巣立つ時(7)
明くる朝、久坂は重たい目を擦りながら顔を洗いに庭井戸へ歩いていった。
井戸から汲み上げた新鮮な水に顔を近づけると、透明の水面下に二人の顔が映る
昨日の松陰やお文とのやりとり・・・・・・久坂の脳裏にぼんやりと浮かび上がってくる。
杉の家に住まうとなると、若いお文との接触がどうしても気にかかる。
(本当に良いのだろうか・・・・・・。)
夜、帰り掛けに呼び止められ、杉の家で遅い夕食を馳走になった時のあの懐かしい団欒の風景。
彼は失った家族が一瞬戻ってきたような感覚が悲しくも有難く、その人々の優しい気遣いが今も
鮮明に映し出される。
そして、松陰とお文の自分に対する家族同様な暖かい言葉。
久しく忘れかけていたものばかりであった。
(−・・・家族か。そういえば、父母や兄の墓にもそろそろ参らんとな・・・。)
ふっと失った家族の顔も思い出す亡き家族への墓参り等、いろんな事を考えながら冷たい水で顔を洗う。
肌寒くなって来た季節に、冷水で洗うのは手も悴み辛いが、頭を冴えさせるには丁度いい。久坂は
2回3回と冷水を染込ませてからやっと手ぬぐいで顔の水を軽く拭った。
冷たい風が吹く中、久坂は足早に部屋へと入っていった。
「おや、久坂君起きていたのか。」
聞きなれた声が廊下に響く。向かいの部屋に寝ていた松陰である。
「先生。お早う御座います。先に井戸を使わせていただきましたよ。」
「そうですか、今母と妹が朝餉の支度をしているようで。僕も久坂君に習って井戸で顔を洗ってきましょう。」
そういって、松陰は久坂の横を通り庭の井戸へ歩いていった。
部屋へ戻った久坂は浴衣を脱ぎ着物と袴を身にまとうと床を畳み、座して暫く瞑想を始めた。
やがて、井戸で清め終えた松陰が戻って来ると、彼はゆっくりと目を開け、
「先生、昨晩お話してくださった一件。杉の方が宜しければ・・・。」
その声に、少しだが、嬉しそうに松陰が反応を見せ部屋に入ってきた。
「久坂君、ここへ住まうという事は父母も承知の事です。先日僕は部屋を出た後父母の元へ行き話しをしたのです。
二人とも快く承諾してくださいましたよ。」
「有難う御座います。実は僕も帰ろうとしてお文殿に止められまして、その時に一寸伺ったのです。」
「そうですか。お文が承諾する事は実は知っていたのであえて彼女には聞きませんでしたが・・・。
いやあ良かった。君がそう聞いてくれて・・・・・・。」
何かしら意味有り気な発言だが、久坂にはこの杉一家の承諾は非常に嬉しいものであった。
松陰は一呼吸置いて、彼に再度尋ねた。
「君はそういえば、幾つになるかな。」
「え・・・?僕ですか。今年18になりましたが、何か?」
久坂は、突然何の脈絡もない質問を投げかけられ多少うろたえたが、何とか冷静に返事が出来た。
松陰は何を言わんとしているのだろう・・・・・・。
「いや、18ともなれば妻帯していてもおかしくは無いと思ってね。」
「成る程、しかし僕は先生の様に一人でも良いと思っておりますが。」
何となく松陰の問いかけの意味を察した久坂は、少し顔を俯かせた。
「久坂君、妹をどうか迎えてはくれんか。ちと急な話やもしれんが、僕は君の様な優秀な血脈と良縁を
持ちたかったのだよ。」
松陰がこれだけ高い評価をしてくれるのは非常に有難く嬉しい事だ。しかしながら、久坂には彼女を妻
として迎えるという事が今ひとつ実感として湧かなかった。
彼女は美人とは言い難いが、気立ての優しい娘で武家の女らしく快活明瞭にこなす様は妻として非の打ち所の
無いものである。
ただ、若い久坂にはまだ世帯を持つという自覚が薄く、若干芸妓の様な麗しい女達の世界に憧れる風もあり、
どうにも気が進まない。
「先生、何分突然の事ですので暫くこの旨考えさせてはもらえないでしょうか。」
久坂は急に返事は出来ないと、松陰に正直に話した。
松陰も、急な事とは承知していたのでそれ以上彼に迫る事も無く、
「そうですか、確かに性急過ぎましたね・・・。では暫く考えてみてください。色よい返事をお待ちしておりますよ。」
と、彼にそういい含めるのであった。
その日は、一人で考えたいという理由で杉家を夕暮れの刻、辞したのだが松陰の言葉が頭から離れず好生館へ戻っても
悶々と考えるだけで学問の打ち込む所では無かった。
久坂は狭い室内の畳にゴロリと横たわり、静かに目を閉じた。