上洛論戦(9)
大楽邸での一時の休息を終えると、久坂は杉家へもどり寫本へと取り掛かる。
「さあ、早速始めるか!」
気合を入れて作業に取り掛かる久坂。
今頃、一燈銭の署名に参加してくれた面々も一生懸命になって執筆作業にかかってくれている筈だ。
一枚・・・・また一枚と筆を走らせていくうち、隣に積み上げられた半紙の枚数は小高い丘さながらに
厚みを帯びてくる。
出来上がった寫本を道々に売り歩き銭を作っていく。
一銭が積み重なれば、いつか長い時を経て黄金の貨幣へと進化してくれるだろう。
久坂はこの地味で気長な作業を今から始める活動に置き換えて考えた。
今は一人でこの一銭の様に孤独を感じつつ歩いているが、何れは一銭同志が寄り添い集まって黄金の
小判に勝る大きな力を生み出すだろう。
自分達の一燈銭の活動は正に今後日本に大きな変化をもたらすものとなる。
その日から久坂は書斎に座り込んでひたすらに寫本に打ち込んだ。
時折、妻からの差し入れが入り、それらを口にしながらも一時の休息の間も寝る間さえも惜しんで作業に
没頭していくのであった。
僅かではあるが、資金集めも進んできた頃久坂に一つ朗報が入る。
京の都へ経てという知らせだ。
前々から活動を早期に行いたいと考えていた彼は、藩庁に幾度か国暇の許可を申請し返答を待つばかりであった。
その待ちに待った返答が先日になってようやく届いたのである。
「檀那様!藩の方よりお知らせが参っております。」
パタパタと衣擦れの音が廊下に響く。
小さな足で小走りに近づいてきたのは妻・お文だった。
「何?藩からじゃと!?」
久坂が勢い良く振り返ると、お文は僅かに頷いて自身の手の中に納めてあったそれを夫の手へ渡す。
受け取った久坂は大急ぎで書簡を紐解くと、興奮に震える手で束ねられた紙をゆっくり広げた。
予想していた通りの言葉が書き綴られた文字が其処に広がる。
「・・・・・・檀那様・・・。藩の方から何と?」
お文は松陰の愛妹であり、他杉家に生まれた三姉妹の末娘として兄や姉達に並んで多少の学ならば理解しうる
賢母とも言える女性であり妻であった。
だからこそ、夫・玄瑞が亡兄の後を継いで他国へと出たい・・・・という、彼の熱い願いも密かに気付いて寂しい
など一言も発せず黙々とその志を後押しするのであった。
「ああ。都への旅が出来るようになったよ。」
「まあ!おめでとう御座います。それで、ご出立は・・・?」
「うん、出来れば明日にでもと思っとるが。・・・・なぁ、お文。また暫く留守にするが・・・・」
「存じております。檀那様、こちらの心配は要りません。どうぞご立派な御活躍を。」
背筋を伸ばし凛とした声で言う彼女は流石に杉家の、武家の女性であった。
久坂はその健気かつ気丈な妻の姿に一言”すまない”と呟いて後は言葉をつむぐ事が出来なかったのである。
翌朝、予告通り久坂は京へと旅立つ事になる。
以前の旅路とは少し自分でも違う空気を感じて、久坂はふと涙松に立ち尽くす。
(先生もここから最期の景色を眺めていたのだな・・・)
(僕はまだ戻る事もあろうが、以前のような唯の遊学とは違う。もしかしたら最期の景色になり得るかもしれん。)
亡兄でもあり大事な師でもある吉田松陰の最期の面影が脳裏を過り、ふと感傷に浸ってしまう。きっと、彼が大事に
可愛がっていたお文を視界に入れたからだろう。
久坂は、婚儀より殆ど夫婦としての時間を持っていない。
それでも文句不満一つ言わず寒くなるだろうからとせっせと厚手の着物を縫い上げてくれたお文に目でもう一度侘びを入れる。
やがて、別れの時間となると、久坂は後はもう振り返る事無く涙松を山陽沿岸へ向けて下っていくのであった。