週末のシャンパン
カランカランと店の扉のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
入り口脇の店員が静かな、それでいてよく響く声で客を出迎えている。
今日は金曜日――世間で言う週末で、お酒を飲んで帰る人も少なくない。
かく言う大樹もその一人である。
自分が先頭に立って進めていた大きなプロジェクトが終わったので自分へのご褒美としてシャンパンを頼むつもりで。
ただ今日は仲のいい友人や尊敬する上司とでも飲む気にはなれず、一人で雰囲気のいいバーに来ていた。
こんな時に自分を労ってくれる妻や恋人がいないことが少し寂しくも思う。
そんな考えをかき消すかのように、店員にシャンパンを少し大きめの声で注文する。
薄暗い室内の中でしゅわしゅわと音を立てるシャンパンは、ほの明るく手元を照らしてくれるようだ。
それはまるで自分を労わってくれているようで、一瞬見とれつつもゆっくりと口に含む。
店内のざわめきがだんだんと遠くに聞こえて、大樹は思わず目を閉じた。
***
「隣、失礼してもいいですか?」
もしかしたら意識を飛ばしていたのかもしれない。
ざわめきが近くに帰ってきて、それと同時に澄んだ声が大樹の耳に届いた。
目を開けて声のした方に向ければ、そこには自分より少しだけ年下であろう、とても綺麗な女性が自分を見下ろしていた。
「隣、いいですか?」
先程と同じ言葉を繰り返し、首をかしげる。
「あ、どうぞ」
その仕草に心を奪われながらも平静を装って自分の隣の椅子を引いた。
目の前の女性はやわらかく微笑み、まるで花びらのようにふわりと椅子に腰かけた。
「何かのお祝いですか?」
彼女は尚も優しい笑みを浮かべて話しかける。
「まあ、一応。そんなものです」
ちらりと辺りを見回すと店内は週末にしては満席になっておらず、ちらほらと空席が目に入った。
なぜ自分の隣に座ったのか、なぜ話しかけてくるのか、自分の容姿にそれほど自信がない大樹は考えを巡らせる。曖昧にへらりと笑いながら。
自慢ではないが、昔から女性にモテる方ではなかった。
何のお祝いかと聞く彼女に遠慮がちに理由を話すと、屈託の無い笑顔を見せてくれた。
「ぜひ一緒にお祝いさせて下さい」
そう言って自分と同じシャンパンを頼む彼女に困惑を隠せなかったが、なぜ自分と、とはとても言えなかった。
自分に好意を持っていてくれるなら野暮というものだし、大樹自身も目の前の女性がとても魅力的に思えたから。
彼女はシャンパンの注がれたグラスをきらきらとした瞳で見つめた。自分も先程はあんな顔をしていたのだろうか、と酔った頭で大樹はぼんやりと考える。
「乾杯。…お疲れ様でした」
彼女の持つグラスと自分のそれとが小気味よい音を鳴らしてぶつかり合った。
お疲れ様の言葉がこんなにありがたいと思ったのは久しぶりだ。
つまらないであろう自分の仕事の話を優しい瞳で聴いてくれる彼女に、完全に心奪われているのを感じた。
それが単なる彼女の気まぐれだったとしても、それでいい。
このまま夜が明けないで欲しいとさえ思った。
***
どのくらいそうしていただろう。
聞き上手な彼女に促され、酒の力もあっただろうが普段では考えられないほど饒舌な自分に気付く頃にはもう何杯目のお酒かわからなくなっていた。
「お客様、そろそろ閉店でございます」
静かな、でもよく通る声の店員が告げる。
「今日は楽しかったです」
自分の隣に腰かけた時から全くと言っていいほど顔色が変わらない彼女が、相変わらず澄んだ声で告げた。
この声を、毎日聞きたい。大樹は若い頃の恋心と同じような感覚が自分の中に芽生えているのに気付いた。
「僕も…」
そんなありきたりな言葉を吐き出す。違う、言いたいのは、こんなことじゃ…。
思わず顔を上げて既に立ち上がっている彼女を見上げる。
今日初めて、彼女の瞳を見た気がする。
「君の、名前は…?」
「―――――…」
微笑んだまま、口を開いた。
周りは奇妙なくらい静かなのに、何故か声が聞き取れない。
よく通る澄んだ、その声を聞きたくて勢いよく立ち上がる。…と、そのはずみでグラスがぐらりと傾いた。
聞こえるはずの耳障りな音すらも聞こえない。
真っ暗な目の前に自分が目を閉じていたことに気付き、そっと目を開けた。
眩しいほどの光が視界を覆い、眉間に皺を寄せる。
その光に目が慣れたら、見慣れた自分の家に居ることに気付いた。
寝転んでいた黒革のソファー、テーブルの上には空になったシャンパンの瓶、そしてひとつのシャンパングラス。
久しぶりにいい夢を見た、清々しい…でも少し残念な気持ちを抱え、大樹はカーテンを開けた。
春の訪れを告げるような澄んだ青空が眼前に広がる。
眩しい太陽の光が部屋に射し込み、テーブルの下に転がるシャンパングラスが応えるように光を鳴らした。