上洛論戦(10)
山口へ出て、そのまま南下すると防府へ着く。
防府で一日目の休息を入れていると、何ヶ月か前に大楽達と騒いだ頃の風景が脳裏を過る。
彼も今は萩へ戻っているが、何れは自分達と同じ様に京や江戸へ上がって活動を始めるのだろう。
松陰とほとんど同時期の活動者である彼の事だ、いつまでも郷里でのんびり過ごすという事はあるまい。
久坂は遠くに離れた友を思い出しながら、宿の女将に出された熱い茶を啜る。
防長から芸州(現在の広島市)へと入り込めば、長く毛利公が望んできた広い町並みが見えてくる。
久坂も以前江戸へ発った折、芸州藩内は通ったが、城下町の方へは行かなかった。
だから、一度だけどんなものか見てみたいとは思っていたから、ここは一つ皆に目を瞑ってもらって暢気にかつて
歴代の主君が築き上げた小さな都を散策する。
「流石に芸州は広いな。毛利公の祖国とも言えるんだよなぁ。」
城下を流れる大きな河は、幾つもに枝分かれしそのどれもが日の光を浴びて眩い宝石の様に透き通り輝いている。
街道には店が立ち並び活気溢れ、道々すれ違う人々の表情にもそれは現われている。
やがて、立派なお堀が眼前に現われる。
「八丁堀周辺は流石に整然としてるな。しかし・・・肝心の城は・・・・」
ふと堀に向けた視線を僅かに上へずらす。
その視線の先にあるものに久坂は目を丸くする。
彼の視界に映ったのは、芸州公浅野氏の居城・・・かつて毛利輝元が築城し西国一の大名とまでのし上がったその拠点。
現在の広島城・・・主には鯉城と呼ばれ、また在間城、石黒城、御篠城などとも呼ばれる。
「はぁ〜・・・、これは・・・・凄い・・・。」
久坂は初めて目にする城の大きさに感歎の溜息を洩らす。
彼が見慣れている萩指月城も小ぢんまりとして趣ある造りだが、目の前に聳え立つ鯉城の堂々たる姿に憧れの武士という
存在を描かざるを得ない。(広島城・・・鯉城は被爆前まで日本三代名城に上がっていた)
かつての同志ともいえる武士達の威風堂々たる姿が、情景が浮かび久坂は暫しその場に立ち尽くすのであった。
”いつの日か芸州へ・・・・・・・・”
そう宣誓する主君とそれに身命賭して従う主従の契り。
無念の思いを持ってこの地を去った古き主にこの鯉城はどの様に映っていたのだろうか。
何時かはその宣誓に自身も家臣の末席でも良いから加わりたいとさえ願っていた自分。
これからの活動は主従云々一切を追いやってでも成さねばならぬ大きなもの。
新時代を見たい自分と、古い武士の道にしがみつく自分との矛盾の間で幾度となく戦い、新しい世界を望んだばかりというのに・・・・。
久坂は自問自答をし、再び溜息吐いて自嘲の笑みを洩らすと、これ以上は居てはならないなと思い立ち、足早に鯉城を後にする。
芸州を抜け、所々で休息を入れ用意した草鞋も何足目の交換を終えると、ようやく逢阪入りを果たす。
「ふぅ・・・あとちょっとじゃな。相変わらず上方方面は栄えとるのぉ。」
町並みを見渡すと、萩や山口、芸州、赤穂などとは違い、大問屋が目立ち流石に天下の台所と言われ流通も栄える逢坂は比べ物に
ならぬ程の人・人・人・・・
目まぐるしく動くその姿は逢坂の民ならではと思える。
少し外れた先にある遊郭界隈も実に煌びやかで、豊艶とし美妓が我こそはと美しい姿態を晒している。
「ああ、本当にここは都に近いだけあって美人が多いなぁ。」
などと、一人ぽそりと呟くと一人の芸妓とぱったり視線が合ってしまった。
芸妓は白粉を薄っすら塗り上げ、紅をスッと控えめに引いて多少の気品が感じられる。
然しながら、流石に手馴れて居るのか実に優雅な仕草でこちらへと誘うように視線を寄越してくる。
久坂とて人間、一時風に流れてくる香の匂いに惹かれそうになる。
しかし、その次の瞬間・・・涙松に佇む寂しそうな若妻の姿と師・松陰の面影が脳裏を掠め、瞬時に我に返ると、慌てて
近づこうとする妓を手で制す。
芸妓は可愛らしく小首を傾げて見やると、長い袖を少し口元に添え、くすりと鈴の様に笑うのだった。
久坂は照れくさくなり、足早に其処を去った。
芸妓を侍らした席は幾度か以前の旅で体験したが、こうやって単身でというのは一度たりとも無い事。
慌てて駆け出した彼は、呼吸を整えると再び自嘲した。
(遊びに来ている訳じゃない。気を引き締めてかからんと・・・!)
そう自身に心の内で一喝入れると、黙々宿へと急ぐのであった。