サワダとシバタ
三号館の二階、一番東にある講義室の前には、大きな立て看板があった。極彩色に塗られ、「男子部主催、レインボーMUS」と書かれたその看板は、ラフレシアのように何か危険な臭いを放っていて、もともと人通りの少ない場所にある講義室付近はますます閑散としていた。
サワダは受付に促されるまま規約を読み、サインをした。タイトルらしいMUSとは、ミュージアムかミュージカルの略であろうか、と考えながら扉を開けると、中ではふんどし姿の「男子部」メンバーが急造されたステージの上で各々くつろいでいた。そのステージに向かって並べられた十以上のパイプ椅子には、誰一人として座ってはいなかった。
「あれ、サワダじゃないか。一体どうしてこんな辺鄙な所に」
「折角だからな、お前もカトウも今日が晴れ舞台だし、観客がいなきゃあんまりにも張り合いがないだろう」
「まあね、例え誰も来なくとも俺たちは全力を尽くすようにはしているが、やっぱりモチベーションというものもある。サワダには最高の舞台を見せてやろう」
「ああ、最低な舞台を見にきたよ」
舞台を終えたシバタと舞台を見終えたサワダは、構内をぶらついていた。道の両脇には屋台が並び、チョコバナナやら焼きそばやら、いかにもらしい商品があって、学祭というものを精一杯楽しもう、この期に乗じて目一杯浮かれよう、どうせなら華やかに、という学生たちの意気込みがそれらの匂いと一緒になって漂ってくるような塩梅であった。
サワダだけの為に演じられた「男子部」の舞台演目は、鮮やかに染色されたふんどしを身に付けた男たちがマスゲームさながらに群舞するというものであった。おおよそ学祭というものに似つかわしい出し物ではなかったが、サワダはそれなりに楽しんだ。シバタも、他の「男子部」部員も、それなりに楽しそうだったからである。
「しかしあんな酷いもの、よくやろうと思ったもんだ」
「まあな、カトウが立案したんだ。あいつはこういうときにばっかり、いらぬリーダーシップを発揮する」
「あいつの案か、成る程カトウらしいおぞましいセンスだった。なんだ、あのふんどしの色は」
「おう、凄かったろう。七種類の色に染めたふんどしは虹をイメージしてるんだ。ちなみに俺のは橙な」
「ああ、だからレインボーなのか。確かに最初の立ち位置は、ちゃんと虹の順番になっていたなあ、そういえば」
「そうとも。で、そんな色鮮やかなふんどしたちがあったら、ついそこに目が行ってしまうだろう?つまり踊りの舞台を観ながら、観客は俺たち男子部の下半身に注目してしまうと、そういう算段なのだ。舞台の正式名称はレインボー・メンズ・アンダーウェア・ステージ、な」
「大事なところばかり略しているなあ。実に下らない、いかにもカトウが率先してやりそうなことだ」
「あいつは卑猥で下品なことに関してはとことん馬鹿になれるからなあ。一種の才能だよ」
「この世の何よりも存在価値のない才能の一種だよ」
サワダは人形焼きを、シバタはたこ焼きを買い、「男子部」のある部室棟近くのベンチに座って食べ始めた。近くには出店やイベントの類いはなく、人もまばらであった。学祭の放つ熱気から離れると、秋風が余計に強く感じられて、上下ジャージを身に纏っただけのシバタは寒そうにぶるぶるしていた。
「あんなの、下手したら訴えられるぞ」
「大丈夫、その為に規約を設けた。というかサワダ、お前も読んだはずだぜ」
「ああ、何かあったな。あんまりちゃんと読んでなかった」
「おいおい、そんなんじゃそのうち変な奴に騙されるぜ。いいか、要約するとだな、この中で何を見ても文句を言わないこと、セクハラだとか騒がないこと、踊り子に手を出さないこと、最後まで退席しないこと、できれば演者に拍手を送ること、とまあ、だいたいこんな感じだ」
「それはそれで怪しい詐欺みたいだな」
「女、子供が来たときには受付が口頭で説明する手筈になってるから、まあ大丈夫だろう。それに、あんな隅っこで毒々しい妖気を放っていたらまず近寄ろうという気も失せるだろう」
「というか、俺以外に客は来たのか」
「それが案外来るもんだぜ。第二回はサワダ一人だったが、一回目は高校生らしいのが五人来た。あれは将来有望だな。やんややんやと盛り上げてくれた」
「へえ、男子部の将来を担う人材が混じってたかもな」
「うん、あれを観てこの大学に入ろうとか思ってくれたら、男子部としてはなかなかの貢献度だと言えよう」
「どうかな、男子部につられて入学を決意するような馬鹿が、そうそういるものかね」
「いたらいたで楽しかろう?希望は持つだけならタダだからな」
寒さに耐えきれなくなったシバタは、自動販売機でホット珈琲を購入した。これが女だったら、きっとサワダは上着の一つでも貸していただろう。
「昔はもっと大っぴらに、それこそ大学中をふんどし姿で練り歩いたらしいんだけどな」
「それこそ訴えられるな」
「うん、まあ大学だから、万が一警察とかに話がいったらとんでもないことになるし、ここ数年はずっと遠慮して部屋に閉じ籠っている。あの部屋から出るときには必ず服を着るようにしているし」
「遠慮してあれとは、遠慮という言葉に謝っておいたほうがいいと思うぜ」
「でもな、合宿をして、わざわざこの学祭のためにふんどしを新調して、踊りを覚えて、練習したんだ。あんな隅っこでもいいから、楽しみたいと思うのが人情だろう」
「あんなものは永久に封印したいと考えるのもまた、人情なんだけどなあ」
ぞろぞろと数人の男が、部室棟の階段を降りてきた。シバタは軽く手を上げて挨拶をした。どうやら「男子部」らしいその男たちは、寒そうにしながら三号館に向かっていった。
「また次の舞台が始まるんじゃないか?シバタはいいのか?」
「ちゃんと持ち回り制になってるからな。俺は今休憩時間だ。後は受付が残っているだけだし気楽なもんさ」
「ふうん。あ、カトウはどうしたんだ。さっきいなかったぞ。立案者だからと言って、さぼりか」
「いや、あいつはさっきまで裏方さ。照明だとか、音楽だとかな。あいつこそ缶詰だよ、自由時間なんてない。これから舞台に立つんじゃないかな、確か。ちなみにあいつのふんどしは赤だぜ」
「カトウも頑張るなあ、その頑張りがまたぞろ女を遠ざけるだけに終わりそうなのが何ともあいつらしい」
「いやいや、そうでもない、とは言えないが、最近はイガラシさんと話しているようだった。全然進展を教えてくれないけど」
「ああ、そうか。そういえば俺も前に一度見かけたなあ、講義室の前で何事かを話していた。悪いからそっとしておいたが、あいつ、いつからイガラシさんと親しくなったんだ、カトウの癖に」
「そうだなあ、夏休みの前に一度玉砕して、それから暫くは凹んでいたけど、休み明けから少しずつ話をしている様子だった。一体、誰がどんな魔法を使ったのか不思議でならんがね」
「しかし、ありゃあ端から見てると悪い男に付きまとわれてる純粋な少女って感じだった」
「うん、誰か正義感のある好青年に、悪漢と間違われやしないだろうかと、はらはらする光景ではあるな」
「友人だから一応こっそり応援だけはしてやるか。世界にあいつの味方なんて、あんまりいないだろうから」
「そうだな、俺もできるだけこっそりと応援している」
一層強い風が吹いて、空になった人形焼きの袋が飛ばされかけた。風に乗って枯葉がかさかさと足元を抜けていった。もうすっかり秋で、冬はすぐそこだ、とサワダは思った。
「しかし、これでイガラシさんに嫌われたりでもしたら、本格的に拗ねてしまわないだろうか。また彼女がどうのと絡まれたらと思うと、切ないやら面倒くさいやら」
「そういえば今日はサワダの彼女、来てないのか」
「いや、この後合流する。流石に男子部の出し物を彼女に見せるわけにはいかないから。俺までお前らと同類だと思われたらたまったもんじゃない」
「まあそうだな、誰だってあんなものを見せたがる彼氏はおらんわな。俺だって見せない」
「あれ、シバタお前、彼女できたのか」
「ん、ああ、つい先月な。カトウには黙っておけよ、絡み酒に付き合うのは勘弁だからな」
「そうだな、あいつが万が一、いや那由多が一イガラシさんとそういう仲になったら、祝うと同時に打ち明けたらいい」
「うん、それは殆ど望みが無いに等しいけれど、それが一番平和な未来に思える」
「なあに、希望は持つだけならタダだからな」
「言ってくれるぜ」
それからサワダは、恋人と落ち合うためにシバタに別れを告げて去っていった。シバタは、暫く暖まろうと思って「男子部」の部室に向かった。すっかり黄に染まった銀杏の葉が風に舞って、学祭の喧騒は部室棟から随分遠くに感じられた。