巣立つ時(8)
(色よい返事を・・・・)
松陰の言葉が浮かんでくる。
それと同時に、快活なお文の声も鮮明に聞こえてくるようだ。
正直この時の久坂には結婚という概念は無い。
自身のやりたい事・・・思想、同志、国事・・・それだけが今自分の中の大半を占めている。
だからこそ、こうして悩んでいるのだ。
お文の事は先にも述べたとおり、美しいとは言えない容貌だがやはり杉の娘というだけあってか
文字の読み書きもしっかり習得し、家事もテキパキこなす良い娘で、嫌いになる理由もない。
杉家での暖かいひと時の団欒も、忘れる事の出来ぬ懐かしい記憶となっている。
「先生とて独り身であるのに・・・僕だけがこの様に現を抜かしていて良いものだろうか・・・。」
久坂はふうっと短い溜息を吐いて、目を閉じてそのまま眠りについた。
翌朝、目を覚ました久坂は玄関の戸を威勢良く叩く音に気付き戸口へと急いでいった。
戸に映る影はどこかで見た人のもの・・・。
うぅむ、と考えていると外から大きな声が聞こえてくる。
「おおい!玄瑞、早く開けんか。」
声は少し乱暴な印象だが、良く見知った人物のものである。
久坂は声の主が誰であるか悟り、大急ぎで立掛けてある板を外し戸を開けた。
「中谷さんじゃないですか。お久しぶりです。」
「なんじゃ、てっきり僕は忘れられたのかと思うたぞ?塾へ行っても行き違いで
全く。僕を避けとるんじゃないじゃろうな?」
恨めしげに中谷は視線を目の前の青年に向けた。
「え?そんな事は・・・。偶々時間が合わんだけですよ。」
「どうだかの・・・。それより、玄瑞。君、先生から何か良縁を貰うたそうじゃないか。先生も杉の
人たちも返事を待っとるようじゃが・・・。」
返事・・・・・・・。そう言われて久坂は黙り込んでしまった。
昨日一晩考えて、結局答えは見つかっていない。かといって、返事を長く待たせる事は松陰や杉家にも
下手に期待を持たせ悪い気がする。
「中谷さん、正直僕は嫁を娶る気はありません。」
「・・・・・・。お文さんでは気が進まんか?それともどこぞに好いた女でもおるのか?」
中谷の率直な質問に少し俯き軽く頭を左右に振ると暫くして再び彼に向き直った。
「そういう人はいないが・・・どうにも気乗りがせんのです。」
「・・・・・・。」
「この様な激動の時期に、のんびりお家だけを考えて妻を娶る気にはなれません。それに・・・
これは昔から考えておったのですが、いやどうも・・・。」
「どうも・・・なんじゃ?」
モゴモゴと言葉を濁す久坂に、中谷は首を傾げる。
「お文さんは良い娘さんじゃが、何分不別嬪でしょう。何れ妻を迎えるのであれば美しい人をと
以前から考えて・・・・・」
「なんじゃ!久坂玄瑞とはその程度の男か。時勢を案じ大義を果たそうとする丈夫が女の容色如きに拘るか。」
言葉途中に突然割り込んできた怒声。中谷は普段明るく振舞いどちらかというと仲裁に入る様な温和な人物である。
その彼がこれ程の大きな怒声を発せようとは、久坂は目を丸くして目の前の青年を伺った。
「僕は正直に申したまでです。何故それ程声を荒げねばなりませぬか!」
久坂も負けじと食って掛かる。
「お文さんはあの松陰先生の妹御じゃ。多くの門人の中からお前だけが選ばれたという事は、先生がどれほど
君の才を買っているか・・・解るじゃろう。それに、家族を失った君に大事な妹を与えようというお気持ちが解らんのか。」
一気に場はしんと静まり返ってしまった。
久坂はもはや何を言う事もできず俯いて口を閉ざしている。
「のお、玄瑞。京女の様な美女に惹かれるのは仕様無い。じゃが、君の様な大器のする事ではない。ま、多少の
遊びは構わんが・・・。あの先生の聡明な妹御を正妻と迎えるという事はそれほど苦な事かの?」
先とは打って変わって優しい声で中谷は年下の青年を諭す。
その言葉に久坂はハッとした。
これ程に自身を認めてくれる師に対する自分の矮小さ。
武士に憧れ、成らんとしている己が今更容色に拘るなどなんたる小さい器であるか。
彼は自分の稚拙な思考を恥、俯いていた顔を上げ中谷を見つめた。
「・・・中谷さんすみません。僕はいま少し気が動転しておりました。」
「・・・・・・・・。」
「僕如きに大事な妹御を下さる事は、先生やご家族のお優しいご配慮であったものを。」
「やっと解ったか。恐らく先生は君と義兄弟になりたいのじゃろう。」
俯きながらポツリポツリ話す久坂に、中谷はゆっくり言葉を継ぎ足していく。
「・・・・・・お文さんを頂けるという事は名誉な事じゃと、そう思えてきましたよ。」
そう言って、ゆっくり上げた久坂の顔は、先程までの暗い表情とは違って若者らしく清々しい笑顔であった。
「そう思えるならば、膳は急げじゃ。先生へちゃんと心を伝えて来い。」
中谷に背中を押され、久坂は幾分晴れ晴れした表情で松下村塾へと急ぐのであった。