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想いは言葉に乗せて  作者: 倉永さな
【本編】

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2/14

二*ラブレターとアントニオ

 それからのわたしは、特に土井先輩と接近する機会はなくて、遠くから見つめるだけだった。そういう子はわたしだけではなくて結構いるから、別にわたしが特殊だとかおかしいってことはない。

 ただ、遠くから眺めているだけで幸せだった。

 でもそうは思ってはいても、少しでも仲良くなりたいと心の片隅で願ってはいた。

 きっかけがあればいいのに。

 わたしはただ、そう願うだけでなにか行動に移そうとしてなかった。


     **:**:**


「下瀬さん!」


 放課後。わたしはいつものように美術室に向かおうとしたところ、声を掛けられた。


「呼んだ?」


 振り返ると秋崎真希あきさき まきが立っていた。特に仲がいいわけでもなく、悪いわけでもない。クラスメイト、という言葉が表している関係でしかない相手だ。

 秋崎さんは焦げ茶色のふわふわの髪の毛を揺らしながらわたしを追いかけてきた。教室の入口で立ち止まり、思わず首をかしげて秋崎さんを見る。


「ねえ、下瀬さんって二年の皆本先輩と仲がいいって聞いたんだけど、ほんと?」


 皆本先輩、と言われてしばらくの間、それがだれか分からなかった。だれだっけと悩み、それが巡の苗字だと至ったのは、たっぷりと十秒はかかっていたと思う。


「ああ、巡のことか!」

「めぐ……。名前を呼び捨てにしてるってことは、相当仲がいいんだっ。もしかして、下瀬さんの彼氏って皆本先輩?」


 彼氏? だれが?? 巡がわたしの彼氏?


「……へ? わたし、彼氏はいないよっ」


 たまーにこうやって勘違いされるんだけど、巡とわたしは先輩後輩というだけの間柄だ。

 巡が高校に入学して学校が別々になっていた去年一年間、まったく連絡を取り合わなかったのだ。もしも彼氏・彼女という仲でそれだったらおかしすぎるだろう。


 巡の家とわたしの家は徒歩一分の距離という近さで、中学校は同じ学区だったから一緒だった。高校は学区という概念はあったけれどそれはあくまでも目安でそこに行かなくてはいけないということはなかった。けど、わざわざ遠くの高校に行くだけの理由がなかったから一番近くの高校にしたというだけでここにやってきた。

 巡は中学の時から頭が良かったから私立に行くと思っていたのに、なぜかここに入学した。どうしてと理由を聞いたら、家庭の理由と、尊敬する美術の先生がいるからって言っていた。中学の時も確かに同じく美術部ではあったけど、そんなに熱心に部活動をしていなかったからなにか引っかかりを覚えつつも、そうなんだ、わたしも千川原に受かったら美術部に入ろうなんて話をしたのは覚えている。そして無事、千川原高校に入学して美術部に行くと巡がいたのだ。




 巡との出会いは、中学校の美術室でだった。

 わたしは昔から絵を描くことが好きだったので中学に入ったら美術部と決めていて、すぐに入部した。わたしが入った時は三年生の先輩が数人いるだけで二年生はいなくて、一年生はわたしだけ。わたしが入部した時、先輩たちに激しく感謝をされた。なんでも、わたしが入部しなかったら、美術部は廃部になっていたというのだ。とそこへ、なぜか二年生の巡が入部してきた。わたしは中学に入学したばかりで知らなかったのだが、巡は有名人だった。

 存続が危惧されていた美術部であったが、巡が入ったことでその後、美術部は入部希望者が殺到した。毎日、入部希望者の対応をしなくてはならない羽目に遭い、しかし、入部したばかりのわたしはなにをすればいいのか分からなくて教室の片隅で身を小さくして見ていることしか出来なかった。こんなに人がやってくるのはわたしの後から入ってきた『皆本先輩』のせいというのは明らかで、美術部の活動ができなくて迷惑だなと恨めしい気持ちで巡をにらんだ。視線に気がついた巡は教室の隅にいるわたしのところにやってきて、話しかけてきた。


『どうしてそんなところにいるんだ』


 と。

 たぶん、それが巡と最初にした会話だ。


『わたし、入ったばかりで美術部の活動内容を知らなくて、だけど先輩たちは入部希望者をさばくのに手一杯だから聞くに聞けなくて……』


 巡は困ったような表情を浮かべ、入部の受付をしている先輩を少しの間見て、近寄った。


『おまえらさ、オレを追いかけて入部とか、どんだけ金魚の糞なんだよ。少しはこいつらの迷惑ってのを考えろよ』


 巡の傲慢としか聞こえない言葉に美術室は静かになる。


『なんでよ! なんでよりによって、美術部なのよ』


 その声に美術部の扱いはそんなものなんだ、とがっかりする。


『オレはゲージツってヤツに目覚めたんだ。……そうだ、いいことを思いついた!』


 巡は大げさに手を叩き、入部希望者たちに笑みを向ける。


『毎日、殺到してきておまえたちの相手にクラブ活動に支障を来しているんだ。だから、本当に美術部に入りたいヤツだけ来い』

『えー! あたしだって、本当に入りたくてぇ』


 見え透いた嘘に巡はため息を吐く。


『おまえたちが本当に入りたいという気持ちがあるのはよーっく分かった。だったら、だ』


 こちらも見え透いた嘘に対して、嘘の答え。茶番だななんて醒めた目で見ていた。


『入部試験をする』

『入部試験?』


 巡の突然の提案に全員が声を上げる。


『本当に美術部に入りたいかどうか、オレがテストをしてやる。なんでもいいから百枚、デッサンして持ってこい』

『は? なにそれ?』

『絵が好きなら、それくらいなんてこたないだろ?』


 巡のむちゃくちゃな試験内容に希望者たちはブーイング。


『うっさい。いいか、デッサン百枚。持ってきたヤツだけ、入部を許可する』


 巡の言葉に文句を言いながらも、希望者たちは全員、去って行った。どうやら全員、入部を諦めたらしい。


『よっし。これで活動ができるだろう?』


 自慢げに胸を張る巡に、わたしは心底、呆れてしまった。

 こんな感じで巡は突然、わたしの前に現れて、穏やかな生活をかき乱した。

 顧問の先生はあまりやる気がなくて満足な指導はしてもらえなかったけど、それでも美術部は楽しかった。

 巡はというと、わたしが部室にいる間は絵を描くことはしないで宿題をしたり予習をして、わたしが帰ろうとしたらなぜかついてきた。それは巡が中学を卒業するまで、続いたのだ。

 そして、そもそもの騒動の原因を知ったのは、巡が卒業してからだった。どこの部が巡を獲得するのか──そんな戦いが繰り広げられていたらしい。




「ということは、皆本先輩、やっぱりフリーなんだ!」


 秋崎さんの声にわたしは現実に戻ってきた。


「彼女がいるって話を聞かないから、いないんじゃないかなぁ」

「じゃあ、お願いがあるの」


 秋崎さんはそう言うと、少し照れくさそうにしながらピンク色の封筒を懐から取り出した。


「あのね、皆本先輩と仲がいいみたいだから、そのぉ」


 中学の時から繰り返された、お願い事。


「巡に渡せばいいのね?」

「そう! 話が早くて、助かる!」


 これで何度目だろう。


「渡すけど、期待しないでね」

「うん、渡してくれるだけでもうれしいの!」


 積極的な言葉に胸が痛む。

 巡がこの手紙をどう扱うのか知っている身としては、申し訳なさ過ぎて苦しい。せめて中身を読んで、本人にきちんとお断りをすればいいのにといつも思う。


「それでは、お預かりします」


 わたしはこぼれそうになるため息を飲み込み、受け取った手紙をポケットにしまう。


「ありがとう!」


 すがすがしい笑顔が何日か後に曇ることを知っているから、秋崎さんのその表情はまぶしすぎる。

 重たい足取りで美術部に向かう。


「お、奏乃。今日は遅かったな」


 珍しく巡の方が早かった。だれのせいでこんなに気持ちが重いと思ってるんだっ! という言葉を飲み込み、無言で秋崎さんから預かった手紙を渡す。


「なに? 奏乃からのラブレター?」


 にやけた笑顔にどうしてこんな人がもてるのだろう、なんて思ってしまう。

 意地悪でオレさまのどこがいいんだろう。わたしにはさっぱり分からない。


「違うわよ。巡に渡して欲しいって頼まれたの」


 巡は明らかにがっかりとした表情をわたしに向けた。


「おまえさ、オレがこれをどうするのか知っていて、馬鹿正直に受け取って持ってくるんだ」

「だって。渡してほしいってお願いされたし……渡してくれるだけでうれしいなんて言われたら、断れないじゃん」


 巡はクロッキー帳を机に置くと立ち上がり、後ろへと向かう。


「ちょっと! 読みもしないわけ?」

「読んだって仕方がないだろ。オレはこの手紙を書いたヤツのことは知らないし、それに、自分の手で渡しにこないようなヤツの書いたものを読む義務はない」


 巡はごみ箱の前に立ち、躊躇することなく破いていく。丸っこい文字で書かれた『皆本先輩へ』の文字がちりぢりになるのが胸に痛い。


「自分の気持ちを人に託すなんて、オレはそれだけでお断りだね」

「どうしてよ! 一生懸命手紙を書いたんだろうし、わたしを信頼して手紙を託してくれたのに」

「じゃあ、どうすればいい? 人に手紙を託すような女を呼び出して『オレには好きな人がいるんだ』って伝えればいいのか?」


 巡ははっとした表情をして、次にはバツの悪い顔をしてわたしから視線を逸らす。


「……今のは、聞かなかったこ──」

「え? 巡って好きな人がいるのっ」

「おまっ。声、大きいって!」


 巡は慌ててわたしの側に来ると、大きな手でわたしの口をふさぐ。そして周りを見回す。美術室内はわたしと巡しかいなかった。


「ねっ、巡っ」


 口をふさがれたまま、巡を見上げて口を開く。


「彼女がいないのって、もしかしてっ」


 不思議に思っていたのだ。巡はとにかく、もてる。

 茶色かかった柔らかそうな少し長めの髪、焦げ茶色の瞳。クールな見た目を際立てる黒の細めのフレーム。

 まあね、ひいき目に見ていい男、ではある。頭もいいし、どうやら運動神経もいいらしい。

 だけど……意地は悪いし、オレさまだしっ。告白してくる子に対していっつも無理難題をふっかけて……。

 あれ? これってなにかに似てるんだよね。


「かーのっ。またトリップしない!」


 巡の一言に、そうだと思い出す。


「そそそそ、そーだ! 巡、なになにっ。今まで、だれとも付き合ってないのって、好きな人がいるから、なのっ?」


 わたしの質問に、巡は渋い表情になる。


「オレはおまえと違ってデリケートなの。『土井先輩、かっこいー!』『ステキーっ!』なんてミーハーなこと、出来ないんだよ」


 なんだかはぐらかされたような気がするけど、要するに。


「うわぁ、こんなに傲岸不遜な巡が片想いぃ?」


 あり得ない! このオレさまな男が乙女チックに片想いだなんて!


「信じらんない! 巡なんてオレさまだから、『オレのことが好きなんだろ? 付き合えよ』くらい言って、口説き落としてそうなのに!」

「なんだ、そのよく分からないオレ像。オレはそんなにひどいヤツじゃないぞ」

「えー。うそうそ。言い寄って来る子には無理難題押しつけるし、わたしにはすっごく意地悪だし。それに、オレさまじゃん。あ、そうか。かぐや姫に似てるんだ! 『わたくしと結婚したいのなら、宝玉を持って来なさい』なんて、あー、似てる似てる!」

「おまえな……。男をかぐや姫に見立てて、どうするんだ」

「巡・かぐや姫説。うっわー、それなら納得!」


 かぐや姫とはしゃいでいると、巡はわたしの頭をはたいてきた。


「もー。なにすんのよっ」

「オレがかぐや姫でもなんでもいいけど、今のはだれにも言うなよっ」

「好きな人がいるって話?」

「そうだよ。……恥ずかしいだろっ」


 そういった巡は耳まで真っ赤になっている。そんな姿、初めて見た。

 うわー。今日はなんていい日なんだ!


「だけどさ」


 もうちょっとからかってやろうかと思ったけど、あんまりにも巡が恥ずかしそうにしているからかわいそうになって、疑問に思ったことを口にした。


「想いは、言葉にしないと伝わらないよね?」

「おまえが言うかっ!」

「わたしはね、見てるだけで幸せなのっ」


 うふふ、と笑ってクロッキー帳を取りに行く。


「さーってと、今日も土井先輩を描くかなぁ」


 夏休みに入る前に運動部の三年生は引退する。文化部は部による。美術部は卒業前まで三年生が在籍するようだ。

 だからそれまでに一枚でも多く、土井先輩を描くことにした。


「見てるだけで幸せ──ね」


 ぼそりとつぶやく巡の声が聞こえたけど、わたしはそれに対して、返事はしなかった。


     **:**:**


 今日も日課になっている土井先輩のデッサン。

 巡には外に出て近くで描けと言われていたけど、結局、お手軽に美術室の中からやっていた。

 サッカー部の練習は美術部と違っていつも同じ時間から始まっていた。わたしが美術室に訪れる時間は特に決まってなくて、サッカー部が柔軟体操をしているところか、終わってフィールドを整備しているところのタイミングで部室入りをしていた。ゆっくりとクロッキー帳を用意してしばらく練習風景を眺めるのが常だ。

 シュート練習が始まる頃、わたしはクロッキー帳を開き、土井先輩をデッサンする。


「よ、奏乃」


 わたしがデッサンを始める頃、巡は美術室にやってくる。そしてわたしの肩越しにひょいと描きかけのデッサンをのぞく。

 いつもならなにも言わないで準備を始めるのに、今日はなにか気になることがあったのか、声を掛けてきた。


「なあ、奏乃。土井先輩のフォーム、いつもそれか?」


 その質問に、ほぼ描き終わっていたデッサンから鉛筆を外し、少し離れてみる。


「……んー? 言われてみたら、たまーにこんなフォーム、してるなぁ。どうしたの?」

「そっか。……いや、なんでもない」


 巡は意味深なことだけ残して、わたしから遠ざかる。

 気になったけど、デッサンを完成させるのが先決だ。鉛筆をにぎり直して、仕上げに取りかかる。

 完成したデッサンを眺め、巡はなにが気になったのかを考えたけど、答えは分からなかった。


 それから、土井先輩は高校生活最後の試合に出場して、見事、優勝したという。

 わたしは試合を見に行かなかったけど、学校に行ったらそのことで持ちきりだった。


「よかったな、奏乃」


 と巡も喜んでくれている。


「うん!」


 なんだか自分のこと以上にうれしい。

 だけどそれは、土井先輩があのフィールドに立つことはもうないということを意味して……うれしさよりも淋しさの方が強い。


「土井先輩のデッサン、終わりかぁ」

「別の物を見つければいいじゃないか」

「うん、そうだね」


 なんだか気が抜けてしまった。

 わたしはそれから一週間くらい、美術部に行く気になれなかった。授業が終わったら、まっすぐに家に帰る。そして巡はなぜか律儀にわたしと一緒に帰ってくれた。

 その間、美術部のことは一言も触れない。だけどそれ以外はいつものようにわたしをからかっていた。

 それを見て、いつまでも落ち込んでいる訳にはいかないという気になれてきたのだから、不思議だ。


「巡、月曜日から美術部に出るね」


 金曜日の帰り道、わたしは前をまっすぐに見つめ、言葉にした。


「あぁ」


 そう言って、わたしの頭を優しくなでてくれた。

 たまにそうやってくれる優しさに、巡の真意はどこにあるのか分からなくなる。


「とりあえず、イケメン石膏像のデッサンでもしようぜ」


 わたしがずっとデッサンの対象を探しているのを知っていたかのような言葉に、思わず吹き出す。


「いつまでも石膏像をデッサンしていたって、上達しないじゃん」

「上達しているのかしていないのかをはかるのに、あいつほど適任者はいないだろ」

「あいつって……」

「アントニオって名前なんだぜ、二世紀頃のギリシア生まれでな」

「へー」


 あの石膏像、そんなに古いんだ、なんて感心していたら……。


「嘘に決まってるだろ。オレが今、考えた口から出任せ」

「なっ!」

「でもさ、あいつの顔、アントニオって感じだろ?」

「アントニオぉ?」


 石膏像の顔を思い出そうとするけど、なぜか線で陰影がついたぼんやりとしたものしか思い出せない。


「うーん……」

「あいつにゼウスだとかアポロンなんてギリシア神話に出てくる神さまの名前は過ぎるだろ?」


 そう言われたら、確かにそうだけど……。


「あれはモブキャラだから、アントニオでいいんだよ」

「……もぶきゃら?」

「ようするに、雑魚キャラ」

「ざっ……!」


 石膏像に対して雑魚だなんて、ひどいいいようだ。


「あいつは四天王の足下にも及ばないんだよ」

「四天王って……」

「アントニオなんて、どこの学校にもいるようなヤツじゃないか。四天王ってのはだな、校門を入ってすぐに置いてある創業者の胸像だとか」

「そんなの、うちの高校にないじゃん」

「……言われてみれば。となると、うちの高校にはモブしかいないってことかっ!」

 ……あまりにも馬鹿すぎて、相手をするのも疲れた。


 ちょうど、わたしの住んでいるマンションが見えてきた。


「じゃ、巡。月曜日にね」

「ああ、月曜日。宿題、きちんとしろよ! 寝る前に歯を磨けよ!」

「あのね……子どもじゃないんだから」

「おまえ、知らないのか? 伝説のドリフターズ」

「なにそれ?」

「ドリフターズってのはだな」

「もーいい! 分かったから」

「いーや! 分かってない!」


 巡はやっぱり、いつもの調子でわたしは心底、呆れていた。

 よくもまあ、次から次へとでたらめがこれだけ出てくるもんだと違う意味で感心していた。


「じゃあね」


 わたしはいつものようにエントランスで手を振り、巡と別れる。


「じゃあな」


 巡もうっすらと笑みを浮かべ、わたしがマンションに入るのを見届けてから、歩き始める。

 穏やかな日々。


     **:**:**


 月曜日、美術室に行くと巡は先に来ていてアントニオと言っていた石膏像になにかしている。


「巡?」


 わたしが声をかけたら巡は驚いたのか、少し飛び上がっていた。


「なに、してたの?」


 いぶかしく思い、巡に近寄る。


「しっ。こいつに名前を彫ってたんだ」


 というように、巡の手には彫刻刀が握られている。


「こらっ。そこの二人! なにをしてるの?」


 その声に、わたしたち二人は飛び上がる。


「えっ、いや……そのぉ」


 美術室の入口に顧問でもあり美術の先生でもある篠原友里しのはら ゆりが立っていた。


「皆本くんと下瀬さん」

「……はい」


 巡がここの高校に入学するきっかけとなったと語っていた篠原先生は若いけど実力のある人らしく、色々と忙しい人で滅多にクラブ活動には顔を出さない。それでも、週に一度は顔を出してくれている。今日がその日だったのをすっかり忘れていた。

 篠原先生は石膏像の前に立っているわたしたちのところにやってきて、巡が持っている彫刻刀にすぐ気がつき、石膏像に視線を向ける。石膏像の端に小さく巡はなにかを掘っていたらしい。


「アントニオ……。なにこれ、この石膏像に名前をつけてくれたの?」


 篠原先生は無表情で巡を見ている。なにを思っているのか読めない。


「あー、その。こいつが『オレ、アントニオ。よろしくな』って言っていたから」


 先生相手でも巡は相変わらず訳の分からないことを言っている。あきれかえって、わたしはなにも言えない。

 わたしたちの間に沈黙が落ちる。

 伺うように篠原先生の顔を見ると、赤くなっている。

 怒られる──と思った瞬間。


「ぶはははっ。皆本くん、なかなかいいセンスをしてるじゃない」


 篠原先生は真っ赤な顔でお腹を抱えて笑っている。


「おっ、オレが考えたんじゃなくてこいつがっ」

「はははっ、分かった、分かった。この子はアントニオって名前なのね」

「そーです、アントニオ。二世紀にギリシアで生まれた」

「あはは、了解。アントニオね」


 篠原先生は目に涙まで浮かべて笑っている。

 てっきり、怒られると思っていたのに笑って認めるなんて、面白い先生だ。


「まー、今回は見逃すけど、学校の備品に傷をつけちゃったら器物破損で最悪な場合は退学にさせられちゃうから、もうやらないのよ」

「はーい」


 巡は手を上げて、素直に返事をしている。

 篠原先生はくすくすと笑いながら、準備室へと歩いて行く。


「もー、巡ったら」

「いや……後世にアントニオの名前を伝えようと思って」


 巡は「アントニオ」と掘った文字を見直し、削って出てきた粉をはたいてから彫刻刀を片付け始めた。

「今日はアントニオのデッサンをしようぜ」

 巡はわたしのクロッキー帳も出してきてくれた。

 デッサンの対象が次に見つかるまで、しばらくアントニオを描こう。わたしはそう思い、素直にクロッキー帳を受け取った。

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