松下村塾(4)
久坂が松陰宅を訪れて、変える頃には既に日は落ちていた。
この一日は若い久坂にとって実に刺激的な日であり、自身の志を改めて見つめ直すものであった。
吉田松陰の”草莽屈起論”が何より彼にとって大きな、衝撃的な論であったのは言うまでも無い。
松陰は現状の幕藩政治に従うのでは駄目だ、日ノ本の若者が結束し新たな政府の樹立と故国防衛の為に今決起せねばならぬその為には、わが長州だけでなく、
日ノ本におわす天朝さまですら必要ではないというのだ。
この時代に限らず、戦前までの日本では天子は神であり、松陰のような「新体制に必ずしも王は必要でありえない」考え方は珍しいことである。
現に久坂等志士も幕府に代わる体制として、攘夷の条件として勤皇政治を掲げている。
幕府は日ノ本の土台という意識があったようだが、朝廷はそれともまた違い天上人の様な、特殊な存在崇めるべき貴人という一種の信仰的なものであった。
だから、久坂が酷く衝撃を受けるのも無理からん事なのである。
(確かに、松陰先生の言にも一理ある。決して不可能な選択ではない・・・、しかしこの国を大きく動かす為の力として幕府に成り代わるのはやはり京におわす天子
様以外には考えられん。僕等が志を唱え広めていく為に、大きな信仰的権力は絶対必要だ・・・・・・。)
久坂は、家についても何をしていても、松陰の唱えた草莽論について一人自問していた。
”草莽の志士となり日本という一つの国を新たに建立する−・・・”
松陰の言葉・・・それはやはり彼の人生で大きな変革をむかえるものであり、久坂玄瑞という歴史に残る彼の人物像を形成する一番の要因と云われても可笑しくない事である。
ともかく久坂は今後、草莽という言葉を自己解釈を用いて自身の思想の中枢に据えて行くのだ。何時までも考え耽っていても仕様がない。この今の状態はまだ机上の
空論に等しく、空念仏の攘夷を唱える者と変わりない。
(まずは動かねば成らぬ・・・・・・。松陰先生や大楽先生、宮部先生は既に京や江戸へ自ら出向いていって色々な人物との接触をもっている。僕は彼らほど意思は強くはない、しかしこのまま何もせずに居ていい筈がない。此処
に留まって一時の安寧にまどろんでいては、ただ畳の上で死ぬまで待つだけだ。)
机上で一つ心境を歌った詩を練ろうと思ったが、良い言葉が出てこない。
久坂は暫く考えてから、何か悟った様な面持ちになり、ふっと笑うと徐に筆を動かした。
「今の心境すなわち志の一片を記すのに良い言葉なぞ当て嵌める必要は無いよな。はは、ただ素直に書き出せばよいのに・・・」
自嘲気味に笑いながら、自作の詩歌を書き記し彼特有の良く響く美声で出来立ての詩を口ずさむ。
軽やかな空気の流れに乗せて歌う詩歌は、彼の志そのものでもあり世を憂う心情と自身の身のあり方をしっかり世間に示すものであった。
久坂は詩吟を済ませると、句帖に改めごろんと畳の上に寝転がった。
天井の木目に視線を這わせながら、また新しい詩作に耽るのであった・・・・・・・・・。