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対話  作者: 白熊猫犬
9/11

カトウとヤマダ

 立て付けの悪い窓からすきま風が吹き荒び、暖房器具のないヤマダの部屋でカトウはぷるぷると震えた。もう秋も深まってきたというのに、自称二十五歳のヤマダは着流しの格好で、至って平気そうに酒を飲んでいた。カトウは、これは本当に存在しているものなのだろうか、と思った。現実感は遠く、幻の類いか狐に化かされていると言われたほうがずっと信じられたかもしれない。

「なんじゃ、お前さんも飲まんか」

「はっ、はい。いえ、大丈夫です。その、悪酔いしてしまうので」

「ふん、張り合いのない奴じゃのう。そんなんじゃ儂のようにはなれんぞ」

「はあ……」

「今、そんなものにはなりたくない、と考えたじゃろう。そして今、そんなことはないと否定しようと思ったじゃろう。よいよい、儂に知らぬことはないから、そう身構えても無駄である。足を崩して、気を楽にせい」

「はあ、では、お言葉に甘えて」


 水の様に冷酒を飲むヤマダを見ながら、カトウは現状の把握に努めた。この禿げた爺様の如き男はどうやら大学生らしく、そしてエトウ先輩とかつて同回生であったにもかかわらずいまだ学部に所属し、自分と同じ「男子部」の一員でありながらろくに姿を見せることはなく、見せたところで自分も含めほぼ全員が彼から離れて怯えるに終始するような、そんな人間である。そして、今そんな男の住居にお邪魔して一対一で向かい合っている。

 つまり、ピンチと呼ぶべき現状であることを、カトウは把握した。

「祭の首尾はどうであった」

「はい、それなりに裸体を曝しました。ぼちぼちの来客と多少の文句とまあまあな自己満足的達成感とで、程々の充実ぶりだったと思います」

「そうかそうか、儂も本来ならともにこの布切れを脱いで然るべきところだが、ほれ、儂はそういう表舞台は好かんでの。聞いた話では、お前さんが先導して執り行われたそうじゃの」

「先導とは烏滸がましい話ですが、企画案を出した責任もあり、僭越ながら今回の祭のため、微力ではありましたが尽力させていただきました」

「うむ、七色ふんどしとは、流石はエトウの見込んだ男じゃの。なかなかに下劣でハイカラな発想であった。奴も鼻が高かろう」

「有り難う御座います」


 カトウはこの邂逅の意図を掴めないでいた。ヤマダが単にサークルの話をするために呼んだとは思えず、かといって他にどんな用件があるとも思えなかった。角度によっては即身仏にも見えるヤマダが、如何なるものに興味を示すのか。カトウは見当もつかなかった。

「あのう、ヤマダさん。僕はエトウ先輩に言われてここに来ました。それは、いついつにどこどこに来い、という漠然とした内容で、つまりですね」

「つまり、呼ばれた理由がわからぬと、そう言いたいんじゃな」

「有り体に言ってしまえば、そうです」

「なに、そう怯えなくともよい。儂がエトウに頼んだんじゃ。お前さんと、ちと話をしたくなっての」

「はあ、まあ、そう言うことなら。で、そのお話とは、学祭のことなのでしょうか」

「いんや、あれはただの前置きに過ぎん。ここからが本題じゃの。お前さん、女にもてんじゃろう。そして愚かにも、女にもてたいと念じているじゃろう」

「わかりますか」

「わかる、そういう人種は大抵わかる。女に飢えながら意気地のない顔をして、脂ぎった欲望を全身から発せられて、挙動不審にまごまごとしているから、よおくわかる。エトウもお前さんも、実に模範的なもてない男じゃ」

「それは、なかなか自分では気付けませんでした」

「しかもお前さんは、無謀にもある女人に己の滾る欲望を押し付けんと、躍起になっておるな」

「なんと、僕はそんなにもわかりやすいですか。どこに出てますか、顔ですか」

「全身から溢れ出とる。男むさい願望が滲み出とるから、儂にはぜえんぶ、お見通しじゃわ」

「それはそれは、お恥ずかしいものをお見せしてしまいました」

「で、お前さんはどうするつもりじゃ」

「どうする、とはどういう意味でしょうか」

「その女人と、いつまで経っても世間話しか出来ず、何の進展もない、何の進歩のない毎日を、どうするつもりじゃと聞いておる」

「それは……そんなことまでわかるのですね。しかし、そもそもの発端は、僕が女というものに対してあんまりにも免疫が無いものだから、少しずつ慣れていこうということだったのです。だから現状を維持することはなんら間違っていない、言わば治療の継続と捉えていただけたら、と」

「お前さんはエトウよりも馬鹿で、浅ましい人間じゃの。そうやって予防線を張ってばかりで、ろくに行動も出来ずにおる。それはつまり大馬鹿者だの」

「しかし、半年前の僕では女とまともに話すことすら叶わない人間でした。それを鑑みれば、これは十分な進化と言えるのではないでしょうか」

「言えぬ」

「そんなあ」

「井の中の蛙という言葉があろう、お前さんは井戸の中にいてちょっと跳びはね、井戸水を脱したと粋がっとるだけじゃ。実際は井の中のぬるま湯に浸っておるのに、じゃ。それに加えて、お前さんは大海があると知って、よし、己は大海を知っているから大丈夫だ、ずっと進化した蛙だと嘯いて、己自身を騙くらかしておる。だから大馬鹿者なのじゃ」


 ヤマダな言葉が石のように投じられて、カトウの心に波紋を作った。果たして井の中の蛙のままはしゃいでいただろうか。大海を知っただけで満足しただろうか。イガラシさんと世間話が出来るようになっただけで、それで何かを達成したと言い訳していたのだろうか。

「カトウと言ったな、お前さんはどうする、大海に出てむざむざと息絶えるか、それとも安寧の井戸にいて臭い臭いと喚きながら踊るか」

「僕は……僕は、大海に出て、尚生きたいと、そう願っています。そうですとも。イガラシさんと一緒に大海に出て優雅に泳いだり、何なら浜辺で追いかけっこをしたり、そういう輝かしい人生を生きたいのです」

「うむ、漸く井戸の外に目をやったようじゃの」

「はい、僕はもう迷いません。現状に甘んじてなあなあの人生を選びはしない」

「うむ、うむ」

「そうだ、えいっと勇気を出して、充実したキャンパスライフとやらに飛び込むんだ」

「うむ、うむ」

「イガラシさんに会って、言うんだ。どうか僕の手を取って、共に歩いていきましょうと」

「やめておくがよかろう、お前さんでは瞬く間に踏み潰されて干からびるのが関の山じゃ」

「……何故そこで出端を挫くようなことを言うのですか」


 ヤマダは自分の腿を叩きながら、かっかっか、と笑った。その声と表情は、カトウを戦かせた。仏と貧乏神のハーフ、確かにこの男は何か、触れてはならぬ、近寄ってはならぬ、そんなものに思えて仕方なかった。

 ヤマダはコップに入った冷酒を一口に飲んでしまうと、ぐふう、とげっぷをした。

「かっかっか、やめておけやめておけ。お前さんは男むさいところで延々踊っておる方がよっぽど似合っておるよ」

「さっきまで散々煽っておきながら、何故そのようなことを仰るのですか。僕が頑張ってふんと力を入れた途端に突き放すような仕打ちを」

「お前さんがどんな願望を持ち、どんな未来を夢想しても構わんが、相手のことを考えないというのは典型的な馬鹿の思考じゃの。しかも人におだてられてほいほいと乗せられるのじゃから、一層馬鹿じゃの」

「乗せられたわけじゃありません。僕の中で燻っていた欲望が、ヤマダさんの言葉を起爆剤にして発露したのです。それにイガラシさんにだけは不快な思いはさせまいと常々考えております」

「お前さんはなあんもわかっとらんの。そのイガラシという名の女人の立場になってみよ。さして好意も持たぬ、時折話し掛けられては雑談を交わす男むさい人間から言い寄られて、どう思うじゃろう。気を使って自らの人生を棒に振る覚悟でその想いに応えるのか?それとも懇切丁寧に断りを入れるのか?どちらにせよ、イガラシ女史には心憂いものであろう」

「なんでそんな、僕が好かれていないことが前提で話を進めるのですか」

「当然、お前さんを快く思う人間は男むさいところにいて踊るだけの資質を持った者か、博愛主義者か、そのどちらかに分類されるからじゃ」

「違う!僕を、こんな僕でも愛してくれる人が、そんなアブノーマルでずれた人が、きっといるはずだ。イガラシさんだって、もしかしたら物凄い男の趣味が悪いかも知れない。そうとも、そうですとも。可能性はゼロではない」

「零でないからと追いかけるのは愚の骨頂、その僅かな、奇跡と呼ぶべき可能性に賭けて相手を傷付ける行為は、愛情ではない。この世で最も忌避すべき感情である、我欲と呼ばれるものじゃ」

「我欲の何が悪い!人は元来我が儘で貪欲な生物だ、それは生きるための原動力だ!僕は生きている、だから我が儘にもなる、だから貪欲にイガラシさんを求める!これは愛にして我欲!そうとも、僕はその愛という名の欲望に従うぞ!」


 古いアパートの一室、ヤマダの部屋で叫ぶカトウ。薄い壁の向こうまで響くほどの大声をあげて自らの思いの丈を叫ぶカトウ。カトウは目の前のコップを手に取ると、それがヤマダのものであることも忘れてぐいっとやった。それは火照った体に心地よく流れ込み、喉と胃と頭をほんの一瞬だけ冷やした後、全身をほんのり温めた。

「かっかっか、なかなかに威勢が良くて面白い主張であった。うむ、天晴れである」

「失礼しました、つい熱くなってしまい、無礼を働きました」

「なに、そんなことは一向に構わぬ。それよりも一つ、聞きたいことがある」

「何でしょう」

「お前さんは、その女人のどこに惚れたのじゃ。そのイガラシ女史の何が、お前さんをそうも突き動かすのじゃ」

「はい、イガラシさんは、柔らかくてふわふわした、思わず手を差しのべたくなるような、少しばかりおどおどして、けれど一本芯の通った、ふわりと柑橘系の香りのするような、決していやらしすぎず、ガードが固すぎず、恥じらいと穏やかさを持った、そんな人です。僕は彼女のそんなところに惚れました」

「ほう、成る程、成る程の。お前さん、それは本心か?」

「え、ええ、そのはずです」

「はず、と言うことはまだ何か取り繕っておる証左じゃ。言うがよい、もっと単純で純粋な、お前さんの一番深いところにあるものを」

「そ、それは……」

「無いか、どうじゃ」

「いや、その、あるような、ないような」

「何を迷っておる、お前さん自身のことじゃぞ、わからぬ道理は無かろう。よおく考えてみよ、己の一番底にある、原始の感情を」

「そう、そうです。僕はイガラシさんの、ふわふわした外見に惚れたのではない。一本筋の通った内面に惚れたわけでも、匂いに惚れたわけでも、況してや貞操観念に惚れたわけでもない。そう、そうなんだ」

「うむ、うむ」

「僕は、そうだ、イガラシさんは僕に話し掛けてくれた。実験中で、それは必要なことだった。けれど、とても穏やかに話し掛けてくれたんだ。僕は嬉しかった。それに、初めて話したのに、僕の話を、なるべくゆっくりと、うんうんと頷きながら、ちゃんと聞いてくれた。あの時、僕は惚れたのだ。あの瞬間、僕はもう惚れてしまっていたのだ」


 カトウが持参した瓶の中には、もう酒は残っていなかった。ヤマダは瓶を振って中身の無いことを確認すると、煙草を一つ咥えて燐寸で火を付けた。吐いた白い煙がぷかりと浮いて、すきま風に吹かれて、すう、と流れて消えた。カトウは項垂れたままでいたから、その煙は視界に入らなかった。

「僕はどれだけ単純で馬鹿なんだ。話をしただけで、話し掛けられただけで好きになってしまうなんて。シバタの言った通りじゃないか。他の皆の言った通りじゃないか。僕は馬鹿だったんだ」

「うむ、それに気付けば、少しは馬鹿でなくなったの。それで、どうするつもりじゃ」

「はい、僕はやっぱり、イガラシさんとちゃんと話をしようと思います。出来るだけあの人を傷付けないように、けれど自分の感情をきちんと伝えようと思います」

「ん、まあ、精々他人の迷惑にならない範囲で我が儘になるがよい。お前さんの言う通り、生きると言うことは自分の感情を持つと言うことじゃからの」

「はい」

 カトウはヤマダの部屋の前で、ヤマダに一礼をした。もう随分と冬の近い夕方で、アパートの廊下は西日を受けて橙に染まっていた。

「今日は、有り難う御座いました」

「何、儂も酒が飲めて上々であった」

「もしや、ヤマダさんは僕のために今日のこの機会を設けてくれたのですか」

「いんや、全然違う。そんな思惑は微塵も無かったからの」

「なんと。では何故」

「エトウに良く似た、しかもエトウより馬鹿な後輩がいると聞いて、是非その馬鹿っぷりを堪能しようと思っただけじゃ。まあ酒の肴には丁度良い馬鹿者であった」

「成る程、あんまりにも酷い理由です」

 ヤマダはかんらかんらと笑った。その姿が、カトウの目には一瞬好好爺のように映った。カトウもつられて笑い、そして丁寧に礼をして階段に向かった。

 カトウが去った後、ヤマダは扉を閉めながら呟いた。

「儂の益体もない話にぽんぽんと左右され、簡単に己が胸中を吐露するとは、聞きしに勝る馬鹿じゃったの。あれぞまさに、唾棄すべき愛すべき大馬鹿者というものよ」

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