維新の礎(18)
チチチ・・・とスズメの声がする。
鈴なりの愛らしい声は誰が聞いても、優しい目覚めを与えられる。
「あたた・・・昨日はちと飲みすぎたかの」
久坂はゆっくり額に手を添えてのそのそと上体を起こした。
ふぅっとため息が出てくる。
いくら、声高々と議論し同志達と酒に論に興じた充実の時間であったにせよ、少々酒を
煽り過ぎてしまったか。
医者の出自である自分に恥ずべき事であり、彼は一人ごちた。
(ふぅ・・・本当に、次から自制せんとな。久しぶりに宮部先生達と盛り上がったからとて・・・)
久坂は、ふと熱弁を振るう自分に向けられた視線の記憶を手繰っていた。
確か、宮部に紹介された人物がいた。
河上彦斎と同門の友だと言っていた気がする。
いかにも、とっつき難い肥後もっこす気質を漂わせた・・・しかし随分謙虚な男だった。
謙虚というか、誰に対しても丁重でこちらが身を縮めてしまう程の印象。
「―本当に飲みすぎも大概にせいじゃ!!道理であの男の名前すら忘れちょる!!」
苛立ち交じりにバシンと盛大に手近な本を畳に叩きつける。
完璧な八つ当たりをする所が彼の若さであろうか。
無機質なそれは一向に響かず、余計苛立ちを募らせると思い、彼は手を止めると床から這い上がって
着物を手に取った。
襦袢の上から灰色の着物を纏い、しっかりと帯を結び、濃い同系色の袴の紐に手をかけた所で久坂は
動きを止めた。
(そういえば、あの肥後者も同じ色合いだったな。真似じゃ思われては・・・)
と考えたが、きっと相手は年長。
そんな仕様もない子ども染みた考えは到底なかろう。
そんな雰囲気であった。
「何とも情けないな・・・親の手取られて嫉妬する子どもみたいじゃ・・・」
昨日は、自分を認めてくれた吉田松陰の盟友・宮部鼎蔵との再会であり、松陰に会うかの様な懐かしさすら
覚えていたというのに・・・。
横にあった加屋榮太をわが子の様に紹介された瞬間、妙な意識をしていたのだ。
何ともお粗末な感情だった。
しかし、久坂玄瑞も今や志士達の指導者という立場にある。
そんな幼い感情はすぐに吹き飛ばし、肥後の人々とのこれからの共闘手段をどう執って行くのか。
すぐに、志士としての思考に切り替え、策を浮かべるのであった。
朝餉を摂って、久坂は自室に戻るや机に重ねられた封書を手に取った。
乱雑に重ねられたそれらは、他藩からの意見が綴られた機密とも言えるものから、芸妓からの付文なぞ
様々であった。
その中に、妻への手紙を見つけ、ふと目をとめる。
―尚々、杉皆々様へよろしく御申しなさるべく候・・・
まずまず、御無事に御暮しなされ候よし・・・
悦び参らせ候。拙者も此処より、御慎みにて引篭もり居り候へ共、気分には少しも相かはり候事無之に付き、
御案もじなさるべく候・・・(中略)
筆末ながら、杉皆様へよろしく御伝えなさるべく候。御用心申すも愚かに存知候。
めでたくかしく―・・・
見覚えがある。
自分はいつも妻に宛ててだけは、こうした平常の言葉を綴る事ができた。
久坂には多くの人と接する機会もあって、当然文のやりとりも日常的な事となっていたが、それでも
久坂文・・・妻にだけは普通に落ち着いた筆を取れたのだ。
(結局あの人には敵わぬものだな・・・)
京女・・・取分け遊女・芸妓達は萩の妻と対極にあって、華の都で洗練された美しさと艶やかさを際立たせ
志士達を絶えず魅了するのである。
久坂も若さ故、例に漏れず僅かながら女達の容貌仕草には魅入る事もしばしば・・・。
芸妓の中にも馴染みになりつつある、女性があり―
時折、こうした妻の筆跡に触れ、己の返書を見るとチクリと胸に痛みを覚える事も已む無きことであった。
志を女色に埋もれさせるその理性をお文の存在が留めている様で、久坂は思わず苦笑いする。
(本当に・・・流石というべきか。杉家の血筋とは何とも・・・知らずの内にあの人を頼っている・・・)
久坂は幾年前の別れ際、涙松に一人控え目に立ち尽くす彼女の・・・お文の姿を脳裏に浮かべた。
まだ幼かった妻の記憶。
彼女は今どんな女子に育っているだろうか。
ふと縁側に歩み出て、久坂は空を見上げ遠く妻の姿を思い描いた。
きっとお文は大人の女になって、清らかなままに己を待ってくれているだろう。
そこまで、思いを馳せて、久坂は我にかえった。
先ほどから他人の事、女の事ばかり。
全く持ってこれからすべき重要な懸案とは無縁の世界。
今日の自分はどうかしていると一人ごちて、久坂は改めて書類の山に目を通すのであった。
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こちらへの更新より1話早く仕上がっております。
読みやすいフレームタイプも御座いますので
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