松下村塾(5)
安政4年、夏・・・
梅雨から蒸し暑い夏の季候へと変化する頃、久坂は松本村・松陰の塾に居た。あの和解の日依頼、彼は毎日と言って言い程ここに通っている。
熱い日差しの照りつける中、畦道を足早に歩きながら、久坂は流れる汗もそのままに、ひたすら松陰の待つ塾を目指していた。
やがて、もう見慣れた木々に囲まれた独特の雰囲気を持つ家屋が姿を現す。
久坂は以前の様に立ち止まって気後れする様な仕草は見せず、その足取り崩す事無く玄関へと歩いていった。
「今日はお文さん居ないのかな?」
何時もなら、庭掃除か台番所の片付けなどして、遅れながらもちゃんと出迎えてくれるのだ。
彼女が居ない日は殆ど無く、訪れた時最初に顔合わせるのが全く当たり前の様になっていたので少しもの足りぬ様な気さえする。
そんな事を考えて居ると、噂に上った人物の快活な声が背後から聞こえてきた。
「あ、久坂さん!いらしていたなんて御免なさい。お出迎え出来ずに・・・さ、兎も角お上がりになって。」
声を掛けてきたのはお文だった。
彼女はどうやら奥の庭で相変わらず掃除に励んでいたらしい。額に僅かばかり汗が滲んでいた。
久坂は、文の勧めるままに家屋へと移動した。土間上がろうとした時、もう一足明らかに客人と思しき草履が目に付いた。
久坂はお客かな?と思いつと文に訪ねる。
「お文さん、今日はこちらでお客人がいらっしゃるのですか?それでしたら僕は特に急ぐものでも無いのでお暇しますけど?」
遠慮がちに言う久坂を見て、文は少し可笑しそうにこう言った。
「いいえ、お客様はいらっしゃいませんよ。ええ、でも大層愉快な方は先刻からお見えですけれど。ふふっ。」
意味ありげに文は口元を手で押さえ、まるで笑いを堪えるかのような話口調で答えた。
文のそんな姿を訝りながらも、客でない訪問者の存在が気になっていた。
(愉快な方か・・・)
“愉快な”と聞いて、幾人か周辺で該当しそうな人物を頭に思い描いてみるも、なかなか出てはこない。
色々な人物を浮かべてぼんやりしていると、部屋から松陰とその人物と思しき声が聞こえてきた。
その声は、何処かで聞いた事のある声であった。
「・・・見事だが、一度玄瑞の言を叩いてみると良いですね。」
この落ち着いた声は松陰先生だ。
「・・・・・・“玄瑞の”ですか。」
あからさまな苛立ちを含めた声、この声・・・どこか幼い頃に聴いた様な。
久坂が再び記憶を巡らせていると、突然部屋の襖が大きく開かれた。そこには、松陰と痩せて面長の男が立ってこちらを見ていた。
「おや、久坂君ではないですか。」
松陰が親しげな眼差しを向けこちらへ歩み寄ってくる。
松陰よりやや後ろに位置する若い男は久坂の名を聞いた瞬間、先程より鋭い目を自分へ向けてきた。
「・・・久坂・・・玄瑞。」
男の鋭い眼光に一瞬ビクっとしたものの、その衝撃は次の松陰の言葉でかき消される。
「ああ、久坂君。紹介しましょう。彼は藩上士・高杉小忠太殿の嫡子で高杉暢夫(晋作)といいます。」
高杉と聞いて、久坂はあっと思った。
(やはり・・・何処かで聞いた声だと思ったら。吉松先生の私塾で・・・。)
彼等二人は、共に吉松淳蔵の私塾で机並べて学を学んだ、いわば同門同士なのである。もっとも両人親しかった訳でもなく、たまたま一緒の場所にいま
したという程度であったが・・・。
少なくとも特徴的な高杉の容貌をかすかながら記憶していた久坂は、一人かすかに頷き納得していた。
一方の高杉も、やっと幼い記憶がジワリジワリ甦って来たのか、
(確か昔に居たな、眇め坊主で学問の虫が・・・。)
とこちらも納得した様であった。
やがて、松陰の開く村塾(第二次)の双璧と成る英傑がここで初めて正式に顔合わせする事になるのであった。
(※松下村塾は、叔父・玉木文之進が創立し、後に松陰が再興した際、かつて使用した「松下村塾」の表札を再利用したものである)