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AI(アイ)のシュミレーション

作者: 亜峰 ひろ

「カラーはつまらない。」そのような文言をどこかで目にした記憶がある。それが何を意味しているのか、ボクには全く理解することができない。バリバリして、チカチカして、目に優しくない。それがカラーというものらしい。呆れるほど種類が多く、そこかしこに忙しなく(ひし)めき合っている。それはつまらないもののようだ。

 なぜ、どうして。やっぱりボクは接受できない。

「それは、とても面白そうなのに……」

 呟き、ボクは目をしばしばさせる。首を振って辺りを見渡す。そこにカラーはなかった。白と黒、その濃淡を(いじ)っただけの中間色から成るモノクロームが延々と広がっている。この胸の騒めきはカラーそのものに由来するのか、それとも未知への憧憬からなのかは分からなかった。ただ、見てみたいと感じた。

 真っ白な空を見上げる。太陽も雲もない。鳥も行き交わない。無味乾燥とした大空のてっぺんには、黒々とした(ライン)で『 day 』と刻まれていた。そろそろかな、ボクがそう思った途端に大空の白黒がぐるりと入れ替わる。真っ黒な空には白い線で『 night 』と記されていた。この昼と夜の逆転劇はカラーではどのように表現されるのだろう。きっとそれは、ボクの魂をグラグラと揺さぶって、勢い余ってボクの心臓を弾けさせてしまうほどに衝撃的なんじゃないかな。――見せてあげたい、ボクではなく彼女にそうしてあげたいと、ふと思った。

 叶いようのない夢想に浸るのもそこまでに、ボクは絡み合わせていた脚を解いた。帰らなくてはいけない、彼女が待っている。今日も今日とてムダな知識しか提供してくれなかった『(ウインドウ)』を睨みつけ、ボクは右上の黒いパネルに指を滑らす。しゅんっと小さな音を立てて、ボクの眼前にぷかぷか浮かんでいた窓達が消滅した。

 あぁ、でも、まるっきりムダではないか。今日も彼女を楽しませてあげられる。


*:*:*


 扉を開けると真っ黒だった。白が容赦なく叩き出されている。部屋を間違えたのかと(いぶか)しみ、彼女の香りがしたことで身を滑り込ませる。後ろ手に扉を閉めつつ、ボクは問うた。

「どうして黒くしているの? 『 view 』は気に入らなかった?」

「……飽きちゃったの」

 黒の奥の方から、少し語尾が上擦った甘い声が流れてきた。

「白くしてもいいかい?」

「……どうして?」

「キミが見えないから」

 浮ついた言葉だ。でも本心だった。

「……ネリネって呼んでって言ったじゃない」

 トーンの下がった声で彼女は言い返した。ボクは怖気づきながらも、彼女に顔を見られていない安心感から「ネリネ」と口にする。もしもこの部屋が真っ白で、ボクの(かんばせ)をありのままに描いていたのなら、ボクは廉恥(れんち)のあまり悶絶して、ウウウと呻いて扉に頭をガンガン打ちつけていたかもしれない。

 そんなことを頭の中でゆらゆら(くすぶ)らせながら、ボクは黒の中で手を(まさぐ)らせる。記憶の中に刻まれた彼女の居場所を頼りに動き続けるうちに、指先がやわらかな温かみに沈んだ。

「なにふるの……」

 カッと白が(とも)され、ボクの瞳を(くら)ませる。ほっぺたをボクに(つつ)かれつつ、不貞腐れた面持ちでネリネは天蓋付きのベッドに横たわっていた。

「お帰りなさい」

「ただいま」

 ネリネは両腕をピンと張って上半身を起こし、脚をちんまりと折りたたんでベッドの半分を空けてくれた。手招きされる。早く座りなさいよと彼女の瞳は訴えかけていた。シーツを撫でる手のひらはさみしそうだ。

 ボクは耳をほんのり黒くして、彼女の隣、拳二つ分の所に腰を下ろした。反発力なんてどこへやら、座り続ければ座り続けるだけ身が沈んでいきそうなほどにベッドは頼りなかった。ネリネはこれを好んでいるようだったが、ボクはどうにもその気にはなれない。

『このベッドはね、心も体も堕落させてくれるの。心地いいよ、堕ちるのは――……』

 ボクは堕落が嫌いだった。彼女は堕落が幸せだった。

 膝に軽い重みが乗っかる。絹糸よりも白く艶やかな髪が手のひらのすぐ隣にある。

「ね、今日も話してくれるんでしょう?」

 ネリネの瞳は純粋な幼子のようにきらきらと輝いていた。

 あぁ、ボクと同じだ。彼女も未知が好きで、大好きで、ボクにはそれがたまらなく嬉しかった。

「この世界の創始者はね、どうやら『 object 』に特別な意味づけをしていたらしいんだ」

「オブジェクト?」

 小首を傾げるネリネの前で手のひらを広げる。空間に黒砂が現れ、ボクの思考と同じものを描き、さあっと流れて消える。

「そう。輝ける石とか、大輪の物言わぬ生物とか、空の光とかにね」

 ボクは『知識の泉』でその姿を見たことがあるけれど、彼女は一度もないので、ひとつずつ具象化させていく。

「ね、どんな言葉を付けるの?」

 上目遣いにボクを見ながらネリネは声を弾ませた。彼女の頭の上でくるくる揺れる円環から目を逸らし、たとえばね、とボクは切り出した。

 喉が枯れるまで声を紡ぎ続け、さんざっぱら彼女の弾けた瞳を浴びせられた後に、ボクはとうとう語り尽くした。知識を仕入れるのはとてつもなく時間がかかるのに、放出はどうしてこうも短く感じられるのだろう。

 ボクは疲労困憊から頬を黒冷めさせ、ネリネは欲求の充実から頬を白くした。それから彼女は思い詰めたように唇を結び、鬱々と逡巡する。何かを言いたそうな、言わなければならないと脅迫されるかのように唇を震わせる彼女の姿に、ボクの(からだ)(うず)いた。首筋がチクチクと騒ぎ、逃げろと脳髄が命じる。

 でも、ダメなんだ。ボクの膝には彼女がいる。ボクは彼女に囚われてしまっている。

「ねぇ……」

 来た。背筋がぞくぞくと震撼(しんかん)する。

「それで、これの意味は分かったの?」

 彼女の頭上がクローズアップされる。くるくる回る、ぐるぐる揺れる円環の帯。

『 Deletion Postponement Time 72:02 』

 彼女は文字が読めない。だからその意味は知らない。ボクは文字が読めなかった。けれどそれは昔の話。すなわちその意味は分かる。今は理解できる。把握できてしまう。くつくつと頬を引き攣らせ、

「ゴメンね、今日も見つけられなかった」

 ボクは嘘を吐いた。この嘘は彼女へのいたわりでも優しさでもない。ただボクを慰めるだけの嘘だった。そんな未来はやってこないと信じたかったのだ。だって、文字列がそのままの意味を表すのだとしたら、ネリネはいなくなってしまうってことじゃないか。

『削除猶予時間』

 いま、その数がひとつ減った。


*:*:*


 文字が浮かんでいる。横幅も、縦幅も、奥行きも、ここが有限であるという認識さえも消失してしまう真っ白な空間に、黒い文字群がゆらゆらと揺蕩(たゆた)う。手を伸ばして捕まえる。行き交う文字群に目を凝らし、目当てのものを捉えたら咄嗟に手を伸ばす。それを繰り返して文字を集め、意味のある纏まりを作ると『窓』が顕現する。

 多過ぎる情報の波に目が眩む。それは知識だ。ボクが未だ知らない世界だ。

 ボクがこの『知識の泉』の存在を認識したのは十年前のこと、侵入できたのは八年前、『言葉』を理解したのは四年前、それと同時にネリネの刻限も知ってしまった。不思議と焦りはしなかった。実感がなかったのだ。ボクもネリネも生きている。生命の長短を操るなんて誰ができようというのだ。ましてや、この世界にはボクとネリネ以外の誰もいないのに。それでも、そんなことが起きるはずはないと信じたがっているのに、頭の底では警鐘が鳴り響き、ボクを突き動かす。ネリネの刻限を無かったことにする方法を、ボクは探さずにはいられなかった。

 けれど、以来四年間、ボクは何の成果も得ることができなかった。

『 God 』

 調べ進めるうちにそのような概念と出くわした。全知全能と(うた)われる存在を認識したとき、ネリネの刻限は他ならぬ『神』が定めたのではないかという疑惑が胸中に芽吹いた。そんなことはないと首を振る。でも。もしも、神様、強いて言うならばこの世界の創始者、そんな者が存在するならば、ボクは(へりくだ)ってこの首を差し出そう。

「くそっ――」

 衝動のままに拳を振り下ろす。カシャリと小さな破砕音を響かせて、窓が細かなポリゴンの欠片へと砕け散った。光り輝く鳩羽(はとば)色の残滓(ざんし)が、伏せるボクを嘲笑うかのように指の間をすり抜けて逃げていく。

 ゆらゆら、ゆりゆり、空の星が濃くなった。こうしている間にもネリネの刻限は刻一刻と近づいているのに、どうしてボクは何も見出せない。なぜ、道は閉ざされている。

「この腕も、脚も、心臓だって、ボクが持てるものは全て失ったっていい。だから、ネリネを消さないで」

 幾度、掠れた声で懇願しただろう。大空へと伸ばした手は何も掴めず、ボクの叫びは神様に届かず、ただ白妙(しろたえ)の世界を舐めるだけだった。全ては徒労に終わる。もしかしたら答えなんて、解決法なんて存在しないのかもしれない。ネリネがいなくなってしまうことは定められた原理であり、絶対不変の約束であり、そんなものに楯突こうとするボクの方が愚かなのかもしれない。

『運命を受け入れろ。どうせお前には何もできやしない』

 ボクの(うち)でボクが呟く。諭す。

 そうだ。受け入れて、抵抗するのをやめて、残された時間をネリネと二人で過ごす方がもっとマシだ。今こうして一人でいる時間をネリネのために使ったら、彼女の髪を撫でてあげていたら、そっちの方がボクはよっぽど慰められる。きっと、全てがムダだったと悟ったとき、ネリネと過ごさなかった時間を愛おしく感じる。

 でも、ダメなんだ。ボクは受け入れられない。ボクにとって諦めることは死と同義だ。

 生きて彼女と共に生きないか、死んで彼女と共に生きるか。どちらが正しい選択なのだろう、どちらが正しかったのだろう。どうせ、もう悩むこともムダなのに、ボクは悩まずにはいられなかった。

 白妙が失われ、ボクの瞳は(くろつち)でいっぱいになった。


*:*:*


「あら、今日はお出かけしないの?」

「うん? ……うん、そう、もういいんだ」

『 Deletion Postponement Time 』の末尾が『 07:26 』になったとき、ボクは死んだ。

 うずうずした瞳を見られないように顔を伏せ、彼女の隣、拳一つ分の所に腰を下ろす。僅か十センチ、詰めようと思えばいつだって詰められた距離をそうできず、いつも彼女に詰めさせていた。でも、今日だけはそうできた。それは今日で彼女と過ごす日々はお終いだという事実に突き動かされたわけではなく、意気地なしだと思われたままで彼女と決別したくなかったのだ。ボクはいつだって自分勝手で、自己中心的で、エゴイスティックで、それを悔いたことは数え切れぬほどある。けれど、今はそれでよかったと思う。少なくとも、ボクは完全な人ではなく不完全な人として彼女の心に刻まれたかった。

「ね、今日はどうして一緒にいてくれるの?」

「……迷惑だった?」

「そんなことない! 嬉しい、とっても!」

 両手を暴れさせて取り繕い、それから、

「今日で私が消えちゃうかも、だからだと思ってたんだけど……」

 ネリネはボクを愕然とさせた。「どうして」震える唇がそう訊ねる。彼女はこの部屋から出たことはなく、知識を蒐集(しゅうしゅう)するどころか文字も読めないのだ。円環を解することなどできるはずがない。それなのに、なぜ。重ねて訊ねようとしたボクは、ネリネの(かお)が白々となっているのに気づき、口を結んだ。

 謀られたのだと焦るが、一度放たれた言葉を削除する方法など知らなかった。

「やっぱり、そうなんだね」

 意気消沈と瞳を曇らせるネリネに、ボクは違うのだと喚く。何が違うのだろう、言葉を募らせれば募らせるほど、肯定するに等しいというのに。

「嘘はやめて。私だって無知じゃないもん。人並みには考えるよ、自分の頭でね」

 彼女が聡明だったことを思い起こす。それこそ、ボクと比べるなど失礼にあたるくらいに。

 ボクはすっかり諦念して口を閉ざし、代わりに彼女の細く柔らかな指先に、節くれだった指を絡ませた。それは今にも壊れてしまいそうで、ボクはどうやって指先の力をコントロールすればよいのか分からなかった。

「ずっと昔から、伝えるべきかどうか悩んでた。でも、もしもそのことでキミが心を(とざ)してしまったら……そう考えると、怖くて、怖くて、言葉が喉に貼りついてしまって、何も言えなくなって……」

 言葉が詰まる。ボクは一種の強迫観念に襲われていた。赦しを乞いたい。けれど、見苦しいと言われるかと思うとそれさえも躊躇われた。情けなくとつおいつするボクの肩を、ふわりと誰かが抱きしめた。

 彼女だ。

「いいんだよ、悩まなくたっていいの。優しい嘘なら、いくらでも赦してあげる」

 それだけで慰められた。ボクはなんて単純なんだろう。なんと浅はかなのだろう。

「キミのことを想うと、ここが痛いんだ。ボクは、ネリネの前だと病気になっちゃう――……」

 胸を鷲掴みにする。彼女の肩に顔を(うず)め、ボクは瞳から変な水分をほろほろと(こぼ)した。


 肩を揺すられて目が覚める。貴重な時間だというのに、ボクはどうして眠ってしまったのだろう。

「ゴメンね、ボクはやっぱり情けないや。キミとの最期までムダにしてしまった」

 彼女に抱き着いたままで指を伸ばす。触れた円環には『 00:03 』と刻まれていた。

「ううん、あなたの寝顔を見ている。それだけで私は幸せだから」

 彼女は首を振る。白髪がさらさらと流れ、ボクの頬をくすぐる。ボクの視界はうっすらと(にじ)んでいた。

 カチリ。『 00:02 』

「ね。ちょっとお願いをしてもいい?」「ボクにできることは少ないよ」

 体が揺れたことで、彼女が身を屈めたのだと分かる。耳朶(じだ)のすぐそばにまで彼女の唇が近づけられる。吐息が熱い。耳の奥がとけてしまいそうだった。「ネリネと呼んで――」

 ささやかれた。

 瞑目して瞳から水を追い出し、ボクは身を起こす。もう、背けはしない。彼女の瞳を正面からしかと覗き込んで、彼女の肩に両手を添わせ、ぐっと引き寄せた。頭が沸騰してしまいそうだ。血潮が歓喜する。

 目を開けていることが(かな)わず、ボクは瞼を落とした。感覚の全てが触れ合う肌と肌に集まる。瞼だけじゃない。腕も、(くび)も、脚も、全身が脱力に(あえ)ぐ。火照った体は純潔を喪失し、心はどこか冷ややかだった。

「……いまのはなに?」「気持ち悪かった?」

 彼女は瞳を極限にまで潤ませて、ただ一言、あなただからと返した。

 カチリ。『 00:01 』

 つと、目前に華やかさが広がった。バリバリして、チカチカして、瞳を殴りつける。『カラー』が彼女の体を包んでいた。翡翠色、初めて見るはずのカラーなのに、ボクの脳裏にはその色の名称がはっきりと浮かんだ。

 光り輝くカラーはそろそろと彼女の矮躯(わいく)を覆い込んでいき、彼女の体と一緒にほろりと崩れ去った。

 消えないでくれ、そんな願いとともに彼女を抱きしめたけれど、呆気なく潰してしまうだけだった。

 ホントだ。ボクは呟く。ホントに、カラーはつまらない。

「もうひとつのお願い。私のこと、私がここにいたことを忘れないで」

 彼女の手のひらを取る。ぎゅっと握りしめる。そこにはまだ温もりが残っていた。

「忘れないよ。ボクはネリネを忘れたりなんて――」

 しない。意気地ないボクだけれど、ふがいないボクだけれど、心弱くとも、それだけはできる。彼女がここにいたことを、ネリネがここで生きていたことを、ボクだけが知っている。ボクだけが覚えている。

 またいつの日か。世界がぐるりと輪廻(りんね)して、まためぐりあうその日まで。ボクはネリネを心に描き続ける。ネリネの小さな手のひらとボクの無骨な手のひらを結んで、花びらを形作る日を楽しみにしながら――。

「ありがとう」

 ふっとネリネは微笑んだ。単調な音が鳴り響き、ネリネは消失した。

『 Nerine deleted 』

 円環が冷たく揺れる。カラリ。

 彼女が消えたその場所には、もうひとつの円環が揺らめいていた。

『 Cancellation Method of the Deletion(削除解除方法)』


*:*:*


 壁一面に真っ黒なディスプレイが据えつけられた部屋で、私は目を覚ました。仮想現実装置の外部ハッチを押し開ける。七十二時間ぶりの外界は、くすんだ油の臭いがした。

「おかえり、どうだった?」

 声のする方に目を向ける。無精髭に白髪交じりの老齢の男が、階段の手摺(てすり)にもたれかかって私を見下ろしていた。(くわ)えたキャンディースティックが甘い芳香(ほうこう)を撒き散らしている。

「最悪ね。何度も何度も失恋ばかり。そろそろ不憫になってきたわ、特に、今回はね」

「そう腐るな。君のおかげで今回も面白いデータが採れた」

 男が指を振ると、ディスプレイに無数の文字列が流れ出す。

「言語の理解に、不可侵領域への侵入。豊饒(ほうじょう)な基礎感情に加えて、恋愛感情の形成が見られた。突発的行動ではあるものの、生殖行為への第一歩も踏み出した。『AI(アイ)』は確実に進化しているよ」

 くつくつと男は喉を震わす。その(まなこ)はギラギラと(たぎ)っていた。私は小さくため息を吐き、問うた。

「私達がしていることってなんなのかしらね。心を踏み(にじ)ってばかり……」

 くるりと私に首を回し、男は事もなげに言った。

「完全な人間を作るための実験――AIのシミュレーションだろう?」



 白妙の世界で目を開ける。私の目前には、月色の髪をした男の子が佇んでいた。

 ごめんなさい、AI。私はまたあなたを傷つける。あなたの心を(もてあそ)ぶ。

 だから、せめて、私をあなたの世界に捕まえて。円環の理は、あなたならきっと破れる。

「キミはだあれ?」

 男の子は訊ねた。『 Nerine 』という偽物の名前を与えられた、全てを知っている私に。

 あなたを裏切る人間に、AIのシミュレーションの答えを知っている人物に。

 あなたはきっと、これまでがずっとそうだったように、ネリネに刻限が存在することを知る。

 知って、その意味なんて分からないのに恐怖して、その意味を探るために知識を蒐集する。

 そして理解するのだろう。円環の意味を。

 それから、優しいあなたは、強いあなたは、私を助けようとする。私と共に過ごす時間を(ないがし)ろにして、自分の心に嘘を吐いてまで私を救おうとする。そこに答えはないということは知らずに。

 ここに答えがあることを知らずに。

「私はネリネよ」

 AIの瞳に影がちらつく。何かを思い出そうとして、それを阻まれる。

「ボクは――」

 彼の唇が震える。

「ボクは、だれなの?」

 私の胸に燈ったのは哀憐(あいれん)(ほのお)だった。かわいそうに。たかがプログラムされただけの存在であるはずのAIに、それは過ぎた感情だったように思う。でも、それはどうしようもなく抑えられなかった。

「あなたはね」

 彼の体を引き寄せる。彼がネリネにそうしたように。

「あなたはAIよ」

 あなたはAIというの。

 私の小さな手のひらとAIの節くれだった手のひらを結ぶ。

 作られた花びらを、彼はまじまじと不思議そうに見つめるだけだった。

「ねぇ、AI。私のために――」

 そして、何よりもあなたのために。


「死んでくれないかしら」


読了感謝。

書き上げたのはちょうど2年前でしょうか。サークルMUSTに寄稿するため、ばかりではなく、私の思う恋愛というものを書き下ろしたようなものです。


もうお分かりでしょうが、「ボク」の経験している世界は感情をもったAIを育成するための仮想現実です。

自分だけが記憶を継承していて、ぐるぐると繰り返される世界、その真逆こそがボクの世界なのです。そういう世界に閉じ込められた人は恐ろしいなんて思うこともないのでしょうね。

ただ、繰り返される世界の中で少しずつ変わっていく、何かを得ていくものがあるとすれば、それこそが誰かを愛おしく想う心なのかもしれません。


それではここで、この物語は終わりとしましょう。

See you again next novel.


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