上洛論戦(8)
硯に水を少し垂らし、黒い墨石を指で固定し、その先を水に浸ける。
ズリズリと手を前後させると水は徐々に黒く浸食され、透明さを失う。
久坂は無表情に墨を磨る大楽の横顔をただじっと見つめた。
「さて、書こうか。」
ピンと背筋を伸ばし、姿勢正した彼は筆を軽く握って空いた手を多くの名が連なる書にそっと添える。
そして、ゆっくりとした動作で和紙の上に先を墨で濡らした筆を走らすと、忽ち綺麗な線を
描き文字が浮かび上がる。
大楽は先にも述べた通り、文才秀でており詩歌なども多く出している。
そんな彼の字は実に達筆で、久坂の様に力一杯思いをぶつけた様な荒い文字はほとんど見当たらない。
川の流れの様にゆるやかに描かれた書体で、生涯を懸けた攘夷活動を行う彼の熱意と激しい思想を
それから感じ取る事は難い事であろう。
最後の一文字を描く彼の目は筆先の毛一本にまで集中し、一寸たりとも乱れなくスルスルと先へ先へ向かう。
やがて、全てが終わったのかコトリと静かに筆を硯の横に掛けると、半紙から手を離し久坂へと向き直った。
「これで良かろう?さ、誓約しようじゃないか。私も君達に協力させて頂くよ。」
先程は納得行かない様な面白くないような表情で参加を渋っていた彼だが、一度覚悟を決めると
案外開き直りは早いらしい。
引きつっていた口元をかすかに緩めてようやく穏やかな表情に戻るのである。
「源太さん、有難う御座います。・・・しかし、よくよく考えると源太さんの様な達者な方が来るって事は
僕もうかうかしていられませんね?」
「・・・?」
「ほら、達筆な源太さんの寫本の方が売れそうだし・・・・・・。」
ニッと表情を崩して久坂が少しおどけた口調で言う。
それに最初こそ疑問符を浮かべていた大楽だったが、言わんとする所に気付くと終いにはククっと小さな声を
たてて笑うのであった。
「あはは、源太さん。笑い事じゃないんですよ。本当にこっちは死活問題なんですから。」
「クク・・・久坂君。それはこちらも同じ事じゃないか?久坂君が居ったら私こそ売れのこってしまうかもしれん・・・。」
それぞれ好き勝手な解釈で言葉を発する。
やがて、二人は顔を見合わせるともう一度盛大な笑いを洩らすのであった。
本当に久しぶりだったと思う。
あの大獄からこっちそう可笑しくて笑うなど殆ど無く、喜びを表現する事はあってもこうやって幼い表情で笑いあう事など
無縁と成りつつあった。
久坂は可笑しさを噛殺しながら、久しぶりに見た大楽の笑い顔を覗き見た。
彼もかなりツボに嵌ったらしく、其処から抜け出すことも出来ず未だ笑い続けている。
後どの位こうして穏やかに笑っていられるだろうか。
これから立ち向かう世界は少なくともこんな優しい空間ではない。
常に死と隣り合わせ・・・・。
もしかしたら一人きりで戦いを強いられるかもしれぬ、全く未知の世界である。
考えるうち、久坂の表情は切なげなものへと変わる。
ふと視線を久坂に運んだ大楽は瞬時にそれに気がつき今今まで笑っていたその表情を静止させる。
「久坂君・・・?どうした。随分大人しくなったじゃないか。」
「え?ああ、なんだか久しぶりに笑ったなぁと思って、少々考え事を。」
「・・・そう・・・か。物思い耽るのも良いが、これからの事を考えたら今のうちだぞ?こんなに無防備に安全な場所で
笑っていられるのも。」
大楽は、京で幾度か既に活動をしている。
この長州藩を出れば、全く油断ならぬ様々な思想と謀略が入り混じった世界となる。
身の安全を考えながらの生活を強いられる場所で、この様な心の笑みは浮かぶ余裕すら無いだろう。
ならば今の内に護られた有難味を味わっておけ。
大楽の言葉に僅かな気遣いを見つけて久坂はもう一度クスリと笑みを溢した。