終焉の炎(8)
慎重派の意見から、進発論へと訂正した書簡。
それが長州藩政堂へ届けられたのは五月の事であった。
過激に進発論を唱える一団の中でも、来嶋又兵衛に投げられた言葉は自身の成した火種が一因となって
おり、已む無きところもある。とても跳ね返せる力はない。
『 久坂よ、己は今更になって幕府の威に臆しておるのか 』
高杉晋作に向けてもこの台詞は投げかけられ、半ば躍起になったのか高杉は脱藩を試み、その罪で
野山獄につながれている。政治の中枢にあった周布政之助は、彼等にとってある種理解を持った人物
であったが、此の度の議論には流石に慎重論を唱えていた彼もその強硬な姿勢に対抗する術なく、
野山獄の高杉を訪ね下馬せぬまま獄舎に踊りこむという振る舞いを見せ、謹慎に処せられてしまった。
(周布殿・・・敵わじと悟って逃げたか)
久坂は内心舌打ちをした。
これで、あの爺様方を抑える人間はいないに等しい。
高杉も獄舎、桂は遠方で愚痴を洩らすだけ。周布は自ら退いた。
これではどうあっても藩是を覆すは不可能であろうか・・・。
暖かい日差しが久坂の頭上から降り注ぐ。平和な時であれば、のんびりと穏やかな散歩日和だが、今は
そんな余裕も無い。焦りが脳裏を支配し、あらゆる言葉と姿が浮かぶのだ。
彼は、草を踏みしめゆっくりと歩を進めながら、来嶋又兵衛の言葉を反芻した。
(これ以上何を言うとも、長州藩の立場は変わらぬ。訴えるという動作は書面でだけ語れるものではなかろ。
敢えて動く・・・あれこれ考えてばかり居っても同じ時は流れて居るのだ。なりふり構わずでも先へ進まねば
薩会等に遅れを取るだけじゃろうが)
ふと、立ち止まって彼はじっと己が足元を見つめた。
緑の草花が生い茂り、足に絡まっている。
風雨に晒され様と、踏まれ様とひたすらに生き続ける緑の草花。
それこそ、変な言い方をすれば「なりふり構わず先を見据え進む」に等しいのではなかろうか。
久坂は一呼吸置いて、足元にある緑の細い草を手にとって見た。
草は小さく、風に攫われどこへでも流れていく。
ただ、流れ流されるままに、行く先を信じてそのまま身を委ねる小さな緑に久坂はしっかりと何かを感じ取っていた。
彼はその足で、散歩道を政堂へ向けると、藩主へ面会を求めるのであった。
「恐れながら、我等にも進発を覚悟すべき時が参りました。」
久坂の言葉に藩主は驚いた。
ほんの数日前までは慎重論に近しい論を述べていた久坂が、ここで意見を翻したからである。
「猶予せよと言わなんだか、何ゆえ・・・」
「もはや、これ以上待っては我等が唱えてきた論そのものが、崩壊し兼ねません。この局面で戦いを避ける姿勢は
長州は臆したりと、二度と再起出来ぬ汚名を残したまま歴史に埋もれ、また師・吉田松陰の言葉も憂いも何もかも
失ってしまいます。幕府の暴威をここで黙ってやり過ごす事はできませぬ故、進発を敢えて覚悟と致した次第・・・」
久坂は淡々と伝えた。
その目に迷いは感じられない。
藩主は深くため息を吐いた。
「左様か・・・暫し結論を待ってくれぬか。」
藩主は視線を下に向け苦しげな表情のまま、ぽつりとつぶやいた。
以前より桂小五郎から慎重論をと手紙が幾度となく届いている。
藩の長たるものとして、藩主敬親父子は家臣のこの意見対立に頭を痛め日々苦悩していたのである。
しかも、ここへ来て久坂という藩内でも力を持った指導者的存在がこれまでの主張を一転させ、進発論へ傾倒しつつ
あるから、彼等は一層重苦しいため息を吐いて頭を抱えてしまった。・・・過激な藩士を抱える主家として已む無き悩みである。
元治元、六月に入ると夜中まで蒸し暑く、じっとりした湿気が身体にまとわりついて気持ちの悪いものである。
京の都は尊攘と佐幕のそれぞれを抱える志士らの熱い熱気に照らされ、ねっとりとした空気に包まれていた。
同月五日晩・・・
祇園祭を控える京都の夜に静寂を打ち破る怒号が響き渡った。
河原町、京都の繁華街であるこの場所に1件の旅籠がある。
・・・池田屋―・・・
ここで、大きな物音と怒声、悲鳴があがった。
戸板は乱暴に外され、障子も襖も鋭く切裂かれ真っ赤な手形とヌルっとした粘液が飛び散っている。
ドタドタと階段を移動する音、ゴロリと崩れる音・・・
「御用改めである!」
この怒号を皮切りに始まる生き地獄は、一夜に終わった。
床も天井も壁一面が鮮血に染まり、臓腑が蛙の様に壁や手すりにしがみ付いている。
この日、旅籠には長州、肥後、土佐など諸藩勤皇の志士が密かに集まり会合を開いていた。
薩摩、会津より天皇奪還の決起会合である。
京都に火を放ち・・・と過激な作戦を立てるのは長州藩松下村塾の志士・吉田利麿、肥後勤皇党の宮部鼎蔵など
大物と言われる志士達の指導者達である。
彼等の会合を聞きつけた京都、会津御預・近藤勇率いる新撰組が東西二分となって捜索し、遂に池田屋へ乱入。
惜しくも勤皇の志士達を指導すべき吉田宮部をはじめとする先駆者達は激戦の末、討死あるいは自刃し果てた。
何とか旅籠より外へ逃げたもの達も、応援に駆けつけた新撰組や会津桑名といった諸藩兵によって捕縛される
大惨事となった。
世に言う池田屋事変である。
この事変によって、明治維新が一年は遅れたと言われている。
久坂玄瑞らはこの頃、山口政堂に居た・・・。
この池田屋の騒動が彼等の運命をある方向へと導くのである。
煮詰まっての執筆作業。
少しずつ丁寧に仕上げたい気持ちはありますが、未熟な文字配列・・・御容赦くだされ;