七*「想い」が通じた時
家に帰ると、お父さんは無言だった。謝るのも癪で、わたしも無言で部屋に入る。
そんな感じでお父さんとはずっと、ぎくしゃくとした関係が続いていた。
月曜日の全校朝礼で高校生絵画コンクールの結果がアナウンスされた。クラスメイトたちはおめでとうとお祝いの言葉を言ってくれた。わたしは恥ずかしくて、うつむいていることしか出来なかった。
放課後のクラブ活動でも篠原先生から美術部員にトロフィーと賞状を見せて祝ってくれた。みんなにこんなに祝ってもらえて気恥ずかしい。
トロフィーはしばらくの間、校長室に飾られると言われ、額に入った賞状は教室の後ろに飾られた。
帰る間際、受賞したのが本当かどうかを確認したくて、そっと後ろに見に行った。
額縁の中にはわたしの名前が書かれた賞状。だけどなんだか違和感。それがなんなのか分からないまま家に帰った。
次の日の放課後。昨日はかかっていたはずの額縁が後ろから消えていた。
不思議に思いながらも、いつものようにサッカー部の人たちをスケッチする。
そういえば、今日は巡に会っていない。学校には来ているはずなのにどうしてだろうと疑問に思う。スケッチを何枚かして、額縁が消えたことに疑問に思いつつも、わたしは片付けて家に帰った。
「巡、昨日は学校に来てた?」
次の日の朝、気がついたら当たり前のように巡が後ろを歩いていたので振り返って質問する。
「もちろん、学校には行ってたぞ」
硬い表情に疑問に思いつつも、それ以上は追求しなかった。
放課後になり、美術室。
「あれ?」
昨日はなかった額縁が、当たり前のように掛かっていた。それにしても、なんだか違和感。近寄ってみると違和感の正体が分かった。
月曜日に掛けられていた額縁と今日の額縁が微妙に違うのだ。そして今、掛けられている額縁は授賞式の時に見た物だ。どうして変わっているのか分からない。
「下瀬さん、来てたんだ」
一個上の先輩が声を掛けてきた。
「聞いた?」
彼女はわたしに近寄り、声をひそめて聞いてきた。分からなくて、首をかしげた。
「……なにがですか?」
わたしの疑問に、彼女は嬉々とした表情で語り始めた。話をしたくて仕方がなかったようだ。
「それがね、昨日突然、美術部員数人が辞めちゃったんだって」
「……辞めた?」
このタイミングで辞めるなんて、なんか変だ。
「自主的に辞めたということになってるんだけど、本当は辞めさせられたみたいよ」
辞めさせられた?
さらに彼女がなにかを続けてしようとしたところ、ドアが開いて巡が入ってきた。
「こんちー」
「こっ、こんにちは」
巡の姿を見た彼女は、わたしから慌てて離れていった。いぶかしく思いつつ、額縁から離れて巡の側に行く。
「巡って怖がられてる?」
巡にそう囁くと、喉の奥で笑われた。
「今頃、知ったのか?」
それはもう、楽しそうに笑っている。
「なにがおかしいのよ」
怖がられているのがそんなにうれしいのだろうか。
「ようやくオレの恐ろしさが浸透し始めたか!」
腰に手を当てて、胸を張って笑っている。そんな巡のどこが怖いのかさっぱり分からないわたしは呆れてしまった。
「もっとオレのことを恐ろしがるがいい!」
わたしは巡の相手をするのが馬鹿らしくなって、棚からクロッキー帳を取り出して準備を始めた。
**:**:**
冬休みに入り、お正月になり──あっという間に三学期が始まる。
サッカー部は寒くても毎日、フィールドを元気に駆け回っていた。
四月からずっとサッカー部を見ていたけど、みんな、だんだんと上手になってきている。最初の頃に描いた棒人間と比べてみると、ずいぶんとフォームがキレイになってきているなというのが分かる。だからなのか、粗が分かりやすくなってきて、あの人はシュートの時に軸が曲がるなとか、軸足の向きがおかしいなってのも分かるようになってきた。
「奏乃のスケッチは恐ろしいな、相変わらず」
デッサンというよりはスケッチと言った方がいいクロッキー帳の殴り描きを見て、巡はつぶやく。
「……なにが?」
視線を上げると、巡は熱心に今描いたものを見ている。
「なるほど……」
一人で納得すると、巡は美術室から出て行く。
いつものことなので気にせずに、視線をフィールドに戻す。わたしは気が済むまでスケッチを続けた。
どれくらい描いていただろうか。ふと視界の端に見覚えのあるシルエットが見えた。
「あ……」
思わず声を上げる。ウインドブレーカーを羽織った土井先輩がフィールドにやってきた。風が強いらしく、目を細めて練習を眺めている。休憩に入ったようで、フィールドから人がいなくなる。土井先輩は休憩をしている部員に近寄り、声を掛けていた。
休憩が終わり、土井先輩はベンチに座って練習を見ている。その視線の先を追いかける。
「──え」
土井先輩の視線の先には、わたしがスケッチした人がいた。彼はしきりになにかを気にしながらボールを蹴っている。様子を見ていた土井先輩は見かねて、フィールドに入って声を掛け、見本を見せている。身体に触れ、指導をしている。
もしかして……。
わたしは振り返り、美術室内に視線を走らせる。しかし、目的の人物はいなかった。
まさかねと思いながら、わたしは今日のスケッチを終了にした。
**:**:**
二月になると、三年生は自由登校になったようだ。美術部の先輩も見かけなくなってきた。土井先輩も大学が決まったために忙しくなってきたのか、姿を見かけない。
淋しく思っていたけれど、それでもわたしのサッカー部のスケッチは続いていた。
そういえば前に軸足がぶれている人がいたけど、気がついたら彼のフォームはすっかり直っていた。シュートもかなり飛ぶようになり、フィールドを走る姿が楽しそうだ。わたしもスケッチするのが楽しい。
「飽きもしないで今日もサッカー部員をスケッチか」
呆れたような声に振り返る。巡は後ろからわたしのスケッチを奪い、めくって見ている。
「お、これってあいつか? フォーム、キレイになったな」
「うん。描くのが楽しいよ」
「こいつは?」
「えっと、あの短髪の彼。たまーに走ってると膝がかくっとなるんだよね」
巡は気になる絵をピックアップして、わたしに聞いて、またどこかに行ってしまった。
そんな日がゆるゆると過ぎ、気がついたら三月になり、卒業式を迎えた。
雪が降るほど寒い日で、タイツをはいて制服の内側にカイロをたくさん仕込んで、わたしは体育館に向かった。
用意されたパイプ椅子に腰を下ろすと、厚着をしているにもかかわらず冷たい。結んでいた伸びてきた髪を外し、首筋を隠す。そうしたらほんの少しだけ寒さが和らいだ。
三年生入場のアナウンスに全員立ち上がった。
背筋を伸ばして誇らしげに入場してくる先輩たちはみんな輝いていてまぶしい。土井先輩の姿も見えた。
校歌を歌うために口を開いたら、白い息が立ち上る。
来賓の言葉に校長の言葉、卒業証書の授与に三年生の歌。
これでもうここで土井先輩を見ることがないのかと思ったら淋しくなってきた。だけど不思議と涙は出てこない。
三年生と一部の在校生が泣いていたけど、わたしはじっとまっすぐに見つめていた。
卒業式が終わり、教室に戻る。簡単なホームルームが終わるとみんな思いのままに散っていく。
かばんを持ってわたしは美術室へと向かった。
三年生の先輩は教室でまだ最後のホームルームをやっているようで、来ていなかった。
わたしたちは大急ぎで教室を飾り付ける。
そういえば数か月前に美術部を自主的に辞めたという人たちを学校内でも見かけなくなった。噂によれば全員ではないけれど転校したり学校を辞めたりしたらしい。
理由については色々と語られていたけど、真相ははっきりとはしなかった。中には三年生もいたのにあんな時期に転校なんて進学にかなり影響があったのではないだろうか。
準備をしていたらドアがうっすらと開いて、見覚えのある顔がのぞいた。三年生の先輩だ。
「あれ?」
先輩はわたしの顔を見るなり、周りを気にしながら手招きしてきた。
「わたし?」
周りを見回すと、わたししかいない。確認するように自分を指さすと、うなずかれた。近寄ると、先輩は小さな声で、
「ごめんなさい……」
と謝ってきた。
なにに対しての謝罪なのか分からない。
それだけ言うと先輩はなにかにおびえるようにドアを閉めて慌てて逃げるように消えていった。
訳が分からないまま、呆然と閉まったドアを見つめる。
そして、先ほど謝罪をしてきた先輩は変な時期に美術部を辞めていった一人であることに気がつき──血の気が引いた。
いや、まさか。そんな訳がない。
自分の中に浮かんだとある仮説に対して否定したくて首を振る。
証拠がないのに疑ってはダメだと自分に言い聞かせるものの、そう思えば思うほど色んな符号がわたしの中で面白いくらいかちかちとはまっていき揺るぎないものになってしまった。
こんなにおめでたい日だというのに心がどんどんと冷えていく。
それでもどうにか準備をして必死になって笑みを浮かべて三年生を迎え入れる。最後に受けを狙うように巡が現れ、みんなにツッコミを入れられている。
一生懸命笑おうとするけれど引きつった笑みしか浮かべられない。
「奏乃?」
巡の目はやっぱりごまかせなくてすべてを見透かしたかのような表情でわたしの顔を見る。
「あ──うん。先輩たちがいなくなるの、淋しいなって」
その気持ちもあったから口に出すと、ぽろりと一粒だけ、涙が頬を伝った。
「そうだな。特に奏乃は長谷川先輩にお世話になりっぱなしだったもんな」
長谷川先輩というのは、わたしが美術部に入ったときの部長で長谷川茜という。すごくさばさばした性格で、だれに対しても容赦のない人でもある。わたしもよく怒られた。だけどそのさっぱりしたところが大好きだった。三学期に入り、二年生の野原知絵が部長になりあまり顔を出さなくなった。受験が忙しいのもあった。そして、副部長はなぜか巡がなった。
「長谷川先輩はひどいよなぁ。オレに副部長なんて大役を押しつけて卒業するんだから」
「だーれが鬼ですって?」
背後から懐かしい声がして、笑顔で振り返った。
「長谷川先輩!」
「だれも鬼なんて言ってないですよ。ひどいって言っただけで」
「いやいや、あたしの耳には『鬼』って聞こえたわよ」
数か月前に見たときはショートカットだった長谷川先輩の髪はだいぶ伸びていて、肩に届くほどになっていた。
「先輩! 髪が伸びましたね」
「そういう下瀬さんも、ずいぶんと伸びたじゃない」
「えへへっ」
そうやって話をしている間はさっき思いついたことを忘れられて、笑顔で話をすることが出来た。
ふと窓の外を見ると──。
「あっ」
赤と青のゼッケンをつけた人たちがフィールドを走り回っている。その中に土井先輩がいる。
「ほら、奏乃」
巡は苦笑して、わたしにクロッキー帳を渡してくれた。鉛筆を取り出し高校生活最後の勇姿を描いていく。後ろでは別れを惜しむように用意していたジュースとお菓子を口にしながら話に興じている。だけどわたしの耳にはその音は遠くなり、聞こえなくなる。
少しでも多く、土井先輩を紙に描き残したい。鉛筆を必死に走らせた。
ガラス越しにでもホイッスルが聞こえる。
試合が終わってしまった──。
脱力感を覚えて、椅子に崩れ落ちた。
もう、この窓から土井先輩を見ることはない。
何とも言えない淋しさが襲いかかってくる。
わたしたちは美術室の隅にいた。心地よいざわめきに包まれた教室。
「なあ、奏乃」
巡の囁くような声。
「おまえはこのままでいいのか?」
視線を少し上げる。巡はわたしの正面に立って見下ろしている。もっと顔を上げると表情の読めない顔を向けていた。
「なあ、奏乃。このまま土井先輩に想いを伝えなくていいのか?」
息を飲んで巡を見る。
「前、オレに言ったよな。『想いは言葉にしないと伝わらない』って。見てるだけで幸せだって言ったけど、本当にそうなのか?」
巡はじっとわたしを見ている。
「ここで想いを伝えないと、きっと後悔する」
強い言葉に、心が揺らぐ。だけどわたしは勇気がなくて、動けないでいる。
「ったく、見ているだけでいいなんて焦れったいな。告白してこいよ」
巡はそういうとわたしの腕をつかんで引っ張った。巡に引っ張られるまま、わたしは廊下を通り、三年二組の教室に連れて行かれる。
「土井先輩」
「どうした、皆本」
巡はわたしの背中を押して、教室の中へ押し込める。教室内には土井先輩しかいなかった。
「がんばれよ」
巡はそれだけ言うと、外に出ていく。
「え……ちょっと!」
突然、放り込まれて戸惑う。
「確か……美術部の」
「え……あっ、あのっ。し、下瀬です。一年二組の……」
「ああ、下瀬さん」
土井先輩はわたしの前まで歩いてきた。
恥ずかしくて、うつむいてしまう。
目の前に土井先輩が立っている。わたしの心臓は外に出てしまうのではないのかというほど、ばくばくと音がしている。身体中を激しい早さで巡っている血液の音がうるさくて、深呼吸をする。
土井先輩はわたしの言葉を待っている。だけどこのままなにも言わないで逃げたい。
「なにか、おれに用?」
ずっと黙ったままのわたしに、土井先輩は尋ねてきた。
「あー、あのっ。そそそそ、その……」
挙動不審なほど、わたしはどもってしまった。土井先輩は静かにわたしが口を開くのを待ってくれている。わたしは大きく息を吸って、思い切って口を開く。
「えっ、や……そのっ。せせせせ、先輩、すっ、す……好き、で……す」
好き、の二文字を伝えるのにどうしてこんなにも勇気を総動員しなくてはならないのだろう。それでもようやく伝えることが出来て、それだけでわたしは満足していた。土井先輩からの返事なんてものまで考えてなくて、伝えきったことにもう終わったと思ってしまっていた。
土井先輩の身じろぎする音に、とんでもないことを言ってしまったことに気がついた。
穴があったら入りたい。ないのなら掘って隠れたい。それよりも、今すぐにでも土井先輩の前から消えたい。もう恥ずかしくて仕方がない。
「それって、おれと付き合いたいっていうこと?」
土井先輩の質問に、なんと答えればいいのか分からない。
わたしの中では告白しても土井先輩に断られるという状況しか想定していなかったのだ。
想いを伝えられたらそれでいい。その先のことなんて、考えていなかった。
「いいよ、付き合っても」
予想していなかった言葉に驚いて顔を上げる。
もしかしたら土井先輩の顔を正面から見るのは初めてかもしれない。
切れ長の目。涼しげな一重。りりしい眉毛にしっかりとした鼻。きりりとした引き締まった口元。
「名前」
「え?」
「名前とケータイの番号とメアド、教えてよ」
想いが通じ合った後のことなんて、考えてもいなかった。携帯電話は美術室に置いているかばんの中に入っている。
「あの……。ケータイは下に置いてきました」
「そっか。じゃあ、せっかくだから一緒に帰ろう。下まで一緒に降りようか」
土井先輩は席まで戻り、荷物を持ってわたしのところに戻ってきた。
「じゃ、行こうか」
「あ、はい」
なんだか夢みたいだ。現実感がまったくない。
一階まで降りて、土井先輩はまっすぐに昇降口に行っている。わたしは校舎の一番端の美術室に入る。中はだいぶ人が少なくなってはいたけどまだ何人も人が残っていた。
「それではお先に失礼します。みなさん、お元気で」
わたしの声に、残っていた三年生が手を上げる。
「下瀬さんも元気でね」
「はいっ」
部屋の中を見回しても巡は見当たらなかった。かばんを持ち、お辞儀をして部屋を出る。
報告しようと思ったけど、いないのなら仕方がない。
昇降口に行き、靴に履き替える。外に出ると、土井先輩が待ってくれていた。
わたしたちは端に寄って、番号とメールアドレスを交換した。
「下瀬……奏乃。へー、奏でる乃で奏乃なのか。かわいい名前だね」
褒められて、恥ずかしくて仕方がない。
「おれ、明日から大学のサッカー部の練習に参加しなくちゃいけなくて、なかなか時間が取れないんだよな」
「あ……そう、なんですね」
想いが通じた後ってなにをどうすればいいのだろう。まったく分からない。
「メールはするよ。ところで、なんて呼べばいい?」
「えっと、奏乃でいいです」
「うん、奏乃、ね」
土井先輩にそう呼ばれ、全身が熱くなる。
「じゃあ、一緒に帰ろうか」
「あ、はい」
なにを話せばいいのか分からない。わたしは少しだけ土井先輩の後ろを歩く。
「下瀬……じゃなかった、奏乃ってそういえば」
土井先輩は後ろを歩くわたしを気にしながら、話かけてくる。
「絵画コンクールで賞をもらってた?」
話を振られて、慌てて顔を上げる。それで自分がうつむいていたことを知った。
「あ、そうです。特別賞ですけど……」
「すごいじゃないか。うちのクラスのヤツもあれに出したのがいたらしいんだけど、かすりもしなかったって嘆いていたぞ。ああ、そういえばそいつも美術部だったな」
「え、そ、そうだった、んですか」
わたし以外にも出していた人がいたなんて、初耳だ。
「奏乃はすごいんだな」
「そ、それほどでも」
あれは自分一人では描けなかったものだ。巡の協力があったから。
「奏乃って緊張してる?」
「はっ、はい。か、かなり」
「そう言われると、おれも緊張するな」
激しくぎこちない会話。
「あ、わたしの家、ここです」
マンションのエントランスの前で立ち止まる。
「へー、学校に近くていいな。おれの家、もっと先なんだよな」
「そうなんですね」
「じゃ、奏乃。メールするからな」
「はい。その、ありがとうございます」
わたしはお辞儀をして、土井先輩に手を振る。土井先輩は笑顔を向け、歩き始めた。その背中が見えなくなるまで、わたしは見送った。
**:**:**
土井先輩は律儀に毎日メールを送ってくれた。こちらから送ろうと思っていたらいつも早いタイミングで送られてくる。メールの内容は他愛のないものだ。サッカーの練習であった出来事、どんな人がいるのか、そんな何気ないこと。だけどすごく楽しそうで、わたしも練習を見に行きたくなった。
『練習を見に行ってもいいですか?』
先輩たちが卒業して数日して、在校生のわたしたちも春休みに入った。コンクールがあるわけでもないからまだまだ寒くて家から出たくなかったので家でのんびりと宿題をしていた。だけどさすがにそれにも飽きてきて、きっかけがあればどこかに出かけたいと思っていた。
先輩からはすぐに返事が来た。
『来てくれるの? うれしいな。明日は大丈夫?』
用事があるわけではないから行けると返事を返す。
土井先輩の返事には、八時に大学のサッカー部の練習場がある最寄り駅で待っていると書かれていた。八時は早いなと思ったけど、練習は九時からで、一年生は早く行って準備をしないといけないということを聞いていた。
『分かりました。寝坊しないようにモーニングコールを早く起きた方がしましょうか』
電話で話すことを今までしていなかったから、そんな提案をしてみた。
普段、電話だとなにを話せばいいのか分からなかったからメールはありがたかったけど、やっぱりどこか、淋しい気持ちがあったのだろう。モーニングコールならおはようくらいで済むから、間が持つ。
『お、いいね、それ』
先輩から返事が返ってきた。
『それでは、わたしが頑張ってモーニングコール出来るように、もう寝ますね』
『おお、もうこんな時間か。それでは、おやすみ』
『おやすみなさい』
それだけ返してわたしはベッドに潜り込む。明日、急に先輩に会うことになってしまった。学校の外で会うのは初めてだな……と思って、大変なことに気がついた。
「うわっ、着ていく服!」
制服で行くわけにはいかない。そのことに気がついたら眠気がすっかり飛んでしまった。
ベッドから抜けだし、なにを着ていこうかクローゼットを探す。
「あああ、なに着ていこう」
悩み始めると止まらない。明日の天気は? 先輩は何色が好き? そんなことを考えたら、決められない。
「ううう、どれがいいかな……」
この春先は日によって気温が違う。今日は比較的暖かかったけど、明日はどうなのだろう。
そうやって悩んでどうにか服が決まったときには、日付が変わりそうだった。
わたしは慌てて布団に入り、目覚ましを掛ける。起きられるだろうかとどきどきしながら目を閉じる。興奮して眠れないかと思っていたけど、すぐに眠ることが出来た。
けたたましい目覚ましの音と携帯電話の音で目が覚める。何事かと思って飛び起きる。
そして、昨日の先輩とのメールのやりとりを思い出して、携帯電話に飛びついて開く。
「おおおお、おはようごじゃ……った」
目覚まし時計を止めながら電話に出たら見事に舌を噛んだ。電話の向こうの先輩は声を上げて笑っている。
「す、すみませんっ」
慌てて謝ったら、ますます先輩は笑っている。
『おはよう、奏乃。緊張して、早くに目が覚めてさ』
先輩は笑いながらそんなことを言っている。わたしは起こされるまで眠っていたのに。
『八時に待ってるな』
「はい。分かりました」
それだけ言うとわたしは電話を切った。耳元に響く先輩の声になんだか恥ずかしくなる。
昨日、準備していた服に着替えてキッチンに向かう。
「おはよう。あら、今日はどうしたの?」
「うん、急に出かけることになって」
「そうなの? どこに行くのか知らないけど、遅くならないようにね」
お母さんは朝食を用意してくれて、わたしは食べる。
「奏乃、その服で行くの?」
春だからと新しく買ったちょっと薄手の服にしていた。
「え、うん」
「今日、寒くなるみたいよ。それだと寒いわよ」
「え、寒いの?」
時計を見ると着替えている時間はあるようだ。わたしは慌てて部屋に戻り、冬服に着替える。ブラウスにセーター。スカートにしようかと思ったけどズボンの方がいいだろう。コートを手に持ち、バッグを持つ。お財布とハンカチ、携帯電話を確認する。
「あああ、歯を磨くの忘れてた!」
部屋から飛び出し、歯を磨く。髪をとかして色つきのリップを塗り、おかしくないか確認する。
「お母さん、行ってきます!」
「気をつけて行ってらっしゃいよ」
今日は珍しく、お父さんより早い。お父さんが出てきたらなにかと面倒だから、慌てて家を飛び出した。