激動の風(11)
吉田松陰投獄から少し時を遡る−・・・
江戸の久坂玄瑞は、吉田松陰の計画露見から少し経ったある日、突然の帰国藩命に見舞われていた。
「・・・これは藩よりの厳命じゃ。久坂玄瑞殿、直ちに支度を整え一両日中に帰国の途に就きめされい。」
「・・・・・・・・・・・・御命とあらば従いましょう。」
納得出来ぬ事であっても命は命。従わねば大罪。主命は当時武士達にとって何に替えても守らねばならぬ
絶対の約束であり、武士としての一種の誇りの様なものでもあるのだった。
渋々承知を唱えつつ、黙々と久坂は身支度を整え始める。
書類を整理し始めた所で、ふと郷里の妻から送られてきた手紙が目に留まった。
久坂は徐にそれを開くと、既に読み終えた手紙の字を追い始めるのである。
(兄・寅次郎が野山獄へ送られる事となり、私には何も出来ずただ彼の辛苦を見守るばかり。檀那様に
ご心配おかけするは心苦しゅう御座いますが、ただ一報認めんと・・・・・・)
震える文字で綴られた一つの手紙。
妻・お文は吉田松陰寅次郎の可愛い妹であり彼女自身にとっても同じく敬愛する兄である。そんな兄・寅次郎が
自分の目の前からまさに獄へと導かれるその姿はどれ程悲しいものであったか。
普段から泣き言一つ我侭一つもらさぬ気丈な若妻を想うと早く帰らねばとも思える。
そして、自分にとっても尊敬する義兄・松陰の無事も確かめたい。
二つの思いが相互に脳裏に浮かぶと、自然彼の手足は何時も以上に早く動くのである。
手紙を手早く畳みその一つだけを懐の手帳に収めると、纏めた小さな行李を提げ旅装を整える。ほとんど旅には
必要最小限なものしか持ってきていなかったので、来た身軽なままで彼は足早に藩邸を発ち、一路西へと下るのであった。
来る時も通ってきた街道。それらが皆今は違う風景に見える。
ゆっくりと物見がてらに歩いた時にはこのゆったりした景色が愛しくさえ思えたものだが
今となっては・・・・・・一刻も帰郷せねばという焦燥感からか、多少の小憎らしささえ浮かんでしまう有様。
華やいだ京の都を過ぎる際に、幾人もの美しい芸妓達の自身に向ける熱い視線も感じられたがこの時ばかりは
何一つ感じる所はなく寧ろ絡みつく糸の様で視線から逃げる様に立ち去るのであった。
二月、三月と数ヶ月の経過と共に、次第に懐かしい緑が眼前に広がるようになった来た。
蒼かった空も緑の木々や山々も、季節の冷たい風で色がくすんでいる様に思える。
以前自分が出て行った時とは変わってしまったのだろうか。
幾らか感傷に思い馳せながら、懐かしい萩の山道をゆっくり北上し義兄や妻の待つ
村へと急ぐのであった。