幕末期到来(8)
久々に酔いが回り、起き出したのは何時もより随分遅く既に陽は正午近くに昇ってきていた。
「うぅん。昨日はちと飲みすぎたかな。こんなに遅くまで眠りこけとるとは・・・いかんな・・・。」
大きく伸びをして、井戸の冷水で顔を洗いふと門の前に立てかけている木箱を見ると、一通の封書らしきものが見える。
(さては松陰から何か言って来たか?)
久坂は井戸から急ぎ足で木箱へ近づき、内に引っかかっている封書を手に取るとまた今度は室内へ大股で入っていった。
封の裏を見ると、間違いない。吉田寅次郎松陰の見慣れた字で銘打ってある。
(今度こそ認める様な内容が書かれているだろう・・・・・・)
久坂は机に向かい封を急いで解くと、書かれている文字を食い入るように見た。
そこに書かれていたのは彼の思いを見事に裏切る様な文章であった。手紙は以前来た返書より一層厳しいものであり、彼の信念そのものを全く否定するようなものであった。そして、若い久坂にとって一番堪えたのは英米人を寸断して・・・
この言葉に対して松陰は、
「貴殿の志の程は良く解った。ならば、その旨直ちに実行にうつして御覧なさい。」
というものであった。こればかりは実際そう簡単にできる物ではない。松陰は論だけでは何も成せぬ事を良く知ってこう言って来ているのだ。
流石の久坂もこれには狼狽した。これをどう切り返したものか。命が惜しいのではないが、実行するだけの同志も情報も今の自分はそう持ち合わせていない。
どうしたらいいのか・・・・・・。そう思い悩む彼の元に誰か、人物が訪ねてきた。
「玄瑞はおるか?俺じゃ、中谷じゃが開けてくれぬか。」
ドンドンと戸を叩くその声の主は確かに久坂のよく知る人物のものである。
久坂は急いで玄関へ歩いていくと、玄関の戸に大きな影が見え扉を開けると嬉しそうな顔が覗いていた。
「おお、玄瑞久しぶりじゃ。変わりないか?」
親しみを込めて近寄る知人にふっと笑みを漏らしながら久坂は室内へ彼を通すと、これまでにあった人々の対話と松陰からの封書の事を一通り話した。中谷は頷きながら聞いていたが、徐に口を開いて、
「玄瑞はそれで?吉田松陰にそう言われて、これからどうしようと思うとるのだ?」
「それは・・・私にはどうしていいのか解りません。けれど、今でなくとも必ず彼に送った志は果たして見せます。」
俯きそう述べる年下のこの男に、中谷はふむと一言だけ発しそれからは黙してしまった。
どれだけそうしていたろうか・・・新たな訪問者が彼の家を訪れる音が玄関の戸を叩く音によって知らされる事になる。久坂は中谷を客間に待たせたまま、思い足取りで玄関へ向か
った。戸を開けると兄・玄機の知人土屋師が立っていた。
「土屋先生、ようお越しくださいました。して、今日は如何なる事で?」
久坂は二人目の突然の訪問に驚きながらも大事な客人を奥へと通す事にした。
「おお、中谷君も来ていたのか。」
「ありゃ、これは土屋先生。お久しぶりです。いや、私はコレが参っている頃だなと思い・・・」
「そりゃあ奇遇だ。私も同じ理由だよ。」
はははと笑いながら話す二人の前に久坂は訳解らぬまま座る事にする。
「あの、それで今日は・・・・・・?」
「おお、そうじゃった。玄瑞、松陰との論争如何に進みよるか?」
中谷が面白そうに訊ねてくる。
「こりゃ正亮、全て私が話すから控えておりなさい。」
土屋師から少し叱るように言われ中谷ははいはいという具合に黙り込んでしまった。
「さて、久坂君。最近寅次郎殿と随分やっておるようだな?その様子からすると返答に詰まったか?」
土屋は全てを察しているかのような口調で久坂をつついてくる。
「土屋先生。仰るとおり、実は何度か吉田殿とは書を交換しておるのですが。全く今回ばかりは返答がうまく見つからず・・・」
「夷荻を寸断してみせるという高言・・・実行してみせよ・・・かね?ははは、そりゃ確かに困ったのお。」
「先生、どうすればよいでしょうか。もはや私には成す術もありませぬ。可と言って今更・・・」
久坂はすっかりしょ気込んで先程から俯いて上目遣いにこちらを伺っているばかりである。
「ふうむ。久坂君は論で負けを認めたのかね?」
「負けたとは思いたくありません、しかし私自身が未熟であった事は隠しようの無い事実であります。」
「ふふふ、それだけ解っているなら十分。さて、そろそろ種明かしをするとしようか?」
土屋師は中谷の方へ振り向くと互いに頷きあって訝しがる久坂の目の前に、松陰の書を差し出した。
「これを良く読んでみなさい。吉田君が私に送ってきた封書だ。」
久坂はその中身を一読すると驚きの余り目を瞠った。
今までの松陰とのやりとりについての全ての理由が見事に書き記され、自身に対する評価も今まで送られてきたものとはかなりの違いがあった。
松陰は久坂に非凡なりとの評を既に持っており、この才を更に開花させる為には煽て称賛するよりも、寧ろ厳しい態度で臨み彼の怒りを文に論に戦わせるほうが良いであろうから、
これからのやりとりをただ両氏には見守っていて欲しい−との事であった。久坂はこの時程、自分が惨めと思ったことはなかった。
松陰を敵とみなし、ものの見事に彼の思惑通りに論じてきたのかと思うと顔から火が出るほど恥ずかしく、自身の浅見さをひたに恥じた。
(こんな自分では何時までたっても攘夷も志も遠のく一方、夢のまた夢となる所であった・・・)
書簡を食い入るように見ている久坂に、土屋・中谷の二人はふふと笑い合いこう誘いかけた。
「玄瑞、意地を張るのももう終わりにして気の向いた時にでも彼を訪ねては見んか?」
「松陰はお前の来るのを今か今かと待って居るぞ。」
こうして、久坂の思想にとって一つの転換期が訪れるのであった。