第二話・1 神楽坂高校入学 前編
第二話 神楽坂高校入学
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藍里の体に宿る第二の人格になってから、僕は『神楽坂 藍里』として生活することになった。
かといって、本来の藍里の人格が無くなったわけではない。
しかし藍里は、「私のせいでこうなったのですから、大護さんが私の体を使うべきです」と言い、肉体の主導権を主に僕に委ねている。
おかげで、僕は慣れない体で慣れない動きをする羽目になった。
僕の本来の歩き方や話し方だと今までの藍里のそれとはどうしても違いが出てしまう。
そうなったら、藍里の人生になんらかの不都合が生じかねない。だから僕は必死に藍里のふりをしている。
藍里は「そんなことをなさらなくても、あなたのしたいようになさって下さい」とは言っているが、そうはいかない。
藍里と僕が一つの肉体を共有している。こんな状態が許されていいわけがないのだ。
本来、僕はあの時死んだはずの人間であり、『栄町 大護』の人生は既に終わっていなければならないのである。
だから僕は速やかに、藍里の体から出て行かなければならない。
しかし……
『このような形でも、大護さんが生きていてくれて私は本当に嬉しいのです。慣れない体ではあるでしょうが、大護さんが第二の人生を過ごせるように、私がサポート致します』
藍里は僕に依存している。依存した結果、僕を自分の体につなぎ止めてしまった。
この状態で、僕が藍里の体から出て行ったらどうなるだろうか。
……もしかしたら、後追い自殺を図るかもしれない。
それはダメだ。僕は藍里に僕がいなくても幸せに生きてもらいたい。
彼女は僕が死んだことを受け入れていない。受け入れていないからこんな状態になってしまった。
そして、僕の為に生きることを自分の生き甲斐としている。だから僕に肉体の主導権を渡している。
僕はその状態を許せない。
藍里は藍里のために生きるべきだ。決して僕のために生きるべきではない。
だが、彼女が自分の肉体を自分以外の人格に委ねているこの状況が、藍里の人生にプラスになるわけがない。
むしろマイナス。僕の存在は彼女にとってマイナスにしかならない。
だから、僕の目的は――
僕に依存する心から藍里を解き放ち、その上で藍里の体から去ること。
そういうことになるだろう。
だが、現状では僕が藍里の体から抜け出す方法は全くわからないし、この状況で抜け出せば藍里は暴走してしまうかもしれない。
だから、当面は藍里を説得することに専念するべきだろう。
だけど……
僕は今、藍里に対して必死に説得をしている。
「藍里……本当に代わってくれないか?」
『だめです』
「いや、だって……」
『これも練習なのです。あなたが私の体で、自然に振る舞えるように』
「あ、藍里だって恥ずかしいだろう?」
『……確かに恥ずかしいですが、これもあなたのためなのです』
僕――正確には僕が宿っている藍里の体――の前には、藍里の私服がある。
学校が終わって、(藍里の)自宅に帰ってきた僕は当然藍里の部屋に入る。
そして、いつまでも制服姿でいるわけにもいかない。
つまり……やらなければならないことがある。
『大護さん、お気になさらず『着替え』をなさってください』
着替え。
この体が僕の体であれば、なんてことのないイベントだ。
いつも通りに服を脱いで、いつも通りに服を着ればいい。
だが……今の僕は『いつも通り』にはいかない。
今の僕は、女性なのだ。
朝起きて学校に行くための着替えの時は、僕は眠った状態だったために『表』――この場合は肉体の主導権を握っている状態――に出ていなかった。
つまり、朝の着替えは藍里自身が行ったのだ。
しかし今、『表』に出ているのは僕なので、僕が着替えを行わなければならない。
つまり、必然的に僕は藍里を下着姿にすることになる。
「……いやさ、藍里はいやじゃないの?」
『恥ずかしさはあります。しかし、大護さんのお役に立てるのであれば苦ではありません』
だめだ、どうあっても藍里は代わってくれなさそうだ。
今日わかったことだが、『表』に出る人格の切り替えは、藍里にしか行えない。
つまり、僕は自分の意志で『表』に出たり、引っ込んだりは出来ない。
なので藍里が許可しなければ、この『着替え』を拒否することは出来ない。
……やるしか、ないか。
僕は制服であるブレザーのボタンに手を掛けて、外そうとする。しかし、いつもと逆側にボタンを動かさなければならないので手間取ってしまう。
そして、なんとかブレザーを脱いでハンガーにかけると、スカートからブラウスの裾を引き出す。
「……なあ藍里」
『大丈夫です。……どうぞ、お気になさらず』
頭に浮かんでくる藍里の言葉は、どことなく震えているように感じた。
……藍里は僕のためにここまでしてくれる。
嬉しさが、無い訳じゃない。しかし、そんな藍里の献身に罪悪感も感じる。
僕の存在が、藍里をここまで追い詰めたんだ。
だけど、今は『着替え』を早く済まさなければならない。いつまでも藍里を中途半端な格好にはさせられない。
僕はブラウスのボタンを一つずつ外していく。
「……っ!」
僕はブラウスの下にある肌と白い下着が視界を掠めた直後に、急いで顔を上に上げた。
そして、その状態でボタンを手探りで外し、ブラウスを脱ぐ。
「……」
肌寒さを感じながらも、僕は藍里の私服であるTシャツに手を伸ばし、目を瞑ってそれを着た。
だが、まだ関門は残っている。
今度はスカートを脱いで、私服のハーフパンツに着替えなければならない。
「……」
僕はスカートのホックを探したが、うまく見つけられなかった。
どうやら前面にあるものではないらしい、探してみると、左の腰の少し前くらいにあった。
ホックを外し、ファスナーを下ろす。決して、下は見ない。
『別に見ても構いませんよ』
「そういうわけにもいかないだろ」
藍里は特に僕に下着を見られることをいやがってはいないようだが、それでも女の子に恥を掻かすわけにはいかない。
僕はスカートを脱ぐと、素早くハーフパンツを履いた。
「……よし、これで着替えは終わりだ。藍里、これでいいだろ?」
『はい、着替えはこれで大丈夫です』
「……着替えは?」
『そうですね、トイレやお風呂に入るときに、都合良く私が『表』に出られるとは限りません。そこも練習しておきましょう』
「……いやいや、着替えは体育の時間があるからともかく、お風呂やトイレは人に見られないからいいだろ?」
『だめです』
「あの……藍里さん?」
『だめです』
……どうやら、課題は思ったより多いようだ。
それから半年が経った。
この半年間でわかった、僕と藍里の状態はこうだ。
まず先述の通り、『表』に出る人格の切り替えは藍里にのみ行える。
次に、僕と藍里が意志疎通を行うには、お互いに声を出さなければならない。
声を出すといっても、『表』に出ていない方の人格は周りには聞こえない。『表』の人格にだけ聞こえる。
しかし、『表』に出ている方は普通に口から声を出さないと、もう一つの人格に意志が伝えられない。
つまり、周りからは独り言を言っているように聞こえるのだ。
藍里が変な人に見られるとまずいので、周りに人がいる状態では、僕と藍里はあまり会話をしないようにした。
……それでも、藍里は構わず僕に話しかけてきたりするが。
あとは、『表』に出ていなくても、僕と藍里は周りを見ることも、音を聞くことも出来る。
ただし、それは人格が起きている状態である時のみである。
『表』に出ていない人格も睡眠が必要であるようで、僕が『表』の人格として活動している時に、藍里が眠ってしまって会話が出来ないことがあった。
そして、その逆の状況もあり、僕が気がつくと全く別の場所に移動していたりもした。
しかし、藍里が眠ってしまうと人格の切り替えが出来ないため、藍里が『表』の状態で眠ってしまうと、僕は『表』に出ることも動くことも出来ない。
藍里が眠って目を閉じてしまうと、僕はもうなにもすることが出来ないのだ。
そして、藍里の『能力』だが、やはりそれは藍里にしか使えなかった。
僕が藍里の能力を使うことは出来ない。尤も、使うつもりもないが。
だが、依然として僕が藍里から抜け出す手段も、藍里を僕への依存から救い出す手段も見つけられていない。
まず、こんなことを他人に相談することも出来ないし、前例もない。
色々と心理学の本を読んでみたりもしたが、二重人格という現象についてはまだわかっていない部分が多いようだ。
そもそも二重人格というものは、一人の人間が人格の一部分を何らかの要因で切り離した状態のことを言い、僕らのように二人の人間が一つの肉体に宿っている状態とは異なるらしい。
正直言って、僕が藍里の体から抜け出す手段は見当もつかなかった。
しかし、藍里を説得することも難しかった。
『大護さん、ご不便をおかけしますが、いずれは私の体であなたの人生を自由に過ごせるように、サポート致します。ご安心下さい』
藍里は自分の体で、僕が第二の人生を送るようにしようとしている。
だが僕はそんなことは望んでいない。しかし……
『どうか私に遠慮なさらず、あなたのしたいことをなさってください』
藍里は僕に尽くすことで、自分を保っているように思えた。
僕のために生きることが、自分の存在理由なのだと考えているようだ。
僕はそんな藍里に対し、
「藍里は自分のために生きて欲しい。それが僕の望みなんだ」
という自分の意志は何度も伝えている。だが、
『私の望みは、あなたの為に生きることです』
どうあっても、僕たちの意見は平行線になっていた。
そして、僕たちは高校に入学することになった。
僕は結局、受験の時も『表』に出ることになってしまい、藍里のサポートもあって、僕の第一志望の高校に行くことになった。
正直、藍里ならもっと上の高校に行くことも出来たかもしれなかったが、それでもあの高校のレベルは割と高かったので、先生や藍里の家族には喜ばれた。
そして今、僕は高校の入学式を終え、クラス名簿に書かれた教室で席についている。
だが、そんな僕に藍里が声をかけてきた。
『大護さん、申し訳ありませんが、少し代わっていただけますか?』
「え?」
突然の藍里の提案に、僕は戸惑う。
この半年間、藍里の方から交代を申し出ることは無かったからだ。
「わ、わかった。いいよ」
『はい、それでは』
その言葉の後に、僕は肉体の主導権を失い、体が動かせなくなる。
この状態になると、他人の体に宿っているという気分が強くなるし、正直言ってあまりいい気分ではない。
だが、僕はずっと藍里にその状態を強いてきたのだ。
それを感じた僕は、改めて藍里の肉体から出ていく決意を強くする。
そう考えていると、教室内で拍手が起こった。どうやら出席番号順に自己紹介をしていくようだ。
『か行』である藍里の順番は割と早くやってきた。前の席の生徒が自己紹介を終えたのを見て、藍里が教壇に上がる。
「えーと、次は神楽坂さんですね」
「……」
藍里は担任の教師の呼びかけには応えず、しばらく沈黙していた。それを不審に思った教師が声をかける前に、藍里が口を開く。
「初めまして、栄町 大護と申します」
『……っ!?』
なんだなんだなんだ!? 藍里は何を言っている!?
『あ、藍里!?』
「…………」
思わず藍里に声をかけてしまうが、藍里は応えない。
そして、クラスメイト達は僕よりもっと驚いていた。
「なあ、どう見ても女の子だよな、あの子?」
「うん、というか神楽坂って名前じゃないの?」
「なんだなんだ? 自己紹介でインパクトを与えにきたのか!?」
当然だ。女子である藍里が『栄町 大護』などという、どう考えても男子としか思えない名前を名乗ったのだ。驚くに決まっている。
そもそも名簿には『神楽坂 藍里』と書かれているのだ。クラスメイトや教師からすれば、こんな不可解なことはない。
戸惑いながら、教師が藍里に声をかける。
「あ、あの、神楽坂さん? どういうつもりかな?」
見たところ三十代の男性教師は、今までにない自体に困惑しているようだ。
「言葉の通りです。私の……いえ、僕の名前は『栄町 大護』といいます」
『ちょ、ちょっと、藍里!?』
待て待て待て。
名前どころか、一人称まで変えてきたぞ。何を考えているんだ藍里は!?
……そこまで考えて、僕はある一つの結論に達する。
藍里は僕が藍里の体で第二の人生を歩むようにしている。それが自分の生きる理由だと考えている。
そして今、藍里は高校に入学し、新たな環境となった。
周りは皆、藍里のことを知らない人ばかりだ。割とレベルの高い高校のせいか、同じ中学の生徒は少ない。
ならば、藍里はどうする?
周りの人間に対し『栄町 大護』と名乗り、僕が僕として生きやすいようにする。
……なんということだ。
僕は甘かった。正直言って、今まで藍里のふりは割とうまくいっていた。
だからゆっくり藍里を説得していけばいいと思っていたのだ。
だが藍里の僕への依存は、僕が思っていたよりずっと深かった。
そう、自分の名前を捨て去ることを躊躇わないほどに。
……ふざけるな。
僕の心は今、自分自身への怒りで満たされていた。
ゆっくり藍里を説得していけばいい? 何を考えていたんだ僕は。
そもそも、藍里の体の中に僕という異物が入っている状態が一秒たりともあってはいけなかったんだ。
その異物が入ってしまった結果、藍里は自分の人生を僕のために使おうとしている。
冗談じゃない。藍里の幸せはどうなるんだ。僕が願った彼女の幸せはどうなるんだ。
時間がない。藍里の人生が壊れる前に、二つの課題を速やかに達成しなければならない。
藍里は僕と出会い、新たなスタートを切った。だがそれは、間違った方向へのスタートだったんだ。
だから僕は、藍里にもう一度……そう、第三のスタートを切らせなければならない。
それが僕の……最後の使命だ。