巣立つ時(3)
「よう玄瑞!・・・なんじゃ、情けない格好して。もしかして今お目覚めか?
夜遊びも程ほどにのぉ。」
かかと笑う高杉。まるで面白い玩具を見つけたかのような表情で、嬉しそうに
笑う様は、久坂にとって決して気分の良いものではない。
精神的な疲れから解放されて安心した為、かなり深い眠りについていた久坂は
正午まで延々眠りこけていた。
明るい日差しに目が覚め大慌てで起き上がり、
急いで家を出たために着物や袴も帯が中途半端に緩んでいたりなど・・・何時もの
彼からは想像つかぬ失態を犯してしまったのである。
明倫館から出て暇を持て余していた高杉にとってこれは丁度いい餌が舞込んで
来たと言う所だろう。
しかも相手があの真面目な印象を持った久坂玄瑞であるからなお更。
普段からかう隙がない人物のこの失態は高杉にとって正に暇つぶしにうってつけ
の材料となった。
「で、寝坊主の玄瑞殿はこれからどちらへ?塾なら”朝早く”から講義が始まっとるが。
行くなら一緒に行こうじゃないか。」
「・・・・・・寝坊主で悪かったな。塾には勿論行くが・・・ただ・・・。」
「・・・?ただ・・・なんじゃ??」
少し視線を落として意味ありげに言葉を濁す久坂の顔を覗き込みながら高杉は
次の言葉を待つ。
「いや、なんでもない。それより塾へ行くのは久しぶりじゃ。何か変わった事はないか??
先生とか皆は・・・。」
「いんや、変わった事は・・・・・・あるな。最近の講義は今までのような学ぶとか
そんな考え方から実践を進めるものへ僅かじゃけど変化して行きよる。」
「実践?攘夷のか?」
まだこの頃は尊攘思想を高らかに唱える人物は少なく、長州もまた幕藩体制下にあった。
(討幕を含んだ尊攘論はまだ先のことである)
だから、久坂も高杉もこの手の対話を道々話す時は声を潜ませていたのである。
「うん。まだそこまでは議論が及んじゃいないが、何れはそれに行き着くじゃろう。
先生も門人達も幕府の諸外国への対応には不満を露にしとったしの。」
「今までの様には如何という事か。大楽先生も悩んでいる時間は無いとか言っていたな。
しかし、実践せよとて今忽ち何が出来るんじゃろう。僕の様な一書生に出来る事とは何じゃ・・・?」
久坂は高杉の話を聞いているとまた昨晩の苦悩が脳裏を過ぎる。
医者になる定めを逃れられない自身に何が出来る。小さい藩士分に憧れそうなりたいという
望みすら叶わぬのに、お国の大事といった大業を成せなど、果たして実現できようか。
それこそ正に夢のまた夢ではないか。
悶々としている久坂の横で、士分でも上士格にある高杉はちらりと悩む同志を横目で見た後、
大きな晴天の空を仰ぐ。
「士分があっても同じじゃろ。所詮は一藩士。藩の事は出来ても日ノ本をどうこうする事はできんのじゃ。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「のう、玄瑞。先生は凄い事を言寄ったぞ。日ノ本の民が一丸となり統一された民族として立ち上がるべきと。
草莽が今必要なんじゃといっておった。君はこの意見どう思うよ。僕は勿論先生に同感じゃが。」
高杉が松陰から聞いた草莽という言葉。彼は彼なりに考えているようだ。
初めて会ったときは敵意むき出しの高級士族の青年だった高杉。
久坂に対しても、師の松陰に対してもどこか近寄りがたい空気を醸し出し士族としての誇りを高らかに掲げて
いて、塾においても浮いた存在だった。
その高杉が民衆に力を求める事に同意を示すという事は彼の大きな変化を意味するものであり、久坂は久しぶり
に見る同志の成長振りに目を奪われた。