六*授賞式
文化祭は盛況すぎるうちに終わった。
なにが受けたのか分からないけど、わたしのクラスの喫茶室はずっと行列が出来る満員御礼状態だった。結局、追加で二回ほど買い出しに出たほどだ。
お弁当を食べた後、わたしはノンストップで給仕係をする羽目になってしまった。
文化祭が終わった頃にはふらふらで巡の助けがなければ家に帰り着かないほどだった。
「おまえはほんと、我慢しすぎだろう」
と呆れている巡の言葉に、今回の件に関してはまったくだと同意するしかなかった。自分の妙な不器用さに落ち込んでしまう。
「ま、なにはともあれ、お疲れさま。奏乃のあの絵もなかなか評判が良かったみたいだぞ」
すっかりそのことを忘れていた。
「あ、そうなんだ」
「あのな、もっと喜べよ」
「だって。巡の絵の方がすごかったから」
「んー。あれは横長ってだけでインパクトがあるから」
とは言うけれど、どれだけ大変だったかを知っている。でも巡は妙なところで謙遜をするのが分かっていたので、それ以上はなにも言わなかった。
「それじゃ、お疲れ」
「ありがと」
いつもならエントランスで別れるのに、今日はそれだと不安だからと玄関の前までついてきてくれた。
「あら、巡くん。わざわざごめんなさいね。お夕飯、食べていく?」
「あ、いえ。ありがたいですが、家で用意して待ってくれていると思うので……」
「そう? 残念ね。今度、食べに来てね」
「はい、喜んで」
普段の巡を知っているだけに、そのやりとりを不思議に思いながらわたしは家に入り部屋に入る。
もう今日はダメだ。
制服を脱ぐことも出来なくて、ベッドにうつぶせになるとわたしはそのまま眠ってしまった。
**:**:**
秋は行事が目白押しで、その後は運動会。
学年は関係なくクラス対抗で、わたしは二組で土井先輩も二組なので同じチームだった。それだけでうれしくて張り切っていた。
残念ながら巡たち四組チームが優勝で惜しくも二組は二位だったけど楽しかった。
冬になり、三年生は徐々に受験に突入していった。土井先輩もご多分に漏れず受験組で、だけどスポーツ推薦でサッカーが強い大学に決まったようだ。大学が決まったことで余裕が出来たようで、たまに土井先輩はフィールドに立って後輩の指導をしている。わたしはまた、デッサンが出来ることに喜びを覚えた。
「奏乃は相変わらず土井先輩、なのか」
「うんっ」
巡からモデルのお礼にと言ってもらったクロッキー帳はとっくの昔に消費してしまっていた。今、使っているのはそれから何冊目になるのか分からない。
これだけ毎日描いているから少しは上達しているのかと思ったけど、それほど進歩のない自分の絵にショックを受けながら、それでも描くことはやめられなかった。
雪がちらつきだして、暑かった夏のことを思い出せない頃。夏休みに出した絵画コンクールの結果が返ってきた。
いつものようにクラブ活動を終えて家に帰ると、わたし宛てに封書が届いていた。いぶかしく思いながら裏を返すと、覚えのないところからだった。なんだろうと疑問に思いながら封を切って中を取り出す。
「え……?」
しばらく、書かれていることを理解するのに時間がかかった。
「お……お母さん」
夕食の支度をしているお母さんに戸惑った表情を向け、中に入っていた紙を渡す。
「なあに?」
野菜を切っていた手を止めて、タオルで手を拭いて手紙を受け取る。
「まあ、すごいじゃない!」
いぶかしげな表情が一転して、お母さんは笑顔になる。
「これってあれでしょ、夏休みの時に描いた絵」
「……うん」
巡の助けを借りてどうにか仕上げて出した、土井先輩がドリブルしているのを巡がスライディングをしている絵。
「お父さんにも報告しないとね」
そうだ。あの絵を描いた本来の目的を思い出した。
お父さんが飯の種にもならない無駄なことに入れ込んでと怒っていたという話を巡にしたら、妙な闘志を燃やしてわたしをたきつけたのだ。絵を切り裂かれたことによって忘れていたけど、無駄ではないということを示すためだったのだ。
「ふふっ、今日はお祝いね」
なんてお父さんが帰ってくるまではうれしい気分だったのに……。
「ダメだ」
「なんでっ」
「そんな子どもの遊びで賞をもらって、なにがうれしいんだ」
信じられなくて息を飲む。
この絵画コンクールがどれだけ長い間続いていて、そこで賞をもらった人の中から何人かプロになったのか知らないからそんなことが言えるんだ。
説明しようとしたら、お父さんは興味がないと言わんばかりにわたしに背を向けて、テレビをつけた。
「お父さん!」
話を聞いてくれない。
なんのために頑張ってきたのか、分からない。
膨らんでいた気持ちが激しくしぼんで、萎えていく。
別にこの道で生計を立てて行けるとは思っていない。好きだから一生懸命にやって、それで賞という形を残してなにがいけないというのだろう。
「奏乃……」
わたしよりもお母さんの方が泣きそうな表情をして、わたしを見ている。
「お母さんはついて行けないけど、交通費は出してあげるから」
お母さんはこっそりとわたしの耳に囁く。
「ダメだぞっ」
そんなところだけしっかり聞いていて、ダメという。
「あなた、どうして奏乃が一生懸命頑張ったことを褒めてあげないのっ」
「うるさい。絵が描けたところでなんになるんだっ」
お父さんは背を向けたまま、そんなことを言う。
「なにかに打ち込めるのは学生のうちだけなんですよ。それに奏乃は遊び半分でやってるわけではなくて、こうやってきちんと結果を出してるじゃないですか。褒めてあげるべきでしょう」
「そんな時間があるのなら、もっと勉強をしろ」
お父さんとお母さんは言い合いをはじめてしまった。きっかけがわたしだっただけに、辛い。
「分かったから! 授賞式には行かない! だから、お父さんもお母さんもけんかはやめてっ」
わたしのせいで二人の仲が悪くなるなんて、耐えられない。
「それが当たり前だ。勉強に励むのが学生の本分だ」
「あなた! 勉強、勉強では息が詰まります! それに、勉強しか出来ない子なんて、社会に出たときに困ります」
「奏乃は女なんだから、社会になんて出なくていい。卒業したら、すぐに結婚でもすればいい」
あまりにも古いその考えに、どう返せばいいのか分からない。
「へー。あなたは私を否定するんですね」
「…………」
「悪うございましたわね、トウが立ったような年上の働く女でっ」
お母さんはお父さんと結婚する前、ずっと働いていたという。お父さんの方が年下で、なんでもお父さんが激しくアタックをした末に結婚したらしい。お母さんは高齢出産だったこともあり、わたし一人しか産めなかったと言っていた。そして今はお母さんは働いてはいない。
「女は働かないでいいなんて、あなたはいつの時代の人間なんですか。私より若いのに、考えが古すぎますっ」
止めたはずなのにますます加熱する二人にわたしはどうすることも出来ずに、自室に戻った。
どうすればいいのか分からなくなってきた。
絵を描くのは大好き。それが上手いか下手かはともかくとして、目の前に興味深い対象があれば紙に描き写したいという衝動に駆られる。これはある意味、病気だと思っている。
だからってお金になるとは思えない。趣味程度にとどめて、大学に通わせてもらって就職して、恩返しをして……なんて、巡じゃないけど面白みのない、だけどそういう道しか思いつかない人生設計しか自分の目の前にはない。
だから今回のことだって、賞を取れたからすぐにそれがお金を稼ぐ手段になるとは思ってないし、そういうつもりでもなかった。
それよりも、頑張ったことを全否定されたことにショックを受けていた。
褒めて欲しくて頑張った訳ではない。一生懸命やってきたことを認めて欲しかった。だけど──。
悔しかったけど、泣いたら負けだと思ったから、我慢した。手のひらをぐっと握って、唇をかみしめる。
巡は我慢しすぎるって言ったけれど、我慢することばかり。我慢をすることをやめたら、それはガキだ。
大きく深呼吸をして、落ち着くように自分に言い聞かせる。何度か繰り返したら、ようやく落ち着いてきた。
残念だけど、授賞式に行くのは諦めよう。
もやもやした気持ちを抱えたまま、わたしは布団に入る。
自分のやったことが原因で、ぎすぎすするのがなんだか残念で仕方がない。がっかりした気持ちのまま、わたしは眠りについた。
**:**:**
そして、授賞式の日。
今日は土曜日で、学校は休みだ。わたしはそのことを意識しないようにと、珍しく朝から宿題に取りかかっていた。
遠くでインターホンが鳴るのが聞こえる。
「奏乃ー」
キッチンから、お母さんが呼ぶ声。
「学校の先生と巡くんが来てるわよ」
どうして来ているのか分からなくて、慌てて玄関に向かう。
「おい、奏乃。どうして私服を着てるんだよ」
「え?」
制服の巡と、スーツ姿の篠原先生がいた。訳が分からなくて、戸惑う。
「先生が同行するから、行きましょう」
「ど、どこに?」
「どこって決まってるだろ、授賞式だよ」
「え、わたし、行けない」
お父さんに行かないと言った手前、行きたくても行くなんて言えない。
玄関でやりとりをしているのをいぶかしく思ったお父さんがリビングからやってきた。
「下瀬さんのお父さまですか」
「……そうですが」
かなり警戒をしたお父さんの声にわたしは逃げたくなる。
「わたくし、千川原高校の美術部の顧問をさせていただいている篠原と申します。この度はお嬢さまが高校生絵画コンクールで受賞をされて、おめでとうございます」
お父さんの表情が一気に曇っていく。
「奏乃、今のうちに着替えてこい」
巡のつぶやきに戸惑うばかりだ。
「でも……」
一触即発と言わんばかりのお父さんと篠原先生の空気にわたしはどうすればいいのか分からない。お母さんがわたしをここから追い出すように背中で押してきて、部屋に戻された。
巡に言われるまま、制服に着替える。
耳を澄ましていると、篠原先生の声が聞こえる。だけどなんと言っているのかはよく聞き取れない。
「ダメだ!」
お父さんのはっきりとした声が聞こえてきた。わたしは思わず、首をすくめる。
どうしてお父さんはあんなにもかたくなにダメだと言うのだろうか。
制服に着替え、サブバッグにお財布を入れて、恐る恐る、部屋の外に出る。
「奏乃!」
巡がわたしの名前を呼ぶ。
「早く行け!」
狭い廊下。お父さんが立ちふさがるように立っていたところ、巡がお父さんを壁に追いやり、一人ほど通り抜けられるようにしてくれた。
「おまえはなんだ!」
巡とは面識がないお父さんは面喰らい、戸惑っている。
「ほら、今のうちに!」
巡が身体を張って、わたしに早く行けと言ってくれている。篠原先生もわたしに向かって手を伸ばしている。お母さんを見ると、大きくうなずいた。
「いってらっしゃい」
お母さんは見送ってくれる。それに対してお父さんは、
「奏乃、行くな!」
とわたしが行くことを止めようとしている。
どうすればいいのか分からない。だけどこの場にいたくなくて、わたしは逃げるように巡とお父さんの横を駆け抜けて玄関に向かう。靴を履き、篠原先生に守られるようにして家を出る。
篠原先生に腕を引かれて、駅へと向かった。
切符は篠原先生がすでに用意してくれていたようで、手渡された。改札を通る。ホームに行き、ようやく口を開くことが出来た。
「あの……」
「皆本くんがね、相談に来てくれたの」
篠原先生は安堵のため息を吐きながら、わたしを見ている。
「……巡が?」
「ええ。そろそろ結果が出た頃なのに下瀬さんからなにも言ってこないんだけど、どうだったんだって。賞をもらえたから授賞式には行くでしょと話を振ったら……下瀬さんからそんな話を聞いてないっていうし、下瀬さんからも私になにもなかったからおかしいわねってなったの」
巡に授賞式に行かないなんて言ったらなんでと聞かれるから、黙っていた。巡が手伝ってくれたおかげで賞が取れたのに、それをお父さんに全否定されたのが辛くて、悔しかった。巡のがっかりした顔を見たくなくて、だから黙っていた。それなのに……。
「はー、悪い。間に合ってよかったぁ」
息を乱して走ってきた巡が後ろからやってきた。
「奏乃のお母さん、強いな。お父さんを押さえて『奏乃について行ってあげて!』なんて」
どういう顔をすればいいのか分からず、うつむいた。それと同時にアナウンスが流れる。
電車が滑り込むようにホームに入ってきて止まる。中から人があふれ出し、わたしたちは降りたのを確認して、乗り込む。三人並んで座ったけど、なにを言えばいいのか分からない。
「どうして……」
電車が動き出し、しばらくしてそれだけ言えた。
「簡単な話だよ。奏乃の様子が変だったし、結果がどうであれ、律儀な奏乃がオレに報告しないってのがおかしいなと思ってさ」
巡をごまかすことなんて出来ないってことか。
なんだかものすごく申し訳ない気持ちがいっぱいになって、スカートを握りしめた。握りしめた拳の上に巡がそっと手を添えてくれた。そのぬくもりに泣きそうになっていた気持ちが少しだけ救われた。
「たまにいらっしゃるのよね。芸術系を無駄だと思って一切、価値を認めてくださらない人」
左隣に座っている篠原先生は苦笑混じりの悲しそうな声で、ぽつりとつぶやいた。
「無理して認めてもらおうとしても、かたくなに反発するだけだと思うから……。難しいわよね、ほんと」
それからわたしたちは無言のまま、電車に揺られていた。巡はずっと、わたしの手の甲を温めてくれていた。
授賞式は滞りなく行われ、わたしは特別賞というものをいただいた。
金賞と銀賞を受賞した絵を見せてもらったけど、段違いの出来映えだった。その絵を描いた二人とも少しだけ話をしたけど、絵を描くことにプライドを持っていて、それでいてきらきらと輝いていてまぶしかった。
篠原先生と巡は並んで部屋の端っこで見守ってくれていた。二人は親しそうに笑いながらなにかを会話している。それを見て、もしかして……なんて考えがよぎったけど、まさかと思ってすぐに否定した。
授賞式が終わったらお昼で、篠原先生がお祝いよ、他の人には内緒ねと言って、お昼ご飯をごちそうしてくれた。篠原先生の話は面白くて、それに対して巡は容赦なくツッコミを入れるものだから、わたしは終始、笑いっぱなしだった。
お昼を食べて、篠原先生はもう少し用事があるからここでお別れだけど、と言いながら家までの交通費まで出してくれた。賞状とトロフィーは荷物になるからと授賞式の後、すぐに宅配便で学校に送るようにしてくれた。篠原先生になにからなにまでお世話になってしまった。
帰りは巡と二人きり。一人だったら心細くて仕方がなかっただろうけど、巡がいてくれるだけでずいぶんと気持ちが違う。
「ほら、奏乃」
半歩前に立っている巡は少し振り返り、わたしに手を差し出してきた。
「……なに?」
「人が多いから、迷子になるだろ」
「だっ、大丈夫だよ! 子どもじゃな……きゃっ。ごっ、ごめんなさいっ」
大丈夫と言っている端から人にぶつかってしまった。ぶつかった人はむっとした表情をわたしに向け、無言で去って行った。
「ほら。またぶつかるぞ」
慣れない人混みに、素直に巡の手を握る。持っていたサブバッグも持ってくれた。
思っている以上に大きくて温かい手。
「巡……ごめんね」
「なんだ、急に」
巡にはいつも、迷惑ばかり掛けている。いつもお礼を言うタイミングを逃しているから、今までのことを含めて、口にした。
「巡に色々してもらってるのに、わたしは……」
「へー、そんなこと、気にしてたんだ」
横に並んで歩いている巡の視線を感じる。わたしはうつむいたまま、足をすすめる。
「奏乃の描く絵が好きだから、もっとたくさん見たいんだよ」
好き、という単語にどきっとしたけど、それはわたしの描く絵に対しての言葉と知り安堵した。巡がわたしを好きなんて、あり得ない。
「巡の方が上手だよ」
視線を上げて巡を見ると、複雑な表情をこちらに向けてきた。それはなんと言えばいいのか分からない、表情。困ったような、うれしいような、色んな感情が入り交じった表情。
「……上手いのは確かだ」
眉間にしわを寄せた表情をすると、巡は不敵な笑みを浮かべた。
「オレって天才だから、なんでもちょちょっと出来てしまうわけですよ」
巡の軽口に、だけどそれは事実だから否定は出来ない。巡は勉強もスポーツも絵だってなんでも簡単に上手にこなしてしまう。わたしは何事も一生懸命にやって、ようやく人並みだ。
「……あれ? ツッコミなし?」
「うん」
拍子抜けしたのか、巡はずっこける真似をした。おかしくて、くすくすと笑う。
「五人兄弟だから、埋もれないようにするにはなにかに特化しないといけないんだけど、こういうのを器用貧乏っていうのかなぁ。小さい頃からそこそこなんでも出来たから、親は手のかからない子と思ったみたいで、オレのこと、ずっと放置しちゃってくれて。上と下が手がかかるから、それを見てたら余計に迷惑かけられなくって」
たまに見せる巡の『弱音』に、わたしはいつも、戸惑う。
「だからかな。のびのびとした奏乃の絵に惹かれるのかもな」
それは褒められているのかどうか微妙な線。
「オレには描けない絵だからこそ、もっと見てみたいって思うんだ」
よく分からないけど、褒められていると思っておこう。
改札をくぐり、電車に乗って家の最寄り駅に近づくにつれ、すっかり忘れていたことに気がついた。
わたしは飛び出すように家を出てきたのだ。どんな顔をして、戻ればいいのだろうか。お父さんはわたしを家に入れてくれるのだろうか。
巡はいつもの調子で色々と話しかけてくる。だけど今のわたしはそれどころではなく、巡の言葉が耳に入ってこない。
「……奏乃?」
どんどんと沈み込んでいくわたしに気がついた巡は、下から顔をのぞき込む。
「どうした?」
「…………」
気持ちが沈み込み、心が重く感じる。
電車はわたしたちの家のある最寄り駅に到着した。巡に手を引っ張られて、のろのろと電車から降りる。
「奏乃?」
ホームに降りて、なかなか歩き出そうとしないわたしをいぶかしく思ったらしい巡は立ち止まり、うつむいているわたしの顔をまた、のぞき込む。
「家に帰りにくい?」
小さくうなずく。
巡はわたしをベンチまで連れてきて、座らせる。その横に巡も腰掛けた。
「そういえば、どうしておまえ今日、授賞式に『行けない』なんて言ったんだ?」
巡は繋いだ手に力を入れてきた。
巡に夏休みの時にお父さんに言われた言葉を話した時、見たことがないほどの険しい表情をしていたのを思い出した。またあの巡の顔を見たくなくて、口を開くことが出来なくなった。
「またそうやって我慢する。嫌なことを抱え込んでいたら、いつまでも前に進めないぞ」
電車がホームに滑り込んできて、たくさんの人をはき出していく。ざわめきがなんだか遠くでの出来事のように思えてしまう。
「頼りないかもしれないけど、聞いてやるからはき出せ」
巡のことが頼りないなんて思ったことはない。むしろ、迷惑ばかりかけていて、心苦しい。
「別に奏乃が話してくれなくてもいい。気が済むまで、オレは勝手に奏乃に付き合うだけだし」
しゃべるまで居座ると言わんばかりの態度に負けたのは、わたしだった。
「巡って、頑固だよね」
「奏乃だって頑固じゃないか」
巡の場合は頑固な上に辛抱強いから、根負けするのはいつだってわたしだ。
「お父さんに、子どもの遊びで賞をもらってなにがうれしいんだって言われて……。それで、お父さんとお母さんがけんかになったの」
「だから、授賞式には行かない、と」
「……うん」
わたしの言葉に巡は深いため息を吐いた。
「だってオレら、子どもじゃん。遊んじゃダメなのかよっ」
予想通り巡は憤っている。
「遊びだって真剣にやってる。それのどこがいけないんだ? クラブ活動だって、楽しんでやってなにがいけないんだ」
お父さんはお酒も飲まないしたばこも吸わない、ギャンブルだってしない、真面目な人だ。見ていてたまに息が詰まりそうになるくらいまっすぐに生きている。だからきっと、わたしの生き方を理解が出来ないのだろう。
「奏乃、絵を描くことはやめるなよ」
「……うん」
「オレと約束しろ」
「……なんで、巡と」
まるでわたしが今すぐにでも絵を描くのをやめると言うと思っているかのような言葉に苦笑いを浮かべて巡を見た。目の前にいた巡は真剣なまなざしで、わたしの心臓は不意にどきりと鼓動を打った。
「もうっ、そんな真剣な顔して、驚かせないでよっ」
巡の顔が怖くて、震える声でようやくそれだけ口にする。
「奏乃、オレと約束しろ。絵だけはなにがあっても描くのをやめないって」
「……なんで」
「さっきも言っただろう。オレは奏乃の描く絵が好きなんだって」
わたしだって、絵を描くことが好きだ。別にこれで身を立てられなくても、絵が描けたらそれで幸せだと思っている。描けなくなるなんてこと、考えたくない。
「うん……約束、するよ。わたしも絵を描くの、好きだもん」
巡は繋いでない方の小指をわたしの目の前に差し出した。
「じゃあ、指切りげんまん」
真剣な表情でそんなかわいいことを言ってくるから、わたしは思わず、笑ってしまった。
「ほら、小指を早く出せよ」
「えー」
恥ずかしくてもじもじしていたら、巡は立ち上がってわたしの腕を引っ張り、無理矢理小指と小指を絡ませられた。なんだかすごく、恥ずかしい。
「指切りげんまん、嘘ついたらキスするぞ──指切ったっ」
巡はそういうと、絡めた小指を強く引っ張り、指切りをした。
「って、なんで嘘ついたら巡とキスをしないといけないわけっ?」
普通ならハリセンボン飲ますなのに。
「ハリセンボンなんて飲ませらんないだろ? そもそも、どこに行けばハリセンボンなんて手に入れられるんだよ。すぐに出来る罰ゲームは、オレが奏乃にキスをすることだ」
と巡は楽しそうに笑みを浮かべてわたしを見ている。
「めっ、巡のキスが罰ゲームってっ」
「そーだろ。奏乃は土井先輩が好き。なんともないオレからキスされたら、罰ゲーム以外のなにものでもないだろ?」
それは土井先輩とキスをするのが前提のようなことを言われ、自分が真っ赤になるのが分かった。
「やっぱり奏乃は、エロいなっ」
「なっ! はっ、恥ずかしいことを言ったのは、巡じゃん!」
「オレは健全な男子高校生だ! エロいに決まってるだろ!」
「開き直るって、どうなのよ!」
わたしはベンチを立ち上がり巡を見下ろした。巡はわざとらしくわたしに身体を寄せ、驚いて身を引いたところに得意げな表情を浮かべ、歩き始める。手を繋いだままのわたしは引っ張られ、その勢いで歩き出す。
「大丈夫だよ。きちんと家に入れてくれるよ」
「……うん」
「家までついていってやるから、心配するな」
なんだかいっつも巡に甘えてばかりいて情けない。
「ごめんね、巡」
わたしのそのつぶやきは、巡に届いたのかどうか──。巡は握っていた手に少しだけ、力を入れた。