巣立つ時(10)
慌しく婚儀を終え、その熱も冷めぬ内にまた忙しい時期が訪れる。
新年の幕開けである・・・・・・・・。
新たな年が始まるという事は、日ノ本に住まう全ての人々老若男女身分問わず
新しい年への抱負と期待を抱く幸福の時間である。
それは、新しい家族を迎えた久坂にとっても例外ではない。
今年こそはと思う強い気持ちを抱きながら、杉の家族、そして新妻となった文との朝を迎えるのだった。
彼にとって久しく団欒で迎える元旦、屠蘇の席。
今まで閉ざされてきた暖かい日差しに囲まれながら、ほろ酔い気分で自室の書斎へ足を向ける。
久坂は少し赤らめた頬のまま書斎で筆を取ると、自身の今の心を上手く詩に託そうと筆を
ゆっくりすすめる。
(・・・・・・?)
どういう事か、新年故多少気持ちが高ぶっているのか上手い詞)が浮かんでこない。
詞どころか頭がぼんやりして考えるという行為にすら及ばぬのである。
(・・・・・・・・・・・ああ、成る程)
久坂は何か思い当たる所があったらしい。
気持ちが高ぶっているのは新年故ではない。妻となったお文との夫婦の交わりに慣れていないからだ。
15歳で嫁した彼女は少しでも距離が縮まると、さっと頬を朱色に染め、華の様にしおらしく
恥らうのである。
そんなあどけない新妻の姿態は、何とも初々しいもので久坂は先を思い当たって一人赤くなって
しまった。
邪念を払おうと、冷たい風が吹くなか彼は一人庭の先にある講堂へと歩いた。
途中の廊下で片付けを終えた妻を見つけた。
「あら、檀那様。どちらかへお出かけですの?」
お文は寒い風吹く庭へ出る夫の姿を認めると、身を縮める様な格好をしながら問うた。
「ああ、少し酔いも醒まそうと思うてな。外へは行かんよ。ちと講堂へ行くだけじゃ。」
訝る妻に軽く笑みながら答えてやる。
「講堂へ?あそこはお寒いでしょうに。綿入れないとお持ちくださいな。」
そういって、お文は足早に部屋へ入って行ったかと思うと、直ぐに何か手に持って戻ってきた。
その手には分厚い綿入れがある。
「さ、お風邪を召したら大変です。これを着て・・・・・・。」
「すまない。直ぐ戻るから君こそ早く戻りなさい。」
そう言って久坂は受け取った着物を羽織りながらゆっくりと講堂へ向かっていった。
講堂へ入ると一つ小さな影が見える。
ひんやりと冷気漂う不思議な空間と化したこの講義堂に誰がいるのだろう?
久坂はゆっくりとその者の気配を窺いながら近づいた。
「おや、久坂君。どうしたんだね?」
影の主は松陰であった。新婚初夜を迎えた若夫婦がゆったり年明けを暮らせるよう気遣って
ここに居たようだ。
「先生こそ、ここで何を?」
「・・・・・・久坂君、アメリカ国が掲げてきた条約締結問題は知っているね。」
「はい。大楽先生や月性殿の話では、かなり不平等な内容であると。」
「その通りだ。しかし、これを簡単に撥ね付ける訳にもいかぬだろうね。」
「・・・・・・。」
「なあ、僕はこれからの時代、日ノ本を支えるのは武士だけでは足らぬと思って居るんだ。
ここに住まう全ての民族が藩や身分制の小さな枠を超えて団結し今こそ故国が為立ち上がるべきと思うんだ。」
松陰の言葉に、長く武士身分への憧れを抱いて、戦うのは刀と武士だという気持ちを少なからず据えていた
若い彼は酷く衝撃を受けた。
「藩や武士階級だけではない・・・?」
「今の幕藩勢力ではもはや限界が来ているんだ。これらに成り代わる有能な人材組織の樹立が今日ノ本に
とって急務となろう。」
松陰は今、古くから続いた封建の社会を否定するような言葉を吐いたのである。久坂はただ、呆然と言葉を
聞き必死で整理しようとしている。
その混乱する思考をなんとか纏め上げて、彼はやっと一つ質問を口にした。
「・・・・・・では、幕府が駄目なら朝廷ですか?」
「久坂君。残念ながら長らく栄華の中にあった公卿様では何も変わらぬのだ。これから世界の強国相手に
立ち向かって行くには、草莽達が立ち上がる他ないのだ。」
「草莽・・・?民衆の事ですか・・・。しかし、どうやって・・・。」
「国を思い志に命を賭せる有志・・・君や高杉君、日ノ本にあって時勢を憂う心ある若人達・・・。
彼等と共に手を結び、藩や身分の枠を超えて共に立ち上がるんだ。」
松陰は何か思いついたのか、久坂の返答を待たずにさっさと足早に講義堂から去っていった。
残された久坂は、松陰の書いていた詩作を眺めていた。
そこには志に燃える松陰の熱い思いが込められていたが、何故か久坂にはモヤモヤとすっきりしない不吉な
予兆と思えて成らなかった・・・。