激動の風(12)
江戸から萩までの気の遠くなるような長い道のり・・・・・・
遂に久坂玄瑞は故郷・長州萩藩へたどり着いていた。
長く留守にしていた様な気が、町並みや行き交う人々の様子に特別変化は見られず以前出て行った
頃と変わらぬ空気が緩やかに流れていく。
(ここは何も変わっちゃないな。本当に・・・この空気がこのままあそこまで続いていれば良いのじゃが・・・・・・)
ふぅっと一つ溜息吐いて久坂は萩城下から東へ離れた松本村を目指すのであった。
やがて、田畑あぜ道を過ぎると懐かしい家が見えてくる。
その手前にはまだ昔のまま小さくてすこし古ぼけた看板がかけられている講義堂が。久坂は一瞬目の前に
現われた懐かしい風景に心暖まるのを覚えたが、自分が何の為にこうして此処へ再び戻ってきたのかを直ぐ
思い出し、表情を厳しいものに変えて玄関へと歩いていった。
久坂は玄関を軽く叩くと、ガラガラと戸を開け中へと入る。草履を脱ごうと掃除の行き届いた床へ腰を下ろし、
荷を降ろした所で奥のほうからパタパタと軽い音が規則的に聞こえてくる。
「檀那様!」
若い女の声が背後から聞こえる。
僅かに体を後ろへ向け振り向く形を取ると、其処には変わらぬ若妻の姿が。
何時もの様に家事の最中だったのか袖を纏める為襷をかけている。
「申し訳ありません。ちゃんとお迎えもせず・・・。」
「いや、それより長く留守を任せて悪かったね。」
申し訳ないという気持ちをお互いが口にする。本当にこうして対面するのは久しぶりの事だ。松陰の件では
この人も随分胸を痛めたろうに自分に悟られまいと気丈に振舞って居るのか・・・。そう考えると微かに痛みが走る。
「文、先生は・・・・・・。」
少しの沈黙の後、久坂は文に切り出した。今聞きたい事、そして自分が帰藩する要因。詳細を把握していても、
敢てその直ぐ傍にあった筈の人声で次第を告げて欲しい。そんな夫の意を賢い妻は直ぐ察するのであった。
「檀那様、兎も角お上がり下さいませ。お茶をお持ちしますからそれからお話致しましょう。」
それも最もだなと思い、久坂はお文の言う通りに居間へと導かれるままについて行った。
案内すると文はお茶を煎れると言い残し、台番所へと足早に姿を消した。
一人居間に取り残される形と成った久坂は、この懐かしい空気の中に敬愛する松陰が居ない事が無性に辛く、
また寂しく思えて仕様が無かった。
「お待たせいたしました。」
か細い声と共に、再び文が現われる。
思わず声のする方へ顔を向け、改めて久しぶりに見る妻の姿を見つめる。
自分が出て行った時は、この女性はあどけなさを残し女というよりも少女といった方が適切な位であった。
しかし、今目の前にいるのは少女の名残はあっても凛とした気位高い武家の妻そのものである。おそらく、自分の
留守中にあった兄・松陰の事件など様々な労苦によってかつての幼い少女の心は耐え忍ぶ事を覚え、表情仕草諸共に
大人のそれへと半ば強制的にすりかえられてしまったのであろう。
「すまない・・・・・・苦労かけた様だね。」
久坂は気がつけばそう呟いていた。
松陰のことでは自分も相当痛みを負ったと思うが、身近に居て辛い現実を直視してきた家族達の痛みはきっと
それ以上であろう。だからこそ、それが真っ先に口から出てしまったのである。お文は、ポツリと呟く夫の
悲しげな姿をただじっと見つめその場に佇むのであった。
暫く二人は口を閉ざし、静かに痛みを共有しあう。
やがて、長い静けさを打ち破ったのはお文の一言だった・・・・・・。
「檀那様、私・・・兄が投獄されて以来本当に久しいのですが夢をみますの。」
普段の軽快な彼女からはおよそ考え難い暗くシンとした声。
「夢?もしや先生のかね?」
「ええ、いつもの様に優しく笑ってくださって。昔に還ったかの様な懐かしくて暖かい夢なのですが。どうしてか
悲しいと思ってしまうんです。母上にもお話したら、あちらも同じ様に兄を夢に見ると。」
「・・・・・・義母上も?お前がそう言う話を僕にするのは珍しいな。先生が何か訴えちょるのかな。」
「そう・・・かもしれませんね。兄様、どうなさってお出でかしら。心配ですわ・・・本当に。」
「明日、僕が会いに行ってみよう。会えればなんじゃが・・・。」
彼の姿をみれば全て解る筈だ。
久坂は妻を励ますように努めて明るい口調で言い聞かせ、一つの決心をするのであった。