カトウとシバタ
シバタの部屋のほぼ中央にあるテーブルの上には、テキストと講義プリント、それからカトウが調達してきた過去の試験問題のコピーが乱雑に置かれている。しかしカトウもシバタもそのテーブルに向かってうんうんと頭を捻っていたのは三十分にも満たないで、今はビデオゲームに興じていた。
「お前さあ、聞いたぜ。彼女作るんだってな」
「うむ、どこの誰が噂しているのか、まったく有名人のプライバシーとは無視されがちで困る。因みに彼女を作るんじゃない、女に慣れようと思っただけだ」
「お前が有名人だなんて、冗談にしては質が悪いぜ。お前はサークルの中では確かにそれなりに目立ってはいるが、大学というくくりになると無名もいいとこだぜ」
「で、誰に聞いた」
「あいつだよ、彼女が出来た途端に麻雀に来なくなった」
「ああ、サワダか。まったく、人のことをよくもまあぺらぺらと。彼女がいるからと調子に乗っておるな、いずれ天罰が下るといい」
「何か協力してやってくれって言われたぜ。きっと心配してるんだよ」
「なんと、サワダにも人の心が残っていたか、やはり持つべきものは友人だなあ」
「カトウは単純馬鹿だから、一緒にいて気が楽だよ、まったく」
テレビの中では、ドットで描かれたキャラクタが派手なアクションを見せている、しかしそれを操作するカトウとシバタは地味な服に身を包み、退屈そうに欠伸をしたり足の裏を掻いたりしていた。本当のところ、二人ともゲームを楽しんではいない。かといってゲームを止めてしまえば待っているのは試験勉強であるから、あえてどちらともが何も言わずに、黙々と逃避していた。
「俺が言うのもなんだけどさ、どういう魂胆だよ。お前が女といちゃこらしたいってのは聞き飽きたが、本腰入れるなんてさ」
「うむ、是非とも聞いてくれ。実はエトウ先輩に金言を頂戴してな、このままだと僕はもてないままにただ歳を重ねるはめになるらしい」
「エトウさんかあ、あの人も大概だよなあ。何とかという人とはどうなったことやら」
「その事については触れてやるな。黙しておるのがせめてもの慰めだ」
「ああ、やらかしたんだっけか。うん、人の恋路をとやかく言うのも失礼だしな。恋路の入り口にすら立てなかった人だけど」
「僕もいずれそうなるかと思うと気が急いて、今のうちから対策しようと試みようと思おうと決意したんだ」
「カトウもカトウで大概だなあ。しかしまあ、男むさい場所で女を寄越せと叫んでいても、何の進展もないしな、うん、いい心掛けだ」
「女のいるところで女を寄越せと叫べば少しは成果が見られるかなあ」
「それをしたら、流石に馬鹿じゃ済まされねえぜ」
ビデオゲームの音と冷房の唸る音を聞きながら、指先以外はろくに動かさずに冷めた目のカトウとシバタ。二人は試験というものから逃げるかのように、決してテーブルの方を振り返らなかった。だからテーブルに置かれた二つのグラスは、ただ表面に水滴を生むばかりであった。
「それでお前、誰かいい人はいるのか。女だったら無差別に誰でもいいのか」
「僕にだって選ぶ権利はある。いや権利がなくとも選びたいという欲求はある。シバタ、僕はな、柔らかくてふわふわした、思わず手を差しのべたくなるような、少しばかりおどおどして、けれど一本芯の通った、ふわりと柑橘系の香りのするような、決していやらしすぎず、ガードが固すぎず、恥じらいと穏やかさを持った、そんな女がいいんだ」
「そうだな、選ぶ立場じゃないもんな。それから、お前はもう少し自分を弁えた方がいいと思うぜ。欲張りも程々にしないと天罰が下るかもしれん」
「うん、わかっているとも。そんな女でなくとも、いいなと思うことだってある」
「その言い方だと、さては誰かいるんだな、目星を付けた人が」
「実はそうなのだ。しかしその人に迷惑にならないかと不安で仕方ない。それに僕の人となりを、もしかしたら知っているかもしれない。ならばもう望みは無いに等しい」
「ふうん、確かにそうかもな。で、一体誰だよ」
「うん、シバタも知っているだろう、イガラシさんだ」
「成る程、成る程。イガラシさんね。確かにあの人は優しいし、お前が惚れるのもわからなくもない」
「いや、だから、惚れたとかいうことではなくて、あくまでも耐性を付けようという話であってだな」
「その言い訳はいいよもう。そうか、前に何かの実験でお前と一緒のグループになっていたな。そこで惚れた訳か、単純すぎて涙が出てきた。そのときは普通に会話できていたんだろう?」
「うん、一応会話らしいことは行ったと記憶している」
「なら十分じゃないか。女に慣れるだのと息巻いていなくとも、普通に接せられるなら」
「そうは言うがな、あのときの僕はそれはもうひどい有り様だったぞ、シバタが知らんだけであって。借りてきた猫を被るとは、ああいうことを言うんだなあ」
「言葉を合体させても意味は増幅されんと思うけどね。そんなに緊張したのか」
「心臓の音が五月蝿かったのは覚えている、あとは機械的に事務的に、聞かれたことに自動的に答えていたような、そんな気さえする」
「たかだか実験を一緒にやるだけで、とんだ話だな」
「なんと言っても物理的に近いというのは、まずい。僕の五感が勝手に色んな情報を獲得するもんだから、脳がオーバーヒートを起こさないかとはらはらしたものだ」
「どんだけ女に免疫がないんだお前は」
「まさか人体から汗以外の匂いがするとは思いもよらなかった、そういうのは伝説上の出来事だと思っていた」
「でもまあ、いいんじゃないか、イガラシさん。彼氏がいるって話も聞いたことないし」
「しかしだな、僕とイガラシさんの関係といえば、かつて実験をともに行ったと、それだけの関係だぞ。つまり今は無関係なのだぞ。それなのにほいほいと近付いて声の一つでもかけてみろ、良くて逃亡、悪けりゃ裁判沙汰だぜ」
「後ろ向きな妄想力だなあ」
「何か切っ掛けがあればまだしも、名前を認識してもらえているかもわからない人に話し掛けられるほど僕の心は丈夫にできていない」
「切っ掛けなんて作っちまえばいい。試験の過去問持ってないか、とか、そんなんでいいんだ」
「ほう、さすがサワダの見出だした男、なんと適切なアドバイスか」
「そっから試験勉強、良かったら一緒にしませんか、と持っていけば、上手くすれば友達くらいにはなれるかもだぜ」
「うんうん、余りにも適切すぎて驚くばかりだ、ただ僕という人間性を度外視しているのが惜しい。それができる人間はエトウ先輩の後継ぎだとか言われんのだよ、シバタ」
「流石むさ苦しい男の中の男、あんまり惨めで涙も枯れたよ」
図らずも試験という言葉が口から出てしまったため、二人は渋々ゲームとテレビの電源を落とし、嫌々テーブルに向かってペンをとった。内容はさっぱり二人の頭に入ってこなかったし、二人の頭もその侵入を阻止しようと必死だった。
「まったく、こんな記号の羅列の解法が、僕に一体どんな恩恵をもたらすのか。もたらさないならそれはもう無駄ということじゃなかろうか」
「少なくとも俺たちに単位はくれるぜ、この解法は」
「ううむ、単位か。ならば仕方ない。せめて一週間だけでも、僕の脳に仕舞っておかねば」
「幸運な奴はこういうことを女と一緒にやって、教えあったりするんだろうな」
「図書館でひそひそと話しながらな、まったく不謹慎でいけ好かない」
「嫉妬はやめとけ、男の嫉妬は見苦しいと相場が決まってる。それに、お前だってイガラシさんとそういうことしたいだろうに」
「したいとは思うがね、その可能性がどれ程儚い、三等星より小さな光かを、僕はよく知っている」
「それはお前が動かないからだ、努力しないからだ。向こうから話し掛けてくるのを待ってたって、そんなうまい話があるもんか。だったらこっちから仕掛けないでどうするよ」
「それがわかっていても、どうしてもできないんだなあ。僕はこの計算式の中の記号たちのように素直じゃないからなあ。やれと言われて、はいやりますとはならないなあ」
「お前は意気地のない奴だな。男連中の中心ではあんなに楽しそうに踊っているのに、そこから放り出されるとぷるぷる震える小型犬に見える」
「そんなに可愛いものに見えたら女の一人でも寄ってきそうなものだが」
「ものの例えだ、実際はぷるぷる震える男にしか見えん。そんな気色のわるいものに寄ってくるわけはない」
「お前も僕をそうやって苛めるのか、誰も彼も僕の敵なのか」
「そうじゃない、お前には荒療治が必要なんだ。千尋の谷から突き落とさなきゃあ、お前はいつまでたってもそのままだろうとわかったんだ」
「突き落とされた先が奈落の底でないことを、せめて祈ろう」
「どっからでも這い上がれよ、女と仲良くしたいんだろ」
「ああ、したい、仲良くしたい。ついでに言うと彼女が欲しい。もっと言うならもてたくて仕方がない」
「だったらいい加減実行だ。イガラシさんに失礼のないようにな」
「なんとか起訴だけは食い止めてみせるさ」
シバタはふうと息を吐いてグラスを手に取り、中の麦茶を一気に飲み干した。
「お前は馬鹿なのに意気地がなくてそのうえもてない。どうしようもない奴だな」