巣立つ時(11)
あれ以来自室に篭って一切を遮断してしまった松陰・・・・・・
久坂は一人小さい小部屋に篭りっきりの師に一抹の不安を感じながら、日々書物を読み耽っていた。
「よう、玄瑞。先生の様子がおかしいと聞いたがどんなじゃ?」
陽気に声を掛けて来たのは高杉晋作である。
「・・・相変わらずじゃ。元日以来ずっと一人悶々と考え込んでおるようじゃ。」
「ふぅむ、先生のことじゃ何か思うところでもあるんだろう。・・・・・・問題毎なぞ起こらんにゃいいが。」
軽い口調だが、流石の高杉も心配でならぬのだろう。声に反してその表情に茶化したような笑みはない。
松陰が引き篭ってしまうのは今に始まったことではないが、元日のあの思いつめて冷たい講義堂に佇む姿、
詩歌を戦わせた時と何か思い立った時の危機的な表情。
それら全てが今までの彼とは明らかに異なっており、その焦燥を感じ取れるものであった。
だからこそ、不安なのだ。
吉田松陰という人は・・・・・・。
理論を戦わせるより実践する事を好しとする人物であるから、今回も何かしようとしているのではなかろうか。
それが、命に関わる事であっても彼の性格からすると恐れず屈せず戦い抜こうとするだろう。
たとえ相手が200余年の泰平を見てきた大物であったとしても・・・・・・。
久坂は、高杉は、そこまで考え付いて大きな溜息を吐く。
「なぁ、晋作。僕は今の時勢を先生方程知らん。一度出来うるならば江戸へ出て見たいが・・・。
一応国暇の申請は受けてあるし。」
「お!江戸か、いいねぇ。夷荻もわんさか居るが。まあ中央へ出るのはある意味危険もあるが・・・
有用な情報も手に入る。いいじゃないか。」
「先生にも一度話してみよう。」
そういって久坂は何か決意したかの様に目を伏せた。
高杉が帰った後、久坂は松陰の篭っている幽閉室を訪ねた。
「先生。少しだけお話したい事が御座います。」
「・・・・・・久坂君か。何かね?」
松陰は声の主を確認すると、スッと襖を少しだけ開いた。
「実は、江戸へ一度上がりたいと思いまして。国暇の許可は貰っております。名目は医学向上ということ
ですが、これを機に国内情勢を探って来ようと思っております。」
「ふむ・・・・・・それは良いかもしれませんね。しっかりと学んで来るといい。今この国がどうなっているのか。
机上では悟れぬ知識をしっかり吸収して来るのも君の為になろう。」
「有難う御座います。それでは早速整えてまいります。」
そういって久坂は一礼し、幽閉室を後にした。
翌朝、旅装調え兄の形見である大小を下げ、萩の城下見下ろせる長い山道の先、涙松と呼ばれる地に久坂は居た。
彼は離郷という愁いを帯びた表情は無く、これから臨む未知の世界への期待を帯びた精悍な若者らしい表情を浮かべている。
ただ、見送る大勢の衆の端に立つ若い妻の姿・・・それだけが彼にとって存在重く、脳裏に焼きつけられるのだが。
今の彼には今後の自身の生涯を左右するかもしれない大事な旅となる事は間違いなく、そんな微かな愁いに
留まる事は許されなかったのである。
久坂は、短く暫しの別れを口にしそれきり振り返らずに山道を進んでいくのであった。
− 安政5年1月の事であった −・・・・