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久坂玄瑞伝  作者: sigeha-ru
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終焉の炎(4)



妙法院本堂は狭い造りだったので、藩兵達は殆どが境内の屋根の下で肩を濡らしながらじっと暗い

夜空を見上げ耐え忍んでいた。

京の藩邸を出て、ここで更に京都撤退。

皆身心ともに疲れ果てた風であったが、それでも眠りにつけるものは殆どと言っていいほど居なかった。

彼等にとって今日一日がとてつもなく長く重い日になっていた。


雨に打たれる彼等に、益田家老が帰国の日程経緯を簡潔に伝えるが、もはや兵士等に声を上げるものは

一人としていなかった。すっかり意気消沈という所である。

久坂は会議が終わると、藩兵の中に入り込み経緯を伝える重苦しく震える家老の声に聞き入りながら

一つ一つ言葉を組み立てる。

声が止むと、辺りは静寂に包まれ雨の音だけが無常に響き渡った。

彼は深く目を閉じ、その静寂の中に、哀愁帯びた美声を暗い夜空に響かせたのである。





―世は苅菰と乱れつつ


 茜さす日もいと暗く蝉の小河に霧立ちて、隔ての雲となりにけり


 あら痛ましやたまきはる、内裏に朝夕殿居せし


 実美朝臣 季知卿 壬生 澤 四條 東久世 其の外錦小路殿


 今うき草の定めなく、旅にしあれば駒さへも、進みかねては嘶ひつつ


 降りしく雨の絶え間なく、涙に袖の濡れ果てて


 これより海山あさぢが原、露霜わきて葦が散る


 浪華の浦にたく塩の、からき浮世は物かはと


 行かんとすれば東山、峰の秋風身にしみて、朝な夕なに聞きなれし


 妙法院の鐘の音も、なんと今宵は哀れなる


 いつしか暗き雲霧を、払いつくして百敷の、都の月をめで給ふらん


 文久三年八月十八日、おもふことありてこの舞曲をうたひつつ都をいで立侍る―




久坂義助が詠う即興の今様である。

皆、ぼんやりと聞き入っていた。

もとより、彼の美声は今日の芸妓達に持てはやされ、時折彼が即興の詩吟を詠へば、

「長州の久坂はんが通る」と女達が我先にとその姿を人目見んと寄り集まってきたものだった。

その中には、深く情交のあった辰という妓も居た。

かの芸妓とは、文久元年頃か・・・上洛活動を本腰入れて始めた頃、懇意にしていた揚屋でその

美しい成りと裏腹に快活な彼女を見初め相方に据えたのが始まりで、以後何かにつけて宴席に彼女を

揚げていた。


辰にはこの事変の以前に最後の儚い宴を済ませている。

郷里で待つ妻に申し訳ないと思いながらも、想い馳せる辰にどうしても会わずに居られぬ己が居た。

三本木に寄ったのはすっかり日の落ちた刻。

只管に彼女を求めて走った記憶はまだ新しく、温もりも手に残っている。

武士の自分を見せるのも、逢瀬もこれが最後であろうと、悟ったからこそ今は何もかも振り切ってでも

会いたいと願ったのだ。

彼女の室についた頃、丁度違う座敷に揚がっていた様で、そこは漆黒の闇が広がっていた。

丁稚はいたから、消して真っ暗闇ではなかったけれど、辰路の居ない室内は闇の様に映っていた。



「あの人はお勤めですか?」



久坂は静かに問いかけた。

まだ、僅かに呼気は荒く余程切羽詰った感がある。

内心彼は、自身の情けない程の姿を想像して苦笑いした。これ程に彼女を求めている自分が信じられぬ程だったのだ。



「久坂様、直ぐ使いを出しましょう、お待ちになりますか?」


久坂がそれに頷くと、丁稚は直ぐ様走り去っていった。

後姿を見送ると、彼は大きくため息を吐いて、傍の壁にもたれ掛り待つのであった。


やがて、バタバタと着物の摺れる音がするや、走り寄ってくる辰路の姿が視界に飛び込んできた。

艶やかな着物にシャラシャラと飾られた櫛。

白粉に赤い紅が映え、目を奪われる美しさをそれら全てが引き立てている。

漆器の髪が僅かに乱れて落ちている所は、己の為に急ぎ駆けつけてくれたからであろう。

そう思うと、久坂はどうしようもない愛おしさに襲われた。


「久坂様・・・!」



辰は彼の姿を見て息を飲んだ。

まだ短いものの、結われた黒髪。そして、何より目を引いたのは堂々たる武士の装束である。

羽織袴に大小を差した威風堂々たる若侍の凛々しい姿に思わずほぅ・・・とため息がでる。

辰は暫し、その姿を見つめ魅入っていた。


「お辰・・・すまないね。急がせてしまった様じゃが、あちらは大丈夫じゃったか?」



恐らく、座敷を抜けて出てきてくれたのだろう。

心配する久坂に、辰は軽く首を振って「いいえ」と小さく応えた。



「久坂様、うち・・・こないな立派なお武家様、ほんに初めてお会いしましたえ、とうとう武士に

ならはったんどすなぁ・・・」



うっすら涙を浮かべて、妓は久坂の姿を拝み見た。

その姿を一層愛おしく思い、彼は彼女の小さな腕を掴むや自身の胸に引き寄せ掻き抱いた。



「これまでの働きも認められて、やっと武士にして貰えたんじゃ。これからもう、後に退けぬ戦いに

出ねば成らんから、きっと君に逢うのも最後になるやも知らん。」



「・・・うちは久坂様言う志士様に添うた時よりいつもそれは覚悟しとります」



ギュッと辰は久坂の着物を握り強く抱き返した。

ほんの僅かの時間だが、二人は時が止まった様にただ抱き合っていた。

やがて、久坂は刀を座敷に置くと、彼女をその場に抱き寄せたまま身体を横たわらせた。


辰は視界に移る久坂の憂いの表情を見るや、これが本当に最後なのだと悟った。

彼女は最後の儚き宴にその身を全て委ね目を閉じた・・・。

男の熱い身体を受け入れ喘ぐ中で、彼女は只一つだけその生命を体内に継承させたのである。

この時はどちらにも、解らぬ事であり、久坂自身それを知らぬままに世を去るのである。



政変によって都を追われる、その時に話を戻そう。

先ほどの辰路と別れ、京都でしてきた全ての活動が閉ざされんとするその無常。

久坂はまだ若く、その表情は虚しさと切なさで、憂いを帯びていた。


(いずれにせよ、もう彼の人にも会えまいな)

チクリと痛む気持ちを抑え、彼は只管に声を張り詠い続けるのであった。






こうして明くる朝、七卿と藩兵達は大坂・兵庫へ引き上げ再び其処から長州を目指し長い道のりを進んだので

ある。


8月18日の政変、七卿落ち・・・

明治維新を遅らせたとされる、様々な出来事がここから始まるのである。





更新久しぶりです。

やはりサイトかこちら・・・どちらかを優先的に完結させるなりしないと難しいかもしれんですね。

サイトの更新を間隔を考えて行なっていると、こちらがどうにも更新遅い!という羽目に。

ちと考えなおしが必要かもしれませんね。

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