松下村塾(2)
明くる日、久坂は意を決して松陰の居る松本村へと向かった。
大抵こういう時には、誰か見知ったものと出くわす所であるが、どういう訳か今日は誰一人として姿を見ることは無かった。田畑あぜ道を抜け、前にも見た風景が眼前に広がる。
やがて、その視界の中に木々に囲まれた広い家屋がうつると、久坂は立ち止まって呼吸の乱れを整えると門戸の前まで急いだ。相変わらず静かな場所である。
玄関はきっちり閉められていたがその扉より少し奥へある、庭の方で以前会ったお文が竹箒を持って庭掃除をする姿が見られた。
久坂は文の姿を確認すると、庭へ近づき、庭手入れに没頭している娘に声をかけた。
「御免ください。久坂ですが。」
よく通る彼の声に、はっと手を止め文は後ろを振り返った。
印象に残っている坊主頭の侍姿を記憶していた文は、ふふと何か思い出したように笑んで、彼の所へ駆け寄った。
「まぁ、久坂さん。お久しぶりです、私ったら気付かずに・・・・・・失礼致しました。」
「いや、また突然お邪魔して僕の方こそ申し訳ない。吉田松陰・・・兄上殿には会われますか?」
久坂が親しげな口調で文に訊ねると、娘は嬉しそうな顔をした。
「兄はまだ幽閉の身に御座いますが、久坂さんならばお会い致すかと。私、兄に伝えてまいりますわ。さあ、それではどうぞ中へお入りになって待っててくださいな。」
「それは有難い。是非にお伝え願います。」
久坂は文に促されるがままに室内の客間へと足を運ぶ。文は彼を通し、そのまま足早に廊下を渡り兄・松陰の幽閉室へと歩き去っていった。
松陰の室の前に来ると、文は中の兄に向かい声をかける。
「寅兄様、久坂玄瑞様がお見えです。」
暫く中からの返事は返ってこなかった。文が兄の返事をそのままの座した姿勢で待っていると、返事の変わりに室の襖がそぉっと開かれた。
そこには目に見えて嬉しそうな表情を浮かべた松陰の姿があった。
「お文や、私も客間に行くから後から茶を運んではくれまいか。」
「はい、兄様。直ぐにお持ちしますわ。」
お文も兄の念願叶って、心底嬉しくまた、安心した様な表情をし、いそいそ台番所へと向かうのであった。
久坂は、松陰を待つ間妙にそわそわして心落ち着かず、始終部屋中に目を泳がせていた。
やがて、静かな足音と共に襖が開かれ中に入ってきた人物を見ると彼の緊張の動悸は極度に高まるのであった。
「久坂君、ようやくお目見えできましたね。」
にこと笑って静かに松陰は話しかける。
「随分長い間、お手間を取らせて申し訳御座いません。僕は自分がどれだけ未熟であるか此度の事で痛感致しました。」
久坂は心底松陰に感服し、自身の未熟さ所の所業をひたに詫びた。
この言葉を聞き、松陰は無言で首を振ると、目の前の若者にこう訊ねた。
「あの書簡の件に、君の非はない。全て承知の上でやり取りを続けた私の方こそ丁重に詫びねば成らない所だ。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「しかしながら、君の見解・志共に見上げたものだ。これから更に学を深め多くの人材と接していく事で君はもっと大きくなっていくだろう。」
「・・・・・・・・・・松陰先生。僕は日ノ本を狙う輩を掃い戦う・・・攘夷の志は終生変えじと思うております。」
「では、手紙にあった英米人を寸断して・・・というのは本気かね?」
「然り。僕は口先だけの論者にはなりとう御座いませぬ。」
きっぱり述べる久坂に、松陰は満足気に頷く。
暫く対談していると、廊下からパタパタ足音が聞こえてきた。
「失礼します。お茶をお持ちしました。」
「有難う。お入りなさい。」
松陰がそう言った後、部屋の襖が静かに開けられて、先程玄関で会った
お文がお盆を手に現われた。
お文が茶を配り終え、退出するのを確認して久坂は再び松陰との対話に入った。