるのは危険だ。もしかしたら「誰かに呼ばれた気がした」とか、「薄暗い場所に亀がいそうな気がした」だけなのかもしれない。

「それで、美恵子さん、今日も渡瀬さんのおうち、洗濯物干してます?」

 要件はこちらの方か。美恵子は向かい側にある二階建ての一軒家に目を向けた。美恵子の家とは雲泥の差だ。新築で汚れ一つないデザイナーズハウスに夫婦二人で住んでいるらしい。引っ越してきて一年経っていない。こんな素敵な家に住める渡瀬夫婦が、正直羨ましい。

「美恵子さん?」

耳元で、急かすような亜里沙の声がする。美恵子は慌てて二階のバルコニーの様子を窺った。いつものように、物干し竿には、ワイシャツやカットソー、フェイスタオルを掛けたハンガーが、等間隔に並んでいる。スラックスやジーンズは、物干し竿に直に干されている。一際目立つのが真っ白い制服のような上着だった。縦二列に三つずつ白いボタンが施されている。コックコートに見えなくもない。ご主人は料理人かフード系の職人なのかもしれない。渡瀬家のバルコニーで、角ハンガーを見かけたことが一度もなかった。重力によってタオルやボトムに洗濯バサミの跡がつくのを嫌ってのことかもしれない。だとしたら、ずい分神経質だな、と美恵子は思った。

「いつものように、きっちり干してるわよ。ていうかさ、なんで渡瀬さんに直接聞かないの? 私になんで電話で聞いてくるのよ。仲良しなんじゃないの? 昨日も一緒に来たし……」

「全然ですよ。偶然渡瀬さんが通りかかったから、一緒に沙菜を探してもらっただけです」

 だったらなぜ? 渡瀬家を気にする亜里沙が不可解でならない。

「美恵子さん、前に私、理由は聞かないでって言いましたよね?」

 しおらしさはなりを潜め、ツンケンした声音に変わっている。

「ごめんごめん、もう聞かないから。それより、よくうちのガレージに沙菜ちゃんがいるって分かったね」

 昨日から不思議に思っていたことだ。

「沙菜ちゃんが中に入ったのを、直接見たわけじゃないでしょうに」

「そうなんですよ。私、話に夢中になってて、沙菜が横にいないのに気づかなかったんですよ。園のママ友と別れたあとにいない! ってなって。保育園まで戻ったら門は閉まっているし……もう警察に届けるしかないって思ったとき、渡瀬さんが通りかかって」

 渡瀬が「もしかして、立吉さんのガレージに入っちゃったんじゃない?」と言い出したそうだ。それも早い段階で。ちょっと不自然な気がして、美恵子はもう一度向かい側の家を眺めた。

 ――もしかして、あのバルコニーから一部始終が見えていたのではないか。

「渡瀬さんって、病的なほど神経質ですよね。たまーに立ち話もしますけど、毎回あの人の手が気になるんです。ボロボロなんですよ。ただの手荒れって感じじゃなくて、頻繁にアルコール消毒してるような手。喋っててもあまり楽しくないから、最近は挨拶しかしませんけど」

 ここまでぼろ糞に言うということは、本当に仲良しではないらしい。

「ご主人とは仲が良いみたいですけどね。ご主人の携帯を見ても怒られないみたいだし。でも渡瀬さんが神経質すぎて、自然妊娠は無理なんでしょうね」

 亜里沙の声は、子供の成長を話すときのように明るい。

 渡瀬が不妊治療中だということは、美恵子も噂で知っていた。本人から聞かなくても、そういった類の話は道端での世間話で仕入れることができてしまう。自分だって何を言われているか――そう思うと、憂鬱な気分になる。

 予定が合えば今月中にお花見に行きましょう。社交辞令の言葉で亜里沙との電話を終わらせ、洗濯物を干し始めると、渡瀬がバルコニーに姿を現した。てきぱきと、干していた洗濯物を白いカゴに回収していく。朝早くに干していたのだろう。これから出かけるのだろうな、と予測できた。いつもなら挨拶ぐらいはするのだが、昨日のこともあって声をかけづらい。美恵子は向かいから目を逸らした。携帯をネットに接続し、天気予報を確認すると、午後から夕方にかけて降水確率が二十パーセントになっている。ちょっとでも雨の降る可能性がある日は、洗濯物を必ず取り込んでから留守にする。――神経質すぎて疲れたりしないのかしら。大雑把な美恵子は、渡瀬の張りつめたような顔を見、変に甲高い声を聞く度に、窮屈な気分になり息苦しくなる。

 洗濯カゴから、裏返しになっている五本指ソックスを取り出した。手間だがいちいち表側に返し、内側に入り込んだ指の部分も外にしっかり出して干す。下着は裏返してから洗うという拘りが、夫にはある。一度表に返さずに、指の部分も引っ張らないまま干し、乾いたものをそのまま夫のタンスに入れて怒られたことがあった。これじゃあ指の部分がきちんと乾かないし、形が崩れるだろう! と。それからはいちいち形を整えて干しているが、美恵子には面倒でならない。

 ――ああ、我が家にも、程度は違えども神経質で几帳面な人間が一人いる。小言を言うくせに自分では何もしない夫の方が、渡瀬よりも始末が悪いように思えた。


 家事を終え、手早く昼食を済ませてから、美恵子はポスティングの仕事に出かけた。乗り慣れた軽自動車の後部座席に、広辞苑二冊分のチラシを積み込み、運転席に座った。北区は狭い車道兼歩道と、急な坂道が沢山ある。運転に苦手意識がある美恵子には、軽自動車ぐらいしか気を楽にして乗れない。

「今日はどこにぶち込もうかなあ、このチラシを」

 途方に暮れるほど大量にあるチラシを短時間でさばくには、セキュリティの緩い大規模マンションを狙うしかない。マンション集合地だよねえ、とひとりごちて、ジョギングコース付きの大きな公園が隣接したマンションを目指すことにした。車庫から車を出し、そのまま坂を下り、つかの間の平坦な道を進む。二車線ある大きめの車道を少し走って左折すると、今度は急な上り坂が見えてくる。道音坂だ。道端には早咲きの桜が咲き乱れ、風で流れた花びらがちらちら目の隅に映る。少し坂を上ると都電の踏切が出現し、その近くに亜里沙の住むアパートが見える。

 踏切が上がるのを待つ間、彼女のアパートを視野に入れつつも、フロントガラスに反射する太陽光に目を細めた。その時、アパートの入口に張られているネームプレートが、まっすぐになっていることに気が付いた。「コーポ松田」という、黒のサインペンで手書きされた白い名札は、いつもここを通るとき、少しだけ右下に傾いているのだ。ずっと傾いたままだったが、アパートの住人が今さらながらに気が付いてなおしたのか、たまたま通りかかった神経質な人がなおしたのか。そこまで考えた時、自然と渡瀬の顔が頭に浮かんだ。

 踏切を通過し、何度か利用したことのある広いコインパーキングに車を止める。先客は一台だけで、運転が得意ではない美恵子も、心に余裕をもって駐車することができる。

目の前にはお目当てのマンションがそびえ立っていた。広辞苑を三等分にして、薄い電話帳一冊分になったチラシをデイパックに詰め込む。さあ行こうと、パーキングを出ようとしたとき、ぽつんと止まっている一台の車が目に映った。なんの変哲もない白い小型セダンだったが、ナンバープレートの数字に、既視感を覚えた。「足立 な 8888」。縁起の良さそうな語呂合わせだ。前にもそう思ったような気がする。だが、どこで見たのか、誰の車なのかをなかなか思い出せない。少なくとも、家の近所では見かけない車だ。足立ナンバーだから、所有者は北区の人間ではないだろう。――ただの勘違いかもしれない。思い出すのを諦め、ポスティングを開始した。

 チラシを全て配り終えたのは、夕方の六時を過ぎた頃だ。美恵子は家路を急いでいたのに、またしても「コーポ松田」近くの踏切で待たされることになった。都電が二本通り過ぎるのを待つ間、日中に見たアパートのプレートがどうなっているか気になって、そちらを凝視した。

「あれ、また傾いてる」

 アパートの入口に設置された常夜灯のお蔭で、ちゃんとネームプレートの傾きが確認できた。また誰かが悪戯で位置を変えたのだろうか。暇人っているものだなあ。運転で疲れた肩を軽く揉みながら、美恵子は踏切が上がりきるのを待った。


 珍しく定時で帰って来た夫と、すでにお風呂に入り髪を半乾きにさせた優が、ダイニングテーブルの椅子に座り、テレビを見ながら夕飯を待っている。美恵子は急かされた気分になりながら、グリルで魚を焼いていた。今日も疲れていて、手の込んだ料理を作る気にならない。食べ盛りの息子のために、作り置きしているハンバーグを温め、ウスターソースとケチャップを混ぜフライパンに転がした。

「美恵子、昨日の件、どうなった?」

 思い出したように、夫が話を振ってくる。それに便乗して、優も「やっぱり僕が悪いの?」と不安混じりの声で聞いてくる。

「あ、今朝ね、夏目さんから謝罪の電話が来たわよ。沙菜がご迷惑おかけしたのに騒ぎ立ててしまってごめんなさいって」

「ふーん、やっぱり夏目さんって良い人だな」

 夫の顔が、心なしか嬉しそうに緩んだ。優もほっとしたように微笑んだ。

「とにかく、この件はもう終わったからね。明日のお昼は商店街で外食しようよ。もう私疲れてて土日の昼まで料理したくないわ」

 男の子も良いものだけど、もし女の子を産んでいたら、積極的にお手伝いをしてくれたかもしれない。そんな妄想が美恵子の頭に浮かんだ。優を出産してからは、性交渉が極端に減ってしまったし、子供ひとり育てるだけで精一杯だった。夫婦間で二人目の話をすることは皆無に等しく、我が家は一人っ子になるのだろうと漠然と思っていた。今から二人目を授かるのは無理だろうか。いや、最近は美恵子の年齢で初産の人も稀にだがいる。

「あ、でも、仕事もしたいし」

 思わず独り言を言うと、すかさず突っ込みが入る。

「なんだよ、ひとりごとか? 怖いからやめろよ」

「そうそう。気持ち悪―い!」

 二人に批難され、少しさみしい気分になる。

 

 夕食後、美恵子は金曜日の夜恒例の、息子の歯磨きチェックを行った。優に自分で歯を磨かせたあと、歯垢染色液でうがいをさせる。磨き残した部分があると、そこが赤く染まるのだ。

正座した美恵子は、優の後頭部を膝に載せ、大きく口を開けるよう促した。

「わ、あんまり磨けてないね」

 とくに奥歯と犬歯が赤い。今の所、第二大臼歯以外のすべての歯が、乳歯から永久歯に生え変わっている。生え始めと生えきった歯が混在するため、高さが均等でなかったり、歯茎が歯に被さるのは仕方がないとしても、左上側の犬歯が、真っ直ぐに生えてないのが気になった。歯茎の横から生えているのだ。このまま伸びて定着してしまうと、他の歯まで影響を受けるだろう。将来優の歯並びが悪くなりそうなのは、容易に想像できる。顎は細く、歯は大きい。八重歯にもなりそうだ。すでに電車は満員なのに、次の駅で大勢人が乗り込んでくるようなものだ。定員オーバー。車上の人々は揺れるたびに、将棋倒しさながら、同じ方向に傾く。

「これは、矯正が必要ねえ」

 息子にだけ聞こえる声で、美恵子は囁いた。

矯正にはお金と時間がかかる。亜里沙に一度、勤め先の歯科医院で小児の矯正はやっているか聞いたことがある。彼女が言うには、医院長が小児歯科の、その息子の副医院長が矯正歯科の専門医らしい。一度診てもらったらどうかと勧められた。

 ――うちの医院長、凄いんですよ。数組の親子がいたら、歯並びを見て、誰が親子か分かるって言ってました。そうだ、お子さんと一緒に、美恵子さんも診てもらったらどうですか? 優君はどちらに似たんでしょうね?

 優の顔の骨格が、美恵子にも夫にも似ていないことは、自分が一番分かっているし、憂慮してもいた。亜里沙にこのことを吹聴されたら、困ったことになる。夫の耳に入れば、DNA鑑定を望むかもしれない。

「優、部活がない日にでも、歯医者さんに行こうか」 

 ――なんで亜里沙なんかに、息子の歯の相談をしてしまったのだろう。あの日を境に彼女は変わってしまった。いや、もともとそういう性質だったのかもしれないが、本質なんて知りたくなかった。


 翌日の十二時過ぎ、昼食を食べに、霜降り商店街を駒込駅方面に家族三人で歩いた。八百屋、駄菓子屋、スーパー、電気屋、喫茶店、食堂など、どんな物でも歩けば見つかる商店街だけあって、休日は人で溢れている。個人経営の小さい店の前には、絵画コンクールで入選した作品が額に入れて飾られている。この絵を見るのが、美恵子は好きだった。特に――

「あ、この絵、好きなの。迫力があって」

 がおおおぅと、美恵子が歯を剥きだしてトラの真似をしてみせると、隣を歩いていた息子が怯えたように顔を歪ませ、後ずさりした。

「そんな怖がることないでしょうよ。あんたもう、小学六年生よ。来年中学生よ」

「お前の顔が怖かったんだろ」

「失礼ね」

 美恵子が気に入っている絵――それは、虎が歯を剥き出しにして、生ハムのようなピンク色の舌を覗かせている、臨場感溢れる油絵だった。繊細な色使いというわけではないが、少ない絵の具を粗い筆使いに載せ浮かび上がった虎は、今にも額から飛び出してきそうだ。

「結構この虎に似てたよ、お母さん」

 優が悪戯っぽい顔をして、父親に便乗した発言をする。美恵子は少しムッとしてしまう。ここのところ、何かと自分の容姿を茶化されているような気がした。

「こう見えてもね、結婚前はモテてたんだからね、お母さん。お父さんが私に猛アピールしてきたから付き合ったのよ」

 これは決して嘘ではなかった。結婚する前は、片手以上の男から交際を申し込まれることがある。その頃の彼氏いない歴は最長で三か月ぐらいだったか。

「わかったわかった。まあ、痩せればちっとは見られるようになるかもな。今でも」

 話せば話すだけ、失礼な言葉を繰り出される。

夫とは授かり婚だった。合コンで意気投合し、付き合い始めてすぐの時に酒の勢いで関係を持ち、その二か月後に妊娠が判明した。夫は動揺することもなく、早く籍を入れようとプロポーズしてくれた。あの頃の夫は、美恵子の仕草一つ一つに、愛おしそうに目を細めてくれていた。今とは大違いだ。

 美恵子はこれ以上自分から話す気になれず、並ぶ店をざっと見ながら歩いた。そうしていると、向こうから歩いてくる人の群れに、亜里沙がいることに気が付く。沙菜と手を繋いで、買い物をしているようだ。反射的に視線を足元に逸らし、気が付かない振りをしようとしたが、息子の隣を歩いていた夫が、嬉しそうに亜里沙に声をかけてしまった。手を振り、にっこり笑顔の亜里沙が、小走りでこちらに向かってくる。沙菜も、一昨日のことをすっかり忘れたように元気な足取りで近づいてくる。夕方のガレージに三十分も閉じ込められて、風邪でも引かなかったかと心配していたが、杞憂に終わったようだ。

「一昨日は本当にご迷惑おかけしました。沙菜もこの通り元気ですから」

 渡瀬の悪口を言った人物とは思えないほど、爽やかな笑顔を向けられた。同性の美恵子でさえ顔をポッとさせてしまうほど、亜里沙の顔は可愛らしさと美しさを兼ね揃えている。嫉妬するのも、張り合うのも馬鹿馬鹿しい。ぽやんとした顔になる夫と息子が目に入っても、勝手にすれば、という脱力感しか覚えなかった。一緒に昼ごはんでも……と話が盛り上がっていた時、またしても駒込駅方面から、知り合いが歩いてくる。今度は夫たちがぽやんとするご近所さんではなかった。

「あ、渡瀬さん! こんにちは!」

 さっきと同じテンションで、亜里沙が渡瀬夫婦に手を振り声をかけた。渡瀬がか弱い微笑みを、小柄で太り気味のご主人は、朗らかに笑って美恵子たちの方へやってくる。一瞬甘い香りがふわっと漂った。渡瀬妻の方は、一日に一回は姿を見かけるのに、渡瀬夫は数か月に一度、スーパーや道ですれ違う程度だ。ご主人単体だけだったら、気が付かずに終わってしまうだろう。

「ええと、夏目さんと……」

 亜里沙の方を見て微笑んだ後、美恵子と夫の方に視線を向けたまま、渡瀬の夫は固まってしまった。

「立吉です。渡瀬さんのご自宅の向かい側に住んでいます。でもあまり、お会いすることがないですよね」

 美恵子が後を引き継ぎ自己紹介をすると、渡瀬夫は申し訳なさそうに眉を八の字にした後、「よろしく」と爽やかな笑顔を浮かべた。渡瀬妻とは釣り合わないんじゃないかと思うほど、快活で明るい雰囲気を醸し出している。人は自分にないものを求めると言うが、この夫婦もそうなのだろうか。

「私、王子駅近くのパン屋で働いているんですよ。もし機会があったら、一度いらっしゃってください。パンクラブって店ですから」

 美恵子に向かって、店の紹介とアピールを展開してくる。クリームパンが当店で一番人気があるんです。バニラビーンズもちゃんと入ってるんですよ! 等々。

 なるほど、この好感度の高さは、サービス業に従事しているからなのか、と美恵子は少し感心した。

「今日はお仕事お休みなんですか? パン屋さんって、土日祝日は休めないイメージがあるんですけど」

 美恵子が素朴な疑問をぶつけると、渡瀬夫は「うちの店は、早番と遅番があるんですよ。今日は早番で、仕事帰りに妻と昼飯でも食べようと思いまして。因みに早番は、早朝四時から昼前までなんですよ。ね、滅茶苦茶朝早いでしょう?」と、丁寧に答えてくれる。

そういうことか。彼の体から微かにバニラの匂いがしたのも頷ける。

「ね、お子さんにはミニチョコパン、サービスしてるんですよ。君は何年生かな?」

 今度は優に向かって笑顔で話しかけてくる。優が少し照れながら「小六です」と答えると、「じゃあ、今がチャンスだよ。小学生までがサービス対象なんだ」と、おどけた口調で渡瀬夫が言った。すっかりその気になった息子は、「今度行ってみようよ」と美恵子の腕を揺すってくる。

 そういえばこの夫婦、噂では不妊治療をしていると聞いたが、ご主人は子供にも気さくに話しかけてくれる。それに比べ、妻の方は視線を落とし地面ばかりを見て沈黙している。

「そうそう、チョコパン、すごく美味しいんですよ。米粉入りでモチっとしてて。うちの沙菜もそれを目当てによくパン屋行こうよーってねだってくるんです」

「夏目さんはほんとよく来てくださってて。感謝してもしきれませんっ」

 美女が話にのってきたのが嬉しいのか、渡瀬夫の口調がテレビショッピングの司会みたいになっている。

「そうだ、三家族合同で昼飯食べに行きませんか」

 ムードメーカーと化した渡瀬夫が、腕を振り上げて「こっちこっちー」と美恵子たちを誘導し始めた。本来ノリの良い美恵子の夫がそれに倣った。それじゃあ私たちも、と後に続こうとした矢先、渡瀬妻がやっと言葉を発した。

「悪いけど、私はこのまま帰ります。あまり外食は好きじゃないので」

 視線を一切合わせようとせずに、渡瀬妻が自宅の方向に歩き始めた。それを少し離れたところで見ていたらしい渡瀬夫が、慌てたように駆けつけてくる。二重あごがタプタプと揺れていた。

「すみませんね、あいつはどうも、人付き合いが苦手で……この人と! って決めた相手としか仲良くできないんですよ。愛情のキャパシティがせまいというか……私だけを見てくれるのは嬉しいですけど、もし子供ができたらどうなるんだろうなあ」

 最後の方は独り言みたいな呟きだ。渡瀬夫は「それじゃ!」と手を振りながら、妻を追いかけて行った。

「渡瀬さんって……うちの沙菜とちょっと似てるかもね」

 亜里沙が娘に向かって話しかけた。

「どういう所が?」

 興味をそそられて、美恵子は聞き返した。 

「これが良い! って思ったら、とことんそれを追い求めるところかな。渡瀬さんは人間関係だけど。沙菜は物に対してそうなんです。一点集中型。ハンバーグにはまると、それ以外のおかずは食べたがらなくなるんし、この前まで熊が好きだって言ってたから、熊が主人公の絵本を買ってあげたのに、今は亀が一番だからいらないって突き返されて」

 ふーん、今は亀なのね、と相槌を打とうとして、美恵子は突然ガレージ事件を思い出した。

「あの、夏目さん。あなた、沙菜ちゃんが亀好きになったこと、誰かに言った?」

 ガレージに亀がいるよ、と誰かが本当に言ったのなら。沙菜が亀好きだということを最近知った人物が犯人だということになる。

「優、あんたは知ってた? 沙菜ちゃんが熊から亀に鞍替えしたこと」

「知るわけないじゃん。家で熊ごっこしてから一度も話してないよ」

 沙菜を我が家で預かったのが、一ヵ月前の土曜日だった。前日の夜、「明日出勤なので、夕方まで沙菜をお願いします」とメールで一方的に頼まれた。メールでやんわり断ったが、「子供の歯って、父母どちらかの歯と全く一緒なんですって」この一文だけのメールを返され、美恵子は預かることを承諾した。

 ――嫌なことを思い出しちゃったわ。

 美恵子は漏らした溜息を隠すように、咳払いをした。

「うーん、誰かに言ったかしら、私……沙菜は覚えてる?」

 駄目で元々、とばかりに、亜里沙が沙菜に聞くと、「パン屋さんに言ったよ!」と、明快な答えが返ってくる。

「……そういえば、パン屋さんでカメちゃんのメロンパン、沢山買ったねえ」

 目を細めて、娘を見つめる亜里沙は「でもねえ、渡瀬さんのご主人が沙菜をガレージに閉じ込めるわけがないし。恨まれる覚えもないですよ」と笑った。

 美恵子は、さっきまでここに居た渡瀬夫の風貌を思い描いた。人の良さそうな笑顔と話し方をする人だった。亜里沙の言うとおり、彼がそんなことをするとは到底思えない。だが、その妻はどうだろうか。美恵子の頭の中では、ガレージ事件の真相が、鮮明に浮かび上がってきた。

 渡瀬夫がパン屋から帰宅し、今日あったことを妻に話して聞かせる。「今日沙菜ちゃんが店に来てくれてね、カメのメロンパンを沢山買って行ってくれたよ。沙菜ちゃんの今のブームは亀らしいよ」と。それを聞いた渡瀬妻が、日頃仲の悪い亜里沙への復讐を思いつく。復讐。どんなことが考えられるだろうか。女がドロドロした感情を持つとき、許せないと思うとき――有り勝ちなのが不倫だ。だが、あの人の良さそうな渡瀬夫が、亜里沙と不倫するだろうか。――あり得るかもしれない。さっき彼は、嬉しそうに亜里沙と話していたではないか。あの時、明らかにテンションが上がっていた。世の中、あの人に限ってまさか、ということが往々にしてある。それに、亜里沙がつけている香水もバニラエッセンスのような香りがした。不倫相手に、自分の使う香水をプレゼントする――浮気男の常套手段ではないか! 毎日クリームパンを焼く渡瀬夫は、フローラル系のきつい香りが嫌で、亜里沙にバニラの匂いがする香水を贈った。これで、濃厚な接触をしても不倫を疑われることはない。思い当ることは他にもある。亜里沙のアパートに張ってあるネームプレートだ。あれは逢引のサインに利用されていたのだ。渡瀬妻は、夫の携帯電話をチェックしていると亜里沙が言っていた。メールや電話で履歴を残すと不倫がすぐに露見する。それを避けるために二人にしか分からない合図を考えた。アパートのネームプレートの位置なんて誰も気にしない。今、部屋に入ってきても大丈夫だよ。そういう時はネームプレートをまっすぐにして、男を部屋で待つ。亜里沙の職業は歯科助手だ。病院は午前と午後の部があり、彼女の勤める歯医者の場合、午後の部は十五時からである。つまり少なくとも二時間は休みが取れることになる。渡瀬夫が早番の時、この時間帯を逢瀬に使わない手はない――そこでまた美恵子は閃いた。そうだ、渡瀬妻のことを嗅ぎまわり、美恵子に洗濯物を今干しているか聞いてきたのは、渡瀬妻が家にいるかどうかを確認するためだったのだ。家にいれば、渡瀬夫が亜里沙の部屋に入るところを見られる可能性はない。安心して逢瀬を愉しめたことだろう。ああ、自分は。そうとは知らずに、亜里沙と渡瀬夫の不倫に加担していたのだ。いや、嘘はやめよう。薄々だが、怪しいとは思っていた。でも、自分にも噂を流されたくないと言う怯えがあって、亜里沙からの要求を突っぱねることができなかった。彼女は、第三者がいる時は誰にでも優しく気遣いのできる女性を演じるが、二人きりになれば容赦がなくなる。――ああ、話が脱線した。話を戻そう。ガレージ事件が残っている。「亀がガレージの中にいるよ」と、沙菜を誘導したのは、他でもない渡瀬妻であろう。理由は明白だ。彼女は、夫と亜里沙が不倫関係にあることを薄々勘付いていた。だが、夫の携帯を盗み見してもしっぽを掴めない。協力者がいるはずだ。そう考えた渡瀬妻は、美恵子に疑いの目を向けた。傍から見れば、美恵子と亜里沙は坂の途中で、仲良くおしゃべりをする友人同士だ。美恵子と亜里沙を仲違いさせる為、ガレージに沙菜を閉じ込めた。きっとバルコニーから、計画を実行する機会を狙っていたはずだ。そして一昨日が決行日となった。沙菜に危害を加えようとは思っていないから、三十分経ってから亜里沙に救いの手を差し伸べた。警察を呼ばれては大事になってしまう。子供がなにより大事だと痛感させれば不倫も解消するかもしれない。そんな期待もあったのかもしれない。

 やっと辻褄の合う真相が見えた。

「立吉さん、なにぼうっとしてるんですか」

 気が付けば、亜里沙が美恵子の真正面に立ち、呆れと苛立ちをブレンドしたような表情で立っている。その横に立つ沙菜は眠そうに目を擦っている。美恵子は周りをきょろきょろと見渡した。

「あの、優と主人、どこ行ったのか知ってる?」

「とっくにお二人は、ランチに行きましたよ。一応、先に行くって声をかけてましたけど、聞こえませんでした?」


 手作りのオムライスをご馳走になり、食後のコーヒーまで頂いた後、美恵子は一昨日のガレージ事件と、今までの亜里沙の不可解な行動について、自分なりに出した真相を述べた。

「私の推理、結構良い線行ってると思うんだけど。違うんだったら反論して」

「妄想もそこまで来ると凄いものがありますね」

 コーヒーを一口啜り、ローテーブルにカップを置いた後、亜里沙が思い切り呆れた口調で感想を零した。

ここは亜里沙と沙菜が暮らすアパートの一室。玄関を抜けると狭いキッチン、六畳程度の洋室がある。洋間の絨毯の上で、沙菜は昼ごはんも食べずに眠っている。お腹の部分にだけタオルケットが掛けられている。部屋全体、簡素で無駄な物が置かれておらず、沙菜の玩具もきちんとお道具箱に片づけられている。美人の部屋は汚いと決めつけていた美恵子は、意外に思いながら部屋を眺めていた。

「まず、怪しいと思ったきっかけのバニラの匂いですけど」

 言葉の途中で亜里沙は立ち上がり、台所へと移動した。キッチンシンクの下にある引き出しを開け、何か取り出した。

「ほら、バニラオイルです。うちでパンを作るときに使うんです」

 亜里沙が振り返り、手に持った小瓶を振って見せ、そのまま洋間に戻ってくる。

「ほら、ちゃんと匂いを嗅いでください」

 キャップを外した瓶を手渡され、美恵子は鼻を近づけた。たしかに、パン屋やケーキ屋を通り過ぎる時に嗅ぐ、頭に響くような甘い匂いがする。

「うちの子、小麦アレルギーの数値が高めなんで、米粉入りのパンを自分で作っているんです」

「じゃあ一昨日、パンを作ってたの?」

「一昨日の朝作りましたよ。ああ……バニラオイルが服に付いちゃったのかもしれません。朝の忙しい時間にやっていることなので」

 なんだか、子供思いの良いお母さんというイメージだ。でも不倫は確実にしているはず。

「だから、不倫カモフラージュの為の香水とか使ってませんから」

「じゃあ、なんで渡瀬さんに恨まれてるのよ。それに渡瀬さんのご主人のお店によく行ってるんでしょう? ここから王子まで結構距離があるよね? 近くて人気のあるパン屋は他にいっぱいあるのに」

「あの店、米粉入りのパンが豊富にあるんですってば。まあ、王子には毎週日曜日行ってますよ。沙菜のリトミック教室が王子にあるんです。だーかーらーその時についでにパン屋に寄るんです」

 途中で話すのが面倒になったのか、間延びした口調になる。

「ガレージの件に関しては、私も渡瀬さんが怪しいと思いますよ。タイミング良く私と出くわしたし、いつも挨拶程度しかしないのに、あの日はどうしたの? って声をかけてきてくれて、珍しいこともあるもんだなあって思っていたので。でも、なんで彼女に恨まれてるのかは分かりません。本人に聞いて下さいよ」

「じゃあ、じゃあ、なんで私に、渡瀬さんの家の洗濯情報を聞いてきたのよ? 週に一回はあったよ、探りの電話が」

 このままじゃ、美恵子の推理が頓珍漢な妄想で終わってしまう。

「――それは、教えないって前にも言いましたよね? 美恵子さんの秘密、バラしていいんですか?」

 亜里沙の脅しを含んだ言葉に、美恵子はぐっと詰まった。結局、自分に弱みがあるから、突っ込んだ話ができなくなる。亜里沙の謎の行動と、美恵子の家庭の平和を壊す程の秘密では、後者の方が重く深刻で、周りに露見しては困るものなのだ。

 意気消沈し、美恵子は亜里沙の部屋をお暇することにした。ちょうど沙菜が目を覚まし、「お腹がすいたよー」と泣きはじめる。亜里沙が沙菜を片腕で抱っこしながら、美恵子を玄関まで送ってくれる。

「お昼ご飯、ご馳走様でした」

 ぺこりとお辞儀をして、美恵子が帰ろうとすると、亜里沙が「待って」と呼びとめてくる。

「ネームプレートの件、結構良い線行ってましたよ。惜しかったです。逢引のサインとかじゃないですけどね。……私の彼が部屋に来る時、ネームプレートをまっすぐに直すんです。几帳面な性格だから、位置がずれていると気になるようで。でもあのプレート、真っ直ぐにしても時間が経つと戻っちゃうんですよ、斜めに」

「彼?」

「妻帯者ですよ。……嬉しいですか? 不倫しているって推理が当たって」

 皮肉な笑みを浮かべ、亜里沙は話し続ける。

「でも、私が不倫していて、それが何だって言うんですか?」

 開き直られても困る。美恵子はどう返せばいいのか分からなくなった。亜里沙も良い大人だし、陳腐な説教をされた所で痛くも痒くもないだろう。亜里沙にとって不倫は割り切ったもので、本妻と泥仕合がしたいわけでも相手の家庭を壊すつもりでもないのだろう。だから、何が悪いのよ? と開き直ることができるのだ。だが、このまま何も言わないのも悔しい。

「ほら、もし子供ができちゃったら、流石にいろいろ困るでしょう? 不倫だと」

 亜里沙がぽかんとした顔になり、失笑した。

「だーいじょうぶ。彼ね、無精子症なんですって。だから不倫し放題だって言ってましたよ。まあいいや。私、彼と別れることにしたので」

 急展開な話に、ついていくのがやっとだ。

「再婚するんですよ、私。勤め先の人と」

「……本当? もしかして副医院長?」

「当たり。だからこのボロアパートともさようなら、です。近いうちに彼のマンションに沙菜と引っ越します。江戸川区なので、もうお会いすることもないと思います」

「でも、副医院長に会いに、こっちに来ることだってあるんじゃないの? 沙菜ちゃんに手がかからなくなったら仕事復帰とか……」

「それはないですよ。医院も移転しますから、彼のマンションの近くに。移転に合わせて、彼が江戸川区に引っ越したんです」

 それを聞いて、美恵子は心底、ほっとした。これで自分を脅かす人間がいなくなる。

 熱く展開した自身の推理だって、今はどうでも良い。


 それでも、どうして渡瀬があんなことをしたのかは気になった。亜里沙の家からの帰り道、ストレートに聞いてみようと決めたちょうどその時、渡瀬宅から夫婦が出てくるのが見えた。チャンスだ。美恵子は彼らの方に走りながら手を振り名前を呼んだ。

「立吉さん、先ほどは失礼しました。さっさと帰ってしまって」

「いえ、そんな。全然気にしてませんから。ところで……一昨日の沙菜ちゃんがうちのガレージに閉じ込められた件なんですが」

 そこで一度言葉を切った。ご主人がいると、どうも切り出しにくい。

「もしかして、もう気が付いてらっしゃいますか。妻が沙菜ちゃんを車庫に行くように誘導したって」

 渡瀬夫が、申し訳なさそうに眉毛を八の字に、口をへの字にした。顔がくしゃくしゃになり、今にも泣きだしそう顔になる。

「申し訳ありませんでした。こいつが……こいつが仕組んだことなんです。お昼にあなたたちに会ったとき、妻の態度がおかしいと思って、さっき問い詰めたんです。そうしたら、ガレージに沙菜ちゃんを閉じ込めたのは私だって言うんでびっくりして。とにかく謝りに行こうって、ちょうど今、立吉さんの家を訪ねるところだったんです」

 渡瀬夫が、手に携えていた紙袋から菓子折りを取り出し、両手で持ち美恵子に差し出してきた。そのままお辞儀の体勢になる。

「本当に、ご迷惑をおかけしました」

「謝罪より、何でこんなことしたのか教えてほしいですよ」

 さきほどから、夫の隣で一言も発さずに項垂れている渡瀬妻に声をかけた。渡瀬夫から菓子折りを受け取りながらも、美恵子は渡瀬妻の方を注視した。

「……だって、あの汚いガレージを毎日見せられて、本当に苛々してたんだもの。あんな、埃の被った、全然掃除してませんって感じの車庫。シャッターが開いている度嫌な気分になってました。私一度、立吉さんに言ったんですよ。防犯上、ガレージは開けっ放しにしない方が良いですよって」

 たしかに言われた覚えがあった。その時は「そうだよね」と同意し、気を付けようと思ったのだ。だが、翌日には忘れていた。美恵子の中で、その忠告は極めて重要度が低いものだった。ガレージにあるのはポンコツの軽自動車と廃棄予定の物ばかりだったのだから。

 ――一度は片づけたことがあるわよ、失礼ね。美恵子は必要に迫られて、一年以上前にだが、夜遅くにガレージのものを外に出し、もう一台車が置けるスペースを作ったことを思い出す。夫が外回りの仕事で遅くなり、社用車で直帰したのだ。

「私が忠告しても全然改善されなかったから、ほんっとうに頭にきてストレスでおかしくなりそうでした。見なければ良いんでしょうけど、そういうものほど目に入って来るんですよ。だから、ガレージの中に人が閉じ込められる事件を起こせば、開けっ放しを止めてもらえるかなって思ったんです」

「じゃあ、私に、ちゃんとシャッターを閉じさせるために、ただそれだけのために起こした事件だったの? 沙菜ちゃんはとばっちり?」

「……沙菜ちゃんには怖い思いをさせて悪かったと思ってます。でも夏目さんには私が不妊だって噂を流されて、滅茶苦茶ムカついてました。もうこの年だから授かったら奇跡だ、みたいなことは言いましたけど、別に不妊治療に通っているわけじゃないし……」

 多少なりとも亜里沙には恨みがあったわけだ。それにしても、と美恵子は渡瀬妻に対し、未知の物に対する恐れを抱いてしまう。自分の常識が通じそうにない相手というべきか。

「これから夏目さんのお宅にも伺おうと思っているんです」

 再度お詫びの言葉を言うと、渡瀬夫婦は美恵子の前から去って行った。


 美恵子が帰宅した時、息子の姿はなく、夫だけが居間のソファで足を伸ばして寛いでいる姿があった。

「お、お帰り。優のやつ、友達の家に遊びに行ったよ。どうせゲームをしに行ったんだろうけど。夕飯までには帰るって。それよりさ、もうそろそろ三時だろ? なにかつまむ物、買ってきてくれた?」

「買ってないわよ。私を置いてさっさと二人でご飯食べに行っちゃって」

 美恵子が恨み言を零すと、夫が悪びれもせずに「良いじゃん。女同士の方が話が弾むんだろ」と言い返してくる。

「なあ、おやつ、ないのか?」

 しつこい! と思いながらも、先ほど渡瀬から貰った菓子折りを開けてみることにした。包み紙を破り、箱の上蓋を取ると、沖縄名物のちんすこうが入っている。一口サイズのものが三十個ほど。

「ちんすこうがあるわよ」

 ソファまで歩き、箱ごと夫の弛んだ腹に置いた。

「げ、ちんすこうかよ。会社で嫌って言うほど食べてるよ」

「そういえば、あなたの会社、沖縄出身の人ばっかりなのよね?」

「そうだよ。沖縄色が濃すぎて、うんざりするよ。盆明けと年始開けは沖縄名物が机にどっさり。他にもあるぜ。会社の代表電話もさ、下四桁が4193なんだよ。シークワーサー。寒い語呂合わせだろう?」

 語呂合わせ。その言葉が美恵子の古い記憶を刺激した。沖縄繋がりの語呂合わせ。前にもどこかで聞いたことがあった。いつ、どこでだったか。思い出せそうで、思い出せない。

 美恵子はもやもやした気分を脇に置いて、夫と二人になったときに話そうと思っていたことを口にした。

「あのさ、優の歯並びがあまり良くないのよ。今度矯正専門の歯医者に連れて行こうと思うんだけど。お金がかなり、かかるかもしれないの」

 お金の話は、子供がいる前ではなかなかできない。今がチャンスだ。

「ふーん。まあ歯並びが悪いと虫歯になりやすいし、咬み合わせもおかしくなるからな。仕方ないんじゃないの? でもさあ、俺もお前も四角い顔で歯並びが良いのに、優はなんであんなに顎が細いんだろうな。誰に似たんだろう」

 美恵子はぎくり、と震えそうになる肩を咄嗟に手で押さえた。勤めて明るい声を出す。

「さあ、誰に似たんだろうね? 隔世遺伝か何かかもね」

「お前の元彼に似たんだろ」

 今度こそ、美恵子の肩は動揺でビクリと震え、顔が不自然に強張った。それでも声を絞り出す。

「なに、馬鹿なことを言って……」

「もう惚けなくていいよ。正直に言った方が楽になるだろ。誰かに弱みを握られることもなくなる」

 うまく頭が働かない。夫の言っていることが、耳には入ってくるのに、理解できない。

「美恵子、俺はさ、無精子症なんだ。子供を作るのはあきらめてくださいって、医者から診断をくらったんだよ。前の彼女と三年、同棲していたことがあったんだけど、避妊しなかったのに全然妊娠しなかったんだ。だから心配になって、お前と付き合うちょっと前に検査を受けた」

 ――そんなに前に? では、結婚する前から、美恵子の腹にいる子が、自分の血を引いてはいないと分かっていたのか。だったら何故言ってくれなかったのだろう。妊娠が発覚した時、美恵子は夫の子供だと確信していた。夫と付き合ったのは、前の彼と別れて一週間経つか経たないかの頃だった。だが、前の彼とはきちんと避妊していて、夫とは酔った勢いで避妊もせずに性交していた為、どう考えても父親は夫だと思い込んでしまったのだ。だから、妊娠した時は、真っ先に夫に相談した。結婚後も、二人の子供だと信じて疑わず、優を大事に育ててきた。幸せだった。――その幸せに影りが見え始めたのは、優が成長し、容姿がはっきりとしてきた頃だった。周りから、「優君、あまりお父さんに似ていないのね、お母さん似なのね」と何度も言われるようになった。夫との共通点が一つ位はあるだろうと、優の体、顔を隈なく探したが、見つけることができなかった。性格は――夫とは真逆だった。美恵子そっくりのずぼらな性質。学力は、美恵子や夫のそれより数段に良かった。スポーツ能力も然り。口の悪い親戚から「とんびが鷹を産んだね」と笑われた。元彼の容姿、性格、学歴を思い出せば、息子との共通点が沢山浮かび上がる。知りたくない真実を突き付けられた瞬間だった。

 ソファから立ち上がった夫が、呆然と立ち尽くす美恵子に向かって「好きだったからだよ」と囁いた。はっとして、美恵子は夫の顔を見つめた。

「妊娠を告げられた時、俺の子じゃないのは分かっていた。ショックはあったよ。前の彼との子だろ、なに俺に押し付けてんだよ、とも思った。だけどその時の美恵子は嘘をついているように見えなかったし、心底嬉しそうに報告してくるから、俺との子だと本気で信じていて嬉しいんだなって思った。それに、俺にも負い目があったんだよな。自分が無精子症だって分かっていたのに、お前にそのことを言わず付き合いを申し込んだ。フェアじゃなかった。それに、美恵子と別れても、この先俺が結婚相手を見つけるのは難しいだろう? 子供が望めないのに。だったら、バツイチ子持ちと一緒になるつもりでお前と結婚しようって決めたんだ」

「私は……私は、ちゃんと言ってほしかった。だって、重要なことじゃない?」

 美恵子の喉はカラカラに乾いていた。何度も唾を飲み込む。背中を汗が伝い、体全体がすぐにひんやりと冷めていく。震えが止まらない。

「そう言われても過去は変わらないしなあ。俺は実の両親より、美恵子と、血のつながらない子供を選んだんだよ? 感謝してほしいよ。入籍してから、親に本当のことを言ったら、激怒されたよ。それで、決まっていた同居の話も翻された。だから、俺が無精子症だってことを言ったら、親が泣いて謝ってきた。まあ、そうだよね。俺の先天的異常にもっと早く気が付いていれば、手遅れにになる前に手術できていたし、無精子症にはならなかったかもしれないんだから」


 気が付くと、窓の外は暗くなり、夫が室内の電気を点けてくれていた。

「今日の夕飯はなに?」

 夫は何事もなかったように聞いてくる。美恵子は、テレビに表示されている時刻を見た。もう六時を過ぎている。夫と話したのはせいぜい数十分だろう。だとすると自分は、二時間以上、ソファとローテーブルの間で呆然と立っていたことになる。夫はそんな妻を、面白そうに笑って眺めていたのだろうか。

 台所に行き、冷蔵庫の中身をチェックする。幸い、食材は一通り揃っている。買い物に行かなくて済みそうだ。炊飯器に米をセットし、使う鍋とフライパンを戸棚から出す。日常の作業を重ねるうちに、少しずつ思考能力が戻ってくる。先ほどの夫の告白で、彼への感謝の気持ちが芽生えたのは確かだった。今以上に夫を大事にしていかなければいけない。自分にはその義務がある。今、夫に見捨てられたら、美恵子と優は路頭に迷ってしまう。

 ――彼ね、無精子症なんですって。だから不倫し放題だって言ってましたよ。

 亜里沙の言葉が、頭の中で木霊する。今日はもう、なにも考えたくない。考えてもろくなことがない。

 ――私の彼が部屋に来るとき、ネームプレートをまっすぐに直すんです。几帳面な性格だから、位置がずれていると気になるようで。

 考えない方が良い。真相に辿り着いたところで、誰にもメリットはない。

 ――会社の代表電話もさ、下四桁が4193なんだよ。シークワーサー。寒い語呂合わせだろう?

 今度は夫の声だ。美恵子は思い出してしまった。亜里沙のアパート近くにあるコインパーキング。あそこに駐車していた車のナンバープレートは、「足立 な 8888」。江東区にある夫の会社は、足立ナンバーの管轄区域だったはず。そして「な」と八が四つ。ナハシ――那覇市。夫が一度社用車を運転して帰宅した時、話してくれたではないか。沖縄繋がりで何にでも語呂を作る会社なのだと。笑いながら美恵子はナンバープレートを見ていた。一年以上も前のことだったから、すっかり忘れていた。

 これらを踏まえた上で考えれば、渡瀬の洗濯情報を知りたがり電話してきた亜里沙の謎も、簡単に解けてしまう。渡瀬夫婦は関係なかった。お隣さんのバルコニーが見える場所に、美恵子がいると確認するための電話だったのだ。監視されていたのは美恵子自身だったのだ。

 麻袋から玉ねぎを取り出し、包丁でみじん切りにする。目にツンと来て涙がジワリと出る。都合が良かった。夕飯はハンバーグにしよう。三人とも大好きなメニューだ。

「美恵子さあ、そろそろちゃんとした職に就いたらどうだ? 優も来年中学生になるんだし。お前の帰りが遅くなっても大丈夫だろう? 本音を言うとね、ちょっと理不尽だと思うんだよ。優にかかるお金、今は俺ばっかりが払っているだろう? お前の子なのにさ」

 そうね、その通りよね。美恵子は口の中で同意の言葉を口にする。喉が苦しくて、声がどうしても出ない。深呼吸を繰り返し、涙を手の甲で拭い、力尽きて、床下収納の戸を開ける振りをして、床にしゃがみ込む。足元が歪んで見える。

 とにかく自分が自立しなくてはならない。足元がおぼつかないのなら、一度しっかり休んで、体勢を立て直し、なかなか崩れない土台を自分の手で作り上げれば良い。そうだ、そうしよう。

 美恵子は立ち上がり、料理を開始する。

「私、正社員の仕事、必ず見つけるよ。今度の月曜日に、王子のハローワークに行ってくる」

 ついでに、渡瀬のご主人が働いているパン屋に寄ってみよう。パンクラブと言っていたか。バニラビーンズ入りのクリームパンを、ぜひとも食べてみたい。

                               了

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