婚約破棄
サリーアは、読んでいた本から目を離して紅茶を飲もうとカップに手を伸ばしてその手を止めた。向こうの方から待ち合わせの相手が来たからだ。
そこは、良家の子女……貴族の子女が通う学園の裏庭だった。サリーアは栞も挟まずに本を閉じてテーブルに置き、音もなく立ち上がり貴族の令嬢としての完璧な礼をとった。しかし、表情は本を読んでいたときと同じように感情が抜けきっている。
「……待たせてしまったようですね」
待ち合わせの相手はフィネールと言うが、そのフィネールは苦笑いをしてすみません、と謝った。
サリーアに対してそういう表情を出すことなど初めてに近いことだったが、サリーアはそれに対してもなにも答えることはない。それを確認してフィネールは切なそうに目を伏せた。
「座って話をしましょう。サリーア、お茶のおかわりはいかがですか」
「お気遣いなく」
にべもないサリーアの拒否に、そこはいつも通りであったのでフィネールはそこに置いてあった茶器で勝手に自分の紅茶を淹れた。本来なら侍女のすることであり、侯爵令息であるフィネールのすることではないが、人払いを願い出たのはフィネールであるし何より、サリーアと二人のときはいつもこうやって自分のお茶は自分で淹れるようにしている。
そうしてお茶を少し口に入れると、ホッと淡いレモンの香りと共にシンプルな紅茶の葉の香りが広がった。
少し冷めているのは、それだけ彼女がそこで待っていた証なのだと罪悪感が胸を過るが、まあ、彼女のお茶は基本的にこれくらい冷めたものが出てくるのが常であるし、恥ずかしくて口にはできないがフィネールは猫舌であるため、これくらいが丁度いい。
と、サリーアに目を向けるとサリーアは先ほどまで読んでいた本を開いてまた読み出していた。
「サリーア、君と俺が婚約して5年が経ちましたね」
婚約者が読書中であろうと構わずに切り出した。サリーアが聞いているのかどうかわからないが、緩やかなウェーブがかかった艶やかなブルネットの髪を耳にかけたのだから、聞く気はあるのだろうと判断した。本当かどうかわからないが。
「君との婚約は父たちが決めたものでした。それだけじゃない。この学園に入学したのも、王太子様の学友になったのも、将来、俺が君の、ウェントラル侯爵家に婿入りして君のお父上の跡を継いで宰相になるであろうことも。そこには、俺の意思はありませんでした」
声を荒げることなく淡々と告げるその声にサリーアはページをめくるだけでなんの反応もしない。
フィネールは持っていたティーカップをテーブルに戻した。
「俺は人形でした」
親が決めたことは絶対だというよりも、それが当然だと思っていた。そこになにかの不信感が入ることはなかった、はずだった。けれど、
「俺はこの学園でアリアと出会った」
椅子から立ち上がって回りこみ、サリーアの背後から両肩にそっと手を置いた。フィネール自身がサリーアのなにも映さない表情をみるのが辛かったからかもしれない。
「サリーア、貴女はアリアをご存知ですか」
「……存じ上げています」
それは、さすがに知っているだろう。平民でいながらその有能さに特待生に選ばれ、学生会に名を連ねている才女。さらには、学生会のトップであるフィリップ王子と先日想いを合わせ、それに腹を立てたシュレイツ公爵令嬢との醜聞は学園を震撼させる出来事だった。
「アリアと王子が結ばれた件は?」
「おめでたいことでしたね」
ペラっと白い儚い手がページをめくる。声音は本当に興味のなさそうなもので、それはサリーアの琴線に触れるものではなかったらしい。
「シュレイツ公爵令嬢を始め、学生会のメンバーの婚約者方はアリアの存在に危機としていました。その有能さを取り込むには婚姻が一番の方法ですからね」
正確にはシュレイツ公爵令嬢はフィリップ王子と婚約は交わしていなかったが、候補の筆頭ではあった。傍目から逆ハーレムを作りつつあったアリアに、学生会と懇意にあった女子生徒は戦々恐々としていた。
しかし。
「ですが、貴女だけは違った。俺の婚約者のはずの貴女は一切関係がないように一線をひいていましたね。そんなに……興味がありませんでしたか、サリーア」
「……興味が、あるかないかと聞かれればないわね」
バッサリと切り捨てるように冷たく言い放つサリーアの言葉にフィネールは、息を一つついた。
「アリアは、俺の心を溶かしてくれました。いつからか凍りついてしまっていた俺の心を」
ペラリと捲られるページを目に映しながらフィネールは本題を切り出した。
「婚約を破棄しましょう、サリーア。俺はもう人形に戻らない」
その直後、強い風が横から一度ふいた。
サリーアのブルネットも制服のスカートも、フィネールのプラチナの髪も一度なびき、そして収まった。
しばらく二人とも無言のまま、そしてサリーアがページをめくるのを合図にするっと肩の手を退けた。
フィネールがなにも言わないことを確認してすり抜けるように元来た道を静かに歩いて戻りだし、フィネール様と呼ぶ声に足を止めた。
「あたくしは貴方が人形だろうとなかろうと興味ないわね」
「でしょうね」
静かに告げる声に苦笑して返し、そのままその場を立ち去った。
もし彼がその時に振り返っていても気付かなかっただろう、彼女の目が伏せられていたことに。その長い睫毛に光る物があり、指でスッと拭ったことに。
フィネールはそんなことに気づかずに心の中で叫ぶのであった。
最後にかける言葉がそれかよ!
と。