激動の風(3)
「松陰先生・・・。僕です。」
消え入りそうな声が静かな牢に小さく響く。
その聞き覚えある声に松陰は苦悩し下げていた頭をなんとか起こすとかすかな笑みを
声の主へと向けた。
「ああ、野村君・・・入江君も一緒かね。こんな所へわざわざすまないね。」
先ほどまで取り乱していた人物とは思えぬほど穏やかな松陰の表情。
その様子に、野村・入江兄弟は安堵の溜息を吐き、格子の前へと更に歩み寄った。
「君たちが来た理由はおよそ検討付くよ。私を説得しに来たんでしょう?」
二人が口を開くより早く松陰が問うてくる。
優しい何時もの口調だが、その彼の表情には微かな哀愁が漂っていた。
「・・・・・・先生。僕達は確かにそのつもりできました。けれど、先生が全て間違っている
とは思っておりません。」
野村が悲しげな顔でそう言うと、後ろに控えていた入江が更に言葉を紡ぐ。
「僕等兄弟も正直此度の先生の計画は時期尚早と思います。だから最初はなんとか説得しようと伺った
のです・・・。しかしながら、先生のその様な悲痛の表情を見せられては我々も何かお役に立たねば帰れません。
例え藩命に背く様な禁忌であろうとも・・・・・・」
苦しそうな表情、まるで哀願するかの様な言葉に流石の松陰も胸を詰まらせた。
二人は彼の無謀とも言える計画を阻止せねばならないというある種の使命感と師の頼みを聞き入れ出来る
限りの協力をしたいという気持ちに挟まれ苦悩していた。しかし、こうして面会していく内に松陰の揺ぎ
無い決意を肌で感じ、同時にその強固な意志に惹かれ次第にその無謀な計画へと苦しみながらも傾倒して
いったのである。
「・・・・・・・・・・二人ともすまないね。無謀な策とは知っていてもやらねば成らぬのだよ。誰かが
攘夷の火蓋を切らねば何も変わらない、起こらない。私は後に行動を起こしてくれる若者たちの為に、
日ノ本の為に犠牲と成ってでも変わるきっかけを作らねばならないんです。」
「・・・・・・先生、僕に何か出来ることがあれば・・・。」
松陰の決意に耳を傾けていた入江がツッと前に出る。
そんな弟子の姿を見て苦い笑みを洩らしながら松陰は一通の密書を取り授けた。
「・・・・・・・・・−これを、京の公卿様に。大原重徳様にお渡ししてください。」
「公卿様に・・・ですか?」
入江・野村は突然貴族の名を出され、目を瞬く。
「そうです。あの方は三条卿と共に反幕派公卿として名高い方です。きっとお力になってくださる筈です。」
松陰は最後の望みと言わんばかりに天を仰ぎそう述べる。
入江は、その言葉を信じ大きく頷くと立ち上がった。
「先生、それでは身支度を整え急ぎ上京致します。」
若い入江の目には強い焔が灯っていた。
松陰はそれをみて眩しそうで満足気な笑みを返すと、
「頼みますよ。・・・・・・くれぐれも気をつけて。」
と、最後は慈しむ口調で一礼し出て行く彼ら兄弟を見送った。
入江・野村兄弟は、僅かな家財を払い旅費を作りいよいよ支度に取り掛かった。
ただ、不安げな母の為兄である入江は萩へ残る事となり、野村家を継いだ弟が一人旅立つ事となった。
この騒動より少し前、梅田雲浜・頼三樹三郎他、多くの志士達が幕吏によって捕縛されるという事件が
相次いで起こっていた。
吉田寅次郎松陰・・・・・・彼にも徐々にその魔の手が忍び寄ろうとしていた・・・・