上洛論戦(2)
一室に杉夫妻・そしてお文が静かに座して彼を待っていた。
「お待たせして申し訳ありません。実は高杉殿より急な一報が届きまして・・・」
久坂は努めて平静を保ちながら言葉を紡ぐ。
「高杉殿より・・・?よもや寅次郎の身に何かあったんじゃ・・・・・。」
「そうよ、寅さんについて何か情報は得られないのかしら・・・?」
杉の夫婦は我子の身を案じるがあまり顔色蒼くして身震いしている。
隣に控えめに佇む三女・お文はそんな父母を必死に慰め落ち着かせようと努めるばかり。
時折夫をちらりと顧みては寂しそうな視線を送るのであった。
「・・・彼が運んできた情報は、まさに義兄・寅次郎松陰の事。お二人とも御気を強く持ってお聞き下さい。」
久坂は深く重い溜息を吐いて震える声でぽつりぽつり言葉を発した。
「・・・−義兄が、伝馬町獄で遂に処されたとの事。ご遺体については役人の
改めが済むまで返して貰えぬ・・・と・・・・・・」
高杉より受け取った手紙をぐしゃぐしゃに成る程強く握り締め、語尾は涙交じりの声となり最後まで言葉を
つむぐ事が出来なかった。
手紙で涙の落ちる顔を隠すように久坂は唇を噛締め声を殺して泣いていた。
「そ・・・んな・・・・・馬鹿な・・・・。何故じゃ、これではまるで罪人扱いじゃないか。公正な調べもろくに
行わず言葉で戦うものを力で処するなぞ・・・!あって良いものか!!」
「寅兄様・・・・・・兄様が何をしたというの!嗚呼・・・!」
松陰を何時如何なる時も信じ支えてきた彼等にとってこの無情の審判は余りに辛いものとなった。
何とか辞世の句はちゃんとした言葉で伝えたい−・・・・・
久坂は涙で滲む目を袖で強く拭うと、一言一言噛締めながら呟く。
「−・・親思ふ こころにまさる 親ごころ けふの音づれ 何ときくらん・・・これは義兄・松陰からあなた方へ
・・・と、詠われたものです。先生は獄中で死を覚悟されこの詩を、留魂録なる書を必死で執筆なさったのでしょう。
・・・−身はたとへ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂・・・これが義兄・・・先生の最期の句です。
あの方の強い志を僕如き書生が継げるかは解りませんが・・・・・・」
言葉を止めて僅かに視線を上げると、今自分が言った二つの句を必死に覚えようと何度も口ずさむ悲しい家族の姿が映る。
嗚咽を洩らしながらも最愛の我子の言葉、兄の言葉を必死になって記憶に焼付けようとするその様が何とも言えぬ哀愁を
帯びて居た堪れないのである。
久坂は頬を伝う涙をそのままに、闇に隠されてしまった外の景色をぼんやりと見つめていた。
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翌朝、重い瞼を擦りこじ開けると、視界に見慣れた天井が移る。
(結局、僕は何もしちゃ居らんのじゃな・・・。先生の遺志を継いで行きたい。その為に惜しむ命ではない。)
(しかし、今何の力も無い僕に何が出来ようか・・・・・)
希望を失いかけた昨晩、すっかり泣きはらした日の朝は目が腫れぼったくて寝起きは最低なもの。
久坂は近頃付くことの多い溜息をまた一つ吐くと、上体をゆるりと起こし傍に置いてある真新しい着物の
袖に手を通すのであった。
本文中で、おや?と思う所があろうかと思います。
現代社会に行き、近代欧米的な思想を乗せた私たちには解りにくい封建体制家における「地域」と「国」の捉え方が所々見られる明治以前の体制。
その中でも「激動の風」にあった吉田松陰寅次郎先生の行動と当時の常識、法がいかなものであったか、代表的な所から1点ご紹介いたします。
▼脱藩とは厳しい罪
藩士はけいこ切手という外出許可証をもらってはじめて他藩などに出かけることが出来る。証書は1ヶ月毎に更新しなければならず、期限を過ぎたものに関しては”揚がり切手”といい無効となるのである。そんな無効となった揚がり切手を持ち他国へ外出するとこれが脱藩(国抜け)とみなされるのである。脱藩の罪は非常に重く、軽くても藩士の資格を取り上げられてしまい、浪人身分となるのである。通常藩士が脱藩すると、すぐさま追っ手が仕向けられ、強制的に国に戻され刑罰を与えられる。松陰の場合、友人・来原良蔵らが上役を説得してなんとか追ってを出す事をやめさせたのだが、藩邸に大きな波紋を投げかける事件となった。