早川瀬奈と「蜘蛛の糸」 前編
早川瀬奈は大概の空き時間を学校図書館で過ごしている。それだけでなく、放課後、委員として規定の時間の作業を終えてもなお完全下校時刻までそこにいて、本を読んでいる。司書の先生がいようといなかろうと関係無い。鍵を使う権限まで与えられている。
俺はそんな早川に近付くべく同じように図書委員としての作業を超えて図書館で過ごすようになったのだが、彼女は別段それを嫌がる様子も無い。本に区切りがついているときなら、話しかけられればただただナチュラルに会話が成立する。
今日の早川は作業を切り上げ、芥川の短編集を手に取っていた。言うまでも無く読書家である早川なら、既に読んだことはあるだろう。彼女が切りのいい所で読み終えたら、話しかけてみてもいいかもしれない。
忘れ物の整理や書架のチェックなどをしながら、早川の様子をうかがっていると、少し変わったことに気がついた。
早川が冒頭の数ページを何度も読み返している。読むのがそれなりに早い部類のはずなのに、手が暫く止まったりもする。それが珍しくて、俺は思わず問いかけてしまった。
「早川さん、芥川の何読んでるの?」
割とやっちまった、という意識が頭に登った。本を読んでいる人間に声をかけるなんて、絶対にやっちゃいけないノーマナー行為だということくらい、俺だって読書好きなのだからつくづく良く分かっている。
返事を返す気にすらならないだろう、あぁ、本当に申し訳無い――という俺の心配をよそに、意外にも早川はすぐに反応した。
「『蜘蛛の糸』なんだけど、分からなくて」
「分からない」
そんなに複雑な話だったろうか。早川だってもう読んだことくらいあるだろうに。
「何で蜘蛛なんだろうね?」
「と、いうと?」
「なんで数ある選択肢から蜘蛛なんだろうって、それが気になって。極楽と結びつく生き物ではないと思うから」
もしかして彼女は今日それを解き明かすために読んでいたのだろうか。にしても、目の付け所がシャープというのか、ひねくれているというのか。早川が続けて言う。
「でも詰まってたから丁度良かった。赤羽くんはなんでだと思う?」
早川の視線は先ほどから俺を見てはおらず、ただただ本の見開きに向かっている。別にここにいるのが俺でなかったとしても、同じように喋っていたかもしれない。本当にただ丁度良かったのだろう。
しかし、どうして蜘蛛だったのか、か。
蜘蛛はカンダタの善行の印であり、それがカンダタに差し伸べられた救いの手段になるというのは納得感がある。
しかし確かに彼女の言う通り、蜘蛛という生き物自体はあまり極楽に相応しくないように思える。人間にとっては益虫であるものの見た目的には気持ち悪がられる虫だし、タイトルである蜘蛛の糸から作られた巣は人の手が入らない暗い廃屋や倉庫にあるイメージだ。綿密に練られた悪事の計画も蜘蛛の巣に例えられるか。
「たしかに言われてみれば不思議だな……あんまり良いイメージの虫じゃないし、生前カンダタが蜘蛛を助けたからだとは言っても、別にそれが例えば鳥とかでも物語は成立しただろうし」
鳥の脚に掴まって血の海の上を行くカンダタと、それにすがろうとする罪人たちを想像する。別にこれでもまぁいけるだろう。
「早川さん、俺にも一回読ませて」
「良いよ」
早川から短編集を受け取る。本当に短いカンダタの物語に目を通してみる。
生前蜘蛛を助けたカンダタを助けるためにお釈迦様は蜘蛛の糸を垂らす。それを登るカンダタだったが、自分の後に続く罪人たちを見ると糸が切れるのを恐れて怒鳴り散らす。すると糸が手元から切れ、カンダタを含め全員が地獄に逆戻りする。それをお釈迦様は悲しそうに見ている。
彼女の疑問は確かにその通りと言えるものだ。蜘蛛である必要性があるかと言われると、言い切るのは難しい。
「どう思う? 赤羽くん」
早川に尋ねられて、取り敢えず言葉に出来る部分から喋り出してみる。
「……ええっと、まずこの話、糸が切れた後の第3部分は無くても話が成立すると思った」
「……なるほどね? うん、確かにそれでも寓話として成立するね」
早川は一度首肯して見せ、その後一呼吸置いて続けた。
「……でも短編では基本的に無駄なものは書かないし、芥川はわざわざそれを書いた」
「となると第3部分の役割は……役割は……」
第3部分を何度も眺めてみる。お釈迦様はカンダタの様子を見ていたが、悲しそうに歩き去る。極楽は地獄の様子になど一切頓着しない。糸が切れた第2部分の終わりよりは読後感が少し柔らかくはなっているが――
「ねぇ、早川さん」
俺は初めて読んだときには気付かなかったことに思い至って早川に声をかけた。
「何?」
「このお釈迦様がカンダタに降ろした蜘蛛の糸だけどさ……糸を切ったのは多分、お釈迦様じゃないよね」