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想いは言葉に乗せて  作者: 倉永さな
【本編】
4/14

四*練習試合

 巡のアドバイスを時々受けながら、わたしはコンクール用の絵を仕上げていった。

 間に合わないかと危惧していたけど、イメージがしっかり固まっていたからか迷うことがほとんどなくて思ったよりも順調に作業は進んでいたため、ほぼ終わりと言ってもいい状況になっていた。


「明日には終わりそうだな」


 帰る間際、巡は後ろからわたしの絵をのぞき込んでそう言ってきた。


「うん。巡のおかげだね。ありがとう」

「お礼を言うのはまだ早いぜ。仕上げて、賞を取ってからそういうのは言うんだ」


 この絵が賞を取れるかどうかは分からないけど、わたしは描き上げられそうなこの状況に満足を覚えていた。


「じゃ、帰ろうか」


 わたしはもう少しで終わりそうな絵に布を掛け、美術室の鍵をしっかりとかけたことも確認して、巡と一緒に職員室に鍵を返しにいった。職員室にはほとんど先生がいなかったけど、数人が残っていた。


「お、今日もお疲れ。気をつけて帰れよ」

「はーい」


 声を掛けられ、わたしと巡は元気に返事をして職員室を後にする。

 わたしたちはいつものようにくだらない話をしながら、家路についた。


 明日であの絵が完成する。

 なんだかそのことに妙に興奮して、なかなか寝付けなかった。

 布団に入る時間はいつもと変わらなかったのに、眠れたのは日付が変わった頃だった。そのせいで朝、なかなか起きられなかった。


「おはよう……」


 目覚ましがなってもなかなか起きられなくて、ようやくベッドから出たのはいつもより三十分ほど遅かったと思う。制服に着替えてキッチンに行くと、お父さんはすでに会社に行った後で、お母さんはなかなか起きてこなかったわたしに対して、少し呆れていた。


「今日は早く起きて、仕上げに取りかかるんじゃなかったの?」

「うー、そのつもりだったんだけど……。昨日、なかなか寝付けなくって」


 食パンを焼いてくれて、インスタントだけどスープも作ってくれた。黙々と食べ、お弁当を持って学校に向かったのは、すでに九時を過ぎていた。

 太陽はすっかり昇りきっていて、地上をじりじりと焼いている。半袖からのぞいている肌が痛い。

 学校にたどり着くとすでに野球部とサッカー部は練習をしていたので邪魔にならないようにぐるりと回って昇降口にたどり着いたとき、日陰に入れたことでほっとした。靴を脱いで上履きに履き替え、美術室に向かおうとしていたら廊下をだれかが走ってくる音が聞こえた。

 廊下を走っていたら先生に怒られるぞと思っていたらそれは巡で、注意をしようと口を開いていつもと様子が違うことに気がつき、いぶかしく思いながら口を閉じた。


「奏乃……」


 わたしの目の前に来ると、膝に手を当てて肩で息をしている。


「おはよ、巡。どうしたの、そんなに慌てて?」


 巡は大きく深呼吸をして、上体を起こした。わたしは顔を上げ、巡を見る。その顔はかなり険しくて、どうすればいいのか分からない。


「あっ、あのっ。来るのが遅くなって……ごめんね」


 昨日、いつもより早く来ると言っていたのに遅れて来たから怒っているのかもしれないと思い、謝罪の言葉を口にする。しかし巡は険しい表情のまま、首を振った。


「なかなか来ないから心配してたけど……奏乃が無事なら、良かった」


 そういうと、巡はわたしをぎゅっと抱きしめた。なにがなんだか分からなくて、わたしはどう反応すればいいのか分からない。


「巡? どうしたの?」

「奏乃、落ち着いて聞いてほしい」


 落ち着かなくてはならないのはわたしではなくて巡なのではないだろうか。巡の声は震えていた。


「わたしは落ち着いてるけど……なに、どうしたの?」


 巡はゆっくりとわたしから離れ、今にも泣き出しそうな表情を向けてきた。そんな表情を見たことがなくて戸惑うばかりだ。


「ねえ、どうしたの? なにが、あったの?」


 巡は辛そうな表情をして、首を振る。


「もうっ、変な巡」


 巡にいつものように笑ってほしくて笑いかけてみたけど、表情は変わらなかった。

 いぶかしく思いながらもわたしは仕上げに取りかかるため、美術室へと向かった。戸を開けようとしたら、後ろから巡に止められた。


「……巡?」


 巡のこの表情の原因は、この中にあるということだろう。さっきより表情がさらに険しくなっている。整った顔をした巡がそんな表情をしていたら、怖くなってくる。


「奏乃、今日は帰れ」


 思わぬ言葉に、わたしは反論する。


「帰れって! だって、今日で仕上がるのに!」


 わたしと巡が美術室の後ろのドアの前でもめていると、前のドアが開いて篠原先生が出てきた。


「下瀬さん……」


 こちらも今にも泣き出してしまいそうな表情をしていた。なにかよからぬことが起こったということは痛いほど分かった。それも、わたしにとって痛手になる出来事が。


「先生、奏乃にはオレから……」

「いいえ。辛いかもしれないけれど、きちんと本人が見るべきだと思うの」


 ──やっぱり。

 篠原先生はわたしを手招きする。


「皆本くんからは?」

「いいえ。なにも……聞いてません」


 わたしの答えに篠原先生は小さくため息を吐き、わたしの顔をまっすぐと見た。


「昨日、あなたと皆本くんの二人で美術室の戸締まりをしてくれたのよね?」

「はい。二人で鍵を掛けて、閉まっていることを確認しました」

「それで、鍵を職員室に返しに来てくれたのは岡村先生が見ていて、気をつけて帰るようにと声を掛けたとさっき聞いたわ」


 昨日の職員室でのことを思い出す。

 そうだ。あの先生の名前が岡村というのを今、思い出した。三年生のどこのクラスか分からないけど、担任だ。


「岡村先生は昨日、最後まで残っていたみたいなの。その後にだれかが美術室の鍵を借りに来た人はいない」


 だけど、と篠原先生は続ける。


「今日、皆本くんが一番に来て、職員室に鍵を取りに行った。昨日、返したままそこには鍵があって、いつもと同じように鍵を開けて、中に入ったら……」


 わたしは巡に視線を向ける。うなだれているため、どんな表情をしているのか分からない。


「──美術室の中が、荒らされていたの」

「荒らされて……いた?」

「そう。もっと詳しく言えば、荒らされていたのは一部だけだったの」


 わたしが昨日、美術室を出るとき、机はいつものように並んでいたし、わたしたちの描いた作品は部屋の端を机を囲うように置かれていた。


「下瀬さん、覚悟して聞いてね」


 気がついたら、後ろに巡が立っていた。わたしを支えるようにそっと肩に手が掛けられる。


「下瀬さん、あなたの作品だけが……切り裂かれていたの」


 言われた言葉の意味が分からなくて、篠原先生の顔をじっと見つめてしまう。


「絵画コンクールに出すって言っていた絵が……修復不可能なほど、ずたずたに、切られてしまったの」


 ようやく、言われた言葉の意味を理解した。

 音が、遠くなる。

 目の前が、よく見えない。


「……奏乃っ!」


 背中にぬくもりを感じる。

 わたしの身体から力が抜けて、その場にしゃがみ込んでしまった。


「絵画コンクールまでの締め切り……一週間もないから……」


 篠原先生の声が遠くに聞こえる。

 思っていたよりスムースに進んで、早めに上がるなと喜んでいたところだった。それがまさか……。

 どうすればいいのか分からない。

 わたしの思考はそこで止まった。


「奏乃、今日は帰ろうか」


 そう言われて、わたしは首を振る。


「自分の目で見ないと、信じられない」


 わたしはどうにか立ち上がろうとしたけど、上手く身体が動かない。

 巡が手助けをしてくれて、支えられるようにしてくれたのでかろうじて立ち上がれた。ふらつく身体のまま前から美術室に入る。

 室内は静まりかえっている。

 昨日、絵を置いた場所に足を運ぶ。掛けていた布は遠くに飛ばされていて、イーゼルには無残にも枠だけが残っていた。中の画布は切り裂かれ、床の上に散乱していた。

 だれがどうしてこんなことをしたのか。

 わたしはしゃがみ込み、落ちた布片を拾い上げる。拾った布をスカートの中に詰め込んでいく。すべてを拾い終わり、わたしは無言で美術室を出た。心配したように巡が後ろをついてきてくれている。


「……わたし、帰るね」


 ショックでどうすればいいのか分からない。


「家まで送っていくよ」

「……いいよ、大丈夫」


 肩を落としうつむいたまま、昇降口に戻って靴に履き替える。来た道を戻り、校門を抜ける。来るときはあんなに暑かったのに、今はもう暑ささえ感じない。

 マンションの入口にどうにかたどり着いて中に入るとき、視界の端に巡が見えたような気がした。


「……ただいま」


 出かけたばかりなのにもう帰ってきたわたしを見て、お母さんは苦笑している。


「ずいぶんと早かったわね。絵は完成したの?」

「……ううん」


 それだけしか言えなくて、お母さんの作ってくれたお弁当をテーブルの上に置くと部屋に駆け込んだ。

 部屋の中はわたしが出て行った時のままで、ベッドの上の掛け布団はぐちゃぐちゃになっていた。そこに身体を投げ出し、うつぶせになる。


「うっ……くっ」


 どうすればいいのか分からない。なんであんなことになってしまったのだろう。

 昨日までの努力がすべてダメになってしまった。

 わたしの夏休みはなんだったのだろうか。

 お父さんが言うように無駄なことだったのか……。

 目が溶けてしまうのではないかというほど、わたしの目からは涙が次から次へとあふれてくる。どうすればこの涙は止まるのだろう。

 泣いて泣いて……気がついたら、朝になっていた。腫れぼったい目のまま、わたしはキッチンへと向かった。服は昨日のままだ。


「おはよ。巡くんが心配して、夕方に来てくれたのよ」


 面倒見のいい巡になんだか腹が立ってくる。


「……ほっといてくれればいいのに」


 八つ当たりだって分かっている。だけどもう悔しくて仕方がなかった。スカートのポケットにしまった切り裂かれた絵をテーブルの上にばらまいた。


「もう絵を描かない!」


 わたしの投げ出した切り裂かれた絵をお母さんは大切そうに広げ、元に戻そうとしてくれている。


「まあ……ひどいことをする人がいるものねぇ」


 のんびりとした声にわたしは苛立つ。


「お母さんになにが分かるって言うのよっ」


 荒げた声にそれでも、お母さんはのほほんと口を開く。


「そうねぇ。辛いんだろうなってことしか分からないわ。でもここで奏乃が諦めるのは、こんな卑劣なことをやった人間を喜ばせるだけだと思うのよね」


 お母さんはしわしわになった布を手で丁寧に伸ばしている。


「あら、ここの色なんか素敵じゃない。もう絵を描かないの? もったいないと思うわ」


 テーブルをにらみつけていたわたしは少しだけ視線を上げる。


「ここで奏乃ががんばってこれよりもっといいものを描いちゃえば、こんな卑劣なことをやった人間の鼻を明かせると思わない? あーら、それってなんだかすっごく爽快!」


 お母さんの楽しそうな声にわたしは顔を上げる。目の前にはにこやかな表情をしたお母さんがいた。


「いつまでも泣いていたって、仕方がないでしょ? このまま泣き寝入りしたいのなら別にいいのよ。だけどせっかくここまで頑張ったのを無にされたの、悔しくない? ここで諦めたら負けちゃうのよ」


 お母さんはわたしの前に立ち、優しく頭をなでてくれた。


「軽くシャワーを浴びてきなさい。昨日はお昼からご飯を食べてないんだから、お腹が空いてるでしょ? 昨日の夕飯の残りを準備しておいてあげるから」


 わたしはのろのろと浴室に向かい、お母さんに言われた通りシャワーを浴びた。

 それによってだいぶスッキリとした。

 ご飯も食べて栄養が巡り始めてようやくこのままにするのは悔しいと思えるようになった。

 もう一度同じ物を描き上げるのは時間的に難しい。だけどまだ締め切りまで一週間あるのだ。ぎりぎりまで粘ってみよう。

 お母さんの言葉にようやくそう思えるようになった。


「学校、行ってくる」

「そう? 気をつけてね」


 お母さんはいつものようにお弁当を作ってくれて、わたしに持たせてくれた。

 今日も変わらず、太陽が空に昇っている。地上を照りつけるその光をにらみつけて、挑むように歩き始めた。

 しばらくして、背後に気配を感じる。


「奏乃、おはよ」


 いつものように巡が声を掛けてきた。


「おはよ」


 はれぼったい顔を気にしながら、わたしは振り返る。

 心配そうな表情をしている巡に対して、引きつる顔にどうにか笑みを乗せる。


「間に合うかどうか分からないけど、わたし、また描くよ」

「……そっか」


 巡はそれだけ言うと、わたしの横に並んで頭をなでてくれた。大きくて暖かい手にまた涙が出そうになったけど、ぐっと我慢した。


「油絵だったら乾かす時間がかかるから、水彩画にしたらどうだ?」


 水彩画はどちらかというと苦手だ。だから避けていたのだけど、そんなアドバイスをしてくる。巡だってわたしが水彩画が苦手なのを知っているはずなのに。


「奏乃が苦手なのは知ってるけど、そこをあえて、チャレンジしてみるのがいいんじゃないかと思うんだ」


 とは言うけど、水彩画の透明感が出せなくて、どうにも苦手としている。

 時間がないのならなおさら、慣れている油絵にしたいと思ったけれど、確かに乾かす時間を考えると間に合わない。


「……水彩画にチャレンジしてみる」

「お、その心意気!」


 まだ完全に立ち直った訳ではないけど、これを機会に違うことに挑戦してみるのもいいかもしれない。

 昨日はどん底だと思っていたけど、だからこそ、今、自分が上昇を始めているというのを実感できた。わたしひとりだと絶対にもっと長い間、落ち込んでいただろう。周りの人に助けられていることを知った。


 美術室に行くと、わたしたちが一番乗りだった。切り裂かれてしまったわたしの絵が乗っていたイーゼルは片付けられていて、それ以外はなにも変わっていなかった。なんだか胸がぎゅっと締め付けられる。

 決意はしたものの、やっぱりこの空間にいると辛い。

 今日はサッカー部の練習開始よりも早く来ていたので、外に目を向けてもまばらにしか人が見当たらない。

 クロッキー帳を片付けているところに行って今まで描いてきたすべて取り出そうとして、そこでも異変に気がついた。どれだけ探しても、わたしのクロッキー帳が見当たらないのだ。


「……巡」


 震える身体を抱きしめ、離れた場所で準備をしている巡の名前を呼ぶ。


「どうした?」


 あまりの出来事に、棚に身体を預けて、かろうじて立っていられる状態だ。


「わたしの……クロッキー帳が」


 声が震えている。

 巡は慌ててわたしの側に来て、椅子に座らせてくれた。そしてわたしの代わりに棚を探してくれている。


「……ないな」


 ここにクロッキー帳を片付けているのは一昨日、巡も見ている。


「くそっ」


 巡は声を荒げ、棚を叩く。わたしと巡しかいない美術室にその音が響く。反射的に身を縮める。


「……ごめん、驚かせた」


 大丈夫と首を振りたかったけど、出来なかった。

 巡は長めの前髪をつかみ、きつく目を閉じている。あまりにも険しい表情に、身動きが出来ない。

 とそこへ、わたしたちの横の窓がこつこつと叩かれた。顔を上げて外を見ると、そこにはなぜか土井先輩が立っていた。突然の出来事に頭に血が上る。顔が真っ赤になって、今のわたしはゆでだこみたいになっているような気がする。

 巡も顔を上げた。

 土井先輩は窓を開けるように鍵を指さしている。わたしは動揺していて、動くことができない。巡が鍵を開けてくれた。


「皆本、来たぞ」

「おはようございます、土井先輩。忙しい中、すみません」


 巡と土井先輩の会話に、いつの間にこの二人がこんなに親しい仲になっていたのかと驚く。


「今日は午前中はフリーなんだ。おい、皆本。おまえ、おれを呼んだ責任をとって今からやる練習試合に出ろ」

「えっ。やっ、オレ、足手まといに」

「ほー、知らないとでも思っているのか? いいから出ろ!」


 土井先輩の有無を言わせない言葉に巡はぶつぶつと文句を言いながらクロッキー帳がおさめられている棚から一冊取り出し、わたしに手渡してきた。


「これ、オレの。とりあえず、間に合わせになるけど、今日はこれを使えばいい」

「え、でも」

「いいから、受け取っておけ。おまえ、これからの出来事で絶対にクロッキー帳がほしくなるから」


 巡はいたずらっ子のような笑みをわたしに向ける。


「皆本、早くしろ!」

「はーい」


 巡は気の抜けた返事をして窓を閉めるとわたしに敬礼をして、美術室を出て行った。

 一人残されてしまったわたしは巡から渡されたクロッキー帳を呆然とみていた。

 閉じた窓越しからでも聞こえる、ホイッスル。

 すでに癖になってしまっているわたしは定位置に椅子を持ってきて、ぼんやりと外を眺める。

 いつもなら挨拶をして準備体操を始めるというのに、今日はなんだかいつもと様子が違う。

 フィールドの中央にサッカー部員が集まり、マネージャーがなにかを手渡している。見覚えのあるそれに、まさかという思いが駆け巡る。

 赤と青。

 あれは以前、練習試合の時に見たゼッケン。

 遠目からでも土井先輩と巡はしっかりと分かる。土井先輩はあの時と同じ赤。巡は青。巡はいつの間に着替えたのか、白いTシャツにハーフパンツ。靴もサッカーのスパイクというわけではないけどスニーカーだ。こうやって見ると巡は身長もあるしバランスの良い体格をしているみたいで見ごたえがある。デッサンの対象としてもなかなかいいのではないだろうか。

 わたしは思わず巡から借りたクロッキー帳を開き、鉛筆を走らせていた。

 巡と土井先輩が並んで立っている。なにかを話しているらしく二人とも笑顔だ。

 フィールドに広がり、準備体操が始まった。

 わたしは夢中で土井先輩と巡を描く。

 巡は本当にわたしのことがよく分かっている。

 準備体操が終わると、赤と青のゼッケンをつけた人たちがフィールドの真ん中に集まってくる。巡はわたしが見ているのが分かっているのか、こちらに向かって親指を立てて不敵な笑みを浮かべた。

 真ん中に顧問の先生。

 甲高いホイッスルが鳴り響き、試合が始まった。

 久しぶりにフィールドで見る土井先輩の動きは相変わらず美しかった。他の部員より明らかに群を抜いている。土井先輩にボールが渡ると、だれもカットすることが出来ないでいる。敵チームのフィールドの半分ほどドリブルして、待機しているフォワードにボールをキックする。ボールを受け取ったフォワードは少しだけドリブルをしてシュートを放つ。

 白と黒のボールは白いネットを揺らし、あっという間に赤チームは一点を先取した。

 巡を見ると悔しそうな表情をしている。負けず嫌いな巡はきっとそれで闘争心を激しく燃やされたのだろう。Tシャツの袖をめくり上げ、日に焼けていない白い肩をむき出しにしている。その表情が悪ガキのようでそこだけクローズアップしてクロッキー帳に描き込む。

 赤チームは土井先輩がいることで攻守のバランスがよいみたいで優位に立っている。きっと土井先輩の適切な指令が行き届き、みんなの動きがいいのだろう。

 一方の青チームは巡という想定外の人物が入ったことに戸惑っているようで、どうすればいいのか悩んでいるようだ。そのせいでみんなの動きがばらばらで今一つのようだ。

 それでも両者の力はそこそこ拮抗していて、ゲームスタート時に赤チームに一点を許して以来、ぎりぎりのところで攻防している。

 ゲーム時間の後半になり、巡の動きがいきなり良くなった。それまで遠慮があったのか、様子を見ていたのか。それは分からないけれど、赤チームが持っていたボールをカットして、そのままの勢いでドリブルを始めた。赤チームが巡のボールをカットしようと迫ってくるのだが、これがまた面白いように翻弄してかわしていく。巡はいつの間に練習をしたのだろうか。

 青チームのゴール前だったはずなのに、あっという間にフィールドの真ん中を抜け、赤チームのゴールの手前までやってきていた。そのままシュートをするのかと思ったら、少し前にいた同じチームのフォワードにパスをした。その人は受け取ると素早くシュートをした。

 赤チームのゴールキーパーが腕を伸ばす。ボールに触れそうになりながら腕の間を通り過ぎ、白いネットを揺らした。


「やった!」


 わたしは思わず、小さくつぶやく。

 これで一対一になった。

 フィールドの真ん中あたりに立っている土井先輩は悔しそうな表情を浮かべている。

 そこで試合時間は残り五分くらい。これで勝負がつかなければPK戦になるのだろう。そこまで持ち込んだ巡ってすごい。

 どちらも負けていられないと思ったようで、青チームはさっきまでのぎこちなさはどこへ行ったのやら、連携が取れだしたようで展開が読めなくなってきた。青チームはやはり土井先輩をマークしているようで思うように動けていない。一方、巡はというと、やはり赤チームにしっかりとマークされてしまったようだ。

 お互いが譲り合わないせめぎ合いが続き、残り一分が見えた頃。土井先輩が動いた。

 近くにボールが来たのを知った土井先輩はガードしている青チームをあっという間に翻弄して抜き去り、ボールをカットした。それを見て巡もあっさりとガードを外し、土井先輩に迫る。巡は土井先輩のドリブルをカットするためにスライディングをしたが、あっさりとかわされる。それでもすぐに立ち上がり、土井先輩を追いかける。

 二人は並んで走り、巡が少し土井先輩を追い越した。

 しかし。

 土井先輩はそこで強くキックをして、ゴール前に待機しているフォワードに渡す。そのままシュートされ……見事ゴールキーパーを抜き去り、ゴールの中に吸い込まれた。

 そしてそこで、無情にも終了のホイッスルが鳴り響いた。

 ──すごい。

 わたしは今の光景を忘れないうちにとクロッキー帳に鉛筆を走らせる。

 巡が土井先輩のドリブルを遮るためにスライディングした場面。

 カットできなかった時の悔しそうな表情。

 土井先輩を追いかける姿。

 並んだ時の表情。

 抜き去った時の二人の表情。

 土井先輩がキックしたときの動き。得意げな表情。

 どれもこれも素晴らしくて、無我夢中で描き込んだ。

 そして気がついたら──巡から借りているにもかかわらず、クロッキー帳全部を使い切ってしまった。

 そこでようやく、冷静になった。


「あ……」


 借りておきながら夢中になりすぎた。


「奏乃、いい絵が描けたか?」


 首からタオルをさげた巡が声を掛けてきた。


「巡……そのっ」


 わたしの手の下にあるクロッキー帳を素早く抜き取り、巡は目を細めてぱらぱらとめくっている。


「おっ、すごいじゃん。これだけ描いてくれたら、オレ、頑張った甲斐があるな」

「あの……ごめんね、巡。借りておきながら、その、使い切って」


 謝罪の言葉に巡は驚いたように目を見開き、わたしの顔をのぞき込む。


「なにを言ってるんだ。むしろ、描いてなかったら怒るところだ。オレさま自らが身体を張ったのに奏乃が絵に残してくれなかったら努力が水の泡だろう!」


 それが巡流の慰め方だと知り、涙が出そうになった。それを悟られたくなくて、わたしは顔を逸らす。


「じゃあまた、巡のクロッキー帳を全部、使い切ってやるんだから」

「おー。そうしてくれ。奏乃、おまえは絵を描いているときが一番、楽しそうだ」


 昨日はもう、絵を二度と描きたくないとまで思ったのに、巡はそんなことを言ってくれる。

 お礼を言いたかったけど、激しく照れくさくてなにも言えなくなる。


「昼を食べたら、どれにするか決めよう」

「……うん」


 さー、飯だ! と言いながら巡はクロッキー帳をわたしに渡してきた。ありがたく受け取り、胸に抱える。

 巡は本当にいつも、こうやってさりげなくわたしを助けてくれる。

 それがどうしてだなんて、そのときのわたしは考えも及ばなかった。

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