松下村塾(1)
「松下村塾」
あの時依頼、松陰とのやりとりで完全に敗れた久坂は、暫くそのことを恥じ自室に篭ってただ悪戯に日々過ごしていた。
そんな彼の元へ、ある日中谷が再度来た。
「なんだ、玄瑞は。まだ沈んでいるのか?」
「沈んでは居りません。ただ、吉田殿と会うだけの資格が僕にあるのかどうか」
久坂は会ってもっと語りたいと思う反面、今までの書の事で少しでも松陰が不快に思っていないか、兎に角対面する事が不安で仕様が無いのだ。
「なんだ?もしかして怒っているとでも思ってるのか?先生はあんな事位じゃ怒りゃせん。」
中谷はなんとか彼を立たせようと、必死になる。
そんなやりとりが続いていて早くも一時(二時間)が経過した頃、玄関の方へ新たな訪問者が訪れた。
「久坂君はいるかね。」
低いが淡々とした声の主は一昨日に会って対談した大楽のものであった。久坂が一向に部屋から出ない為、代わりに中谷が玄関先へ客人を出迎える事になった。
「おお、確か貴方は久坂の近所の、大楽殿でしたな。」
「如何にも、久坂君は病に召されたのかな?」
「いや、病ではないが・・・。ま、立ち話もアレだ・・・上がってくだされ。」
中谷は大楽を伴って久坂の自室にと足を踏み入れる。そこにはいつもと違って小さくなっている彼が居た。
「久坂君、今日は随分元気が無いじゃないか?」
少し笑いながら大楽が言う。
「・・・・・・源・・・大楽さん、吉田殿に対してアレだけの論議をした僕が、今更親しく向き合う事ができましょうか?」
久坂は俯いたままそう呟いた。
この言葉に少し溜息吐きながら、大楽と中谷は互いに困った様に顔を合わせた。
暫くどうしたものかと沈黙し、考え込んでいた大楽は徐に立ち上がり、襖を開け外を眺めながら、
「その程度の事で吉田殿が激昂する訳が無い。それよりも早く彼と対面し、君もはやく立ち直ってくれねば成らぬ。攘夷を唱えるにも覇気の無い今の君では誰も付いては来ぬし、今は僅かな時間も無駄には出来ぬご時世。」
「大楽先生。やはり中谷さんと同じ様に言われますか。」
「不満かな?」
大楽がおどけて言うと、久坂は顔を上げて今度は手を平つかせながら笑んだ。
「ふふふ、とんでもない。有難う御座います。のんびり悩む様な時間的余裕はもはや無しとせねば成りませぬな。正午過ぎから松本へ伺う決心がやっとつきましたよ。」
久坂が今まで思っていた悩みをすっかり吹っ切った事を確認すると、大楽はならば結構と満足気にそのまま玄関口から帰っていった。二人で彼を見送った後、中谷も小用があるという事でさっさと外へ出て行ってしまった。久坂は、また一人部屋の中
へ戻ると、先程までとは打って変わって元気を取り戻し、机に向かい筆を取ると何時もの如く詩作に耽るのであった。
久坂玄瑞にとって生涯の師である吉田松陰。
彼との出会いを中心として、様々な盟友を得、成長していく、志士・久坂玄瑞の始まりとも言える節です。
ここからが、本スタートといっても過言ではないかなと思っています。