終焉の炎(9)
照りつける日差しが、海面に反射して眩い初夏の暑さ。
久坂は、この時上洛船に揺られ、郷里を発った所であった。
懐かしい景色が次々後ろへ流れ行く様は、どこか哀愁漂うもので、若い彼はしんみり
した気持ちになっていた。
船上で、滅多得られぬ暇を持て余して、彼は郷里を描き歌を口ずさむ。
梓弓はるは来にけり武士の
引かへさじと出づる旅かな
瀬戸内の海より見える高い山の彼方には、生まれ故郷の萩がある。
かつて、政堂が山口に移るまで、ずっと長州藩の中枢であり、そして自分達が松陰と
出会って、学んだ古き大事な学び舎。
そして、恩師より与えられた大事な人がいる。
何度か機会を設けて会いに・・・と思ったが結局何かしら、お呼びが掛かってそちらに手を
取られ、彼女と夫婦らしい生活を過ごす事も叶わぬまま・・・こうして自分は戻れぬ旅へ
出発している。
(・・・せめて一度位会ってやりたかった)
辰路との事もあって、どうにも後ろめたさが付きまとうが、それでもここにきて彼は改めて
妻を深く想いわびる気持ちが湧いて止まない。
せめて、別れ一つと思って、ついに今日を迎えた事が彼に多少憂いを遺していた。
最後にと、遠い萩にいる妻への手紙を認める。
「暑さの節にに相成り候へ共、先ず先ず御変わりなく、暮らされ候よし、いかにも安心致し候。
・・・・困りおり参らせ候・・・・・・留守へ・・・・よしすけ」
いつも通りの筆遣い。
彼が妻にこれまでに送った手紙は大体が「武士の妻」に向けた、少々堅苦しい注意書き差ながらの
文面であるが、それも今日限りで終わりだと思うと、多少なり彼女を気遣ってやんわり記そうと
想いを巡らすのだが、やはりいつもの堅い文面になってしまう。
(・・・これでは、全く詫びの言葉一つ見つからんじゃないか・・・)
一通り、書き終えてみると相変わらずの書き文句に思わず苦笑いする。
これ程緊迫した環境下で、いつもの自分で居させてくれる存在が妻・お文だけであると、久坂は
深く感じ取っていた。
そう思うと、会いたい気持ちも膨らもうが、如何せんここは船上。
ましてや、最期の船出である。
惜別の情に囚われる訳には行かない場所だと、僅かに膨らんできた妻への思慕の情を必死に振り払い
彼は再び手紙を畳むと、向かう先をじっと見つめた。
6月の25日には大坂へ船は到着。
明後日には福原越後、来嶋又兵衛ら一隊は一路伏見を目指し、そこから嵯峨天竜寺へ入った。
もう一隊、久坂義助、真木和泉らは淀川を遡って山崎を目指し、天王山・宝寺へ。
彼等は京へ入るや、京都留守役の乃美織江を通じ、所司代へ長州勢入京を取り付けさせた。
久坂もまた、朝廷へ向かって藩主父子と都落ちした公卿らの禁足を解き賜えと嘆願書を
提出したのである。
あの政変後、京都には浪士等がまだ命がけの潜伏を続け、長州上洛を待ち望んでいた。
彼等は、長州軍が到着すると知るや、嵯峨天竜寺へ向かい総勢百余名の志士達がこれを待ちうけ
ていた。これに呼応する形で、来嶋又兵衛は天竜寺入りしたのである。
当然、この不穏な動きに反応するものが居た。
会津藩主であり、京都守護職に就いていた松平容保である。
彼は、御所九門をぎっちり固め、各部警護を厳重にさせた。
そして、ここで更に長州からの嘆願書の取り扱いに関する協議もなされた。
入京許可をしてはと温情的な意見がある中、やはり薩会と共に将軍後見職であった一橋慶喜(後・最後の
将軍となる徳川慶喜)等によって、長州軍撤兵の強攻策が強く主張され押し通ってしまった。
こうして、朝廷より長州側への撤兵命令が下されるや、留守居役の乃美をはじめに伏見の福原越後へと
伝わったのである。
福原ら長州軍はこれに対し、一層憤怒募り一歩も引かじと尚も入京を迫るなど譲らぬ姿勢を見せ付け、
撤兵命令に断固拒否し続けたのだった。
7月・・・
こう着状態が続く中、いよいよ長州勢後続部隊が到着。
それぞれに天竜寺や山崎へと持ち場へ入り、軍勢を以って各拠点を陣取った。
知らせを受けた幕府と朝廷、これに対し迎撃せんと諸藩兵力を静かに京の都へと召集し御所の警備を一層
強化し始めたのである。
初頭には薩摩の西郷吉之助が兵を率いて入京。
土佐、久留米両藩に会津と討長を唱える諸藩と共に建議し、長州への温情を持つ公卿らを牽制しつつも
着々と軍勢整え、その数は長州藩の勢力を遥かに上回る数万の大軍と成っていた。