エトウとヤマダ
由緒もなく趣もない、ただ古いだけのアパートの二階、十号室の中ではヤマダとエトウが向かい合って胡座をかき、酒を酌み交わしていた。
「なあヤマダよ、俺の話を知っているか。俺と、ナカヤマさんの話だ」
「おうおう、知っておるとも。儂は知らんことは、なあんもない。お前さんが寝小便を垂れていたときのことも、恋文を書いて渡せなかったときのことも、よおく知っておるよ」
「そんな過去の話はいいんだ。なあ、俺はどうしたらいいんだろうなあ。いや、なにもナカムラさんとどうこうなりたいという気持ちはない。だがな、同じ研究室のメンバーとして、このままでは些か居心地が悪すぎる」
「かっかっか、儂に隠し事なぞするでない。儂にはちゃあんとわかっておる。お前さんは隙あらば、そのナカムラ女史の身体を好き放題できるような関係になろうと舌なめずりしていることをな」
「いや、断じてそんな、」
「よいよい、世の男女というものは、詰まる所そういう愛だの欲だのを満たしあいたいと望むのが常だからの。特にお前さんみたいな、女体とは縁のない人生を歩んでおれば尚の事よ」
「ううむ、ヤマダに言われると何となくそうかもしれんと思ってしまう自分が情けない」
ヤマダはコップに日本酒をなみなみと注ぐと、無造作に持ち上げてぐいと飲んでしまう。いくらかの液体は畳に零れて染みになるが、ヤマダは気にする様子もなかった。
「お前はなんというか、駄目な方向に自由で、それがときどき羨ましいよ。それで生きていられるんだから余計に羨ましい」
「儂みたいなのはいくらでもおるじゃろう。それに儂はまだ未完成じゃからな」
「お前の完成形なんて見たくもないから、どうかせめてそのままのお前でいてくれ。お前、自分が後輩たちになんて呼ばれているか知ってるのか」
「うんむ、儂に知らないことなどないからな。仏と貧乏神の合の子とは、なかなかどうして有り難いじゃあないか」
「馬鹿言え、あんまりにもあんまりだぜ。お前を知らないものはお前を見て逃げ出し、お前を知っているものは全速力で逃げ出す。それでいいのか」
「そんな小さなことにいちいち構っていては、儂のようにはなれんぞ、エトウや」
「なりたくもない。俺は俺にすらなりたくなかったのに、お前になんてなりたいものか」
ヤマダはがりがりに痩せてほとんど骨と皮だけでできているように見え、いつもよれよれで色落ちした着流しを着ていたから、ヤマダを見たものは大抵幽霊が出たと思い込む。禿げた頭には毛の一本もなく、頬がこけた顔に付いた二つの眼球はぎょろりとしていて見るものを圧倒させる。初老を迎えたような外見だったがまだ二十五を自称していて、それを信じている者はあまりいない。エトウも勿論信じてなどいなかったが、まあこいつならそういうこともあるだろう、という気がしないでもなかった。
「人に避けられ、単位もほとんど落としっぱなし、金をどう工面しているのか誰もわからず、酒と煙草ばかりでろくに食事も採らない。お前は一体全体、何のために生きているんだか」
「かっか、儂は儂を否定するために在るからの。お前さんみたいな自分に甘い奴にはまあ理解できんじゃろう」
「まったく意味がわらかないし、じゃあ大学は辞めろよ」
「なあに、そのうちあっちから頼み込んでくるさの、頼むから卒業してくれ、単位はいくらでとくれてやるから、とな」
「ヤマダは大概馬鹿だなあ」
「お前さん程ではないわ。儂にはお前さんが、いつかきっと幸福が空から落ちてくるはずと思い込んで口を開けて待っているように見える。どうしてそんなに己の可能性に自信が持てるのか、儂にはとんと理解できんの」
「そんなことはないぞ、俺は俺なりに努力しているとも」
「口を開けることは努力に含まれんぞ。歩いて、飛んで、捕まえて、喰らって、それらを実行しようという意思も持たずに努力とは、片腹痛いわ」
「むう、お前のその屁理屈にもならぬ言い分は俺には理解できん」
「互いに理解できんのなら、それはそれでちゃあんと均衡がとれておるの」
十号室の窓は閉めきられて、扉も閉まっているから、部屋の中は二人の吐き出した煙で充満していた。閉めきっているから扇風機を回したところで白濁した空気が撹拌されるばかりで熱気の逃げ道はなかった。煙草の煙と男二人の汗の臭いと酒の臭気と熱で充たされた部屋は、そのうちに拷問部屋と思えるほど息苦しくなっていた。
「なあ、ヤマダ」
「んん?何じゃ」
「さっき言ってた、お前はお前を否定するために生きているって、どういう意味だ?」
「ふむ、よかろう。ここは一つ、儂が有り難い話をしてやろう」
「多分有り難みはないだろうが、まあ聞くよ」
「そもそも、己とは何か。己とは、感情のことじゃ。何が好きで何が嫌いか、何に喜び何に悲しむか、何が幸福で何が不幸か。そういった己の感ずるところの集合体が己を形成しておる」
「成る程、全然違うと思うがまあいいだろう」
「しかしな、儂はそれらが無くなってしまえばいいと考えておる。好きなものができるということは、嫌いなものができる可能性の肯定じゃ。誰かを愛するということは、誰かを憎むことの許容じゃ。幸福になったとき不幸は芽吹き、それはつまり死を抱えて生まれ落ちるということじゃ」
「そんなことはあるめえ、誰も憎まずに生きることだってできるだろうさ。それにどれだけ感情を否定したって、どのみち俺もお前も変わらず死ぬんだぜ」
「まあ聞け。確かに、全てを愛して全てを憎まずということも、可能性としては存在する。しかし、それは聖人君子か慈愛の神か、そんな風に呼ばれる者が成しうる、一種の奇跡じゃ。儂はそんなものではない。だから、儂は儂を否定して、誰も愛さないことと引き換えに誰も憎まず、何も好まぬ替わりに何も嫌わぬ。幸福でないが、決して不幸にはならぬ。それが儂じゃ」
「じゃあ酒も煙草も好きじゃないってのかい」
「うむ、その通りじゃの。無ければ無いで、それでいい。有るなら有るで、戴く。それだけのことじゃ」
「確かに俺はお前にはなれそうもないよ、お前は結局何になりたいんだ」
「儂は何者でもないものになりたい。そこでお前さんの言った、死に繋がるわけじゃな。死ぬということは生ききることで、生きるということは死にきるということじゃ。儂は今生きていない。人間としての儂を放棄しているんじゃからな。即ち、儂は死なない。生きていないんじゃから当然じゃの。儂は何者でもない故に、生きることも死ぬこともない。ただ肉体が動かなくなって、腐ってしまう、それだけの話じゃ。儂とは何の関係もない話じゃ」
「なんというか、そのまま怪しい宗教でも立ち上げてしまいそうな話だな。俺には微塵も伝わらなかったが。しかし他所で喋るのはやめておけ、ますます生きにくいぜ」
「うむ、この話をしてもお前さんには一切伝わらんと知っておったから話したにすぎん。何もない、何にもならないからこそお前さんと儂はこうしていられるのじゃの」
「まあ、精々望むようにしたらいいさ。お前がそうしたいって思うのも、お前自身の感情だと思うがね」
「かっかっか、だから言ったじゃろう、儂は未完成なのじゃ」
エトウが立ち上がって窓を開ける。立て付けの悪い窓をがたがた鳴らしながら動かすと、雨上がりの涼しい風とと青草の匂いと蛙の鳴き声が肌と肺と耳を癒す。この部屋は余りにも空気が汚れ、下らない話で耳も汚れていたようだと感じた。
「それに、儂にとってはお前さんの方がずっと摩訶不思議な存在に思えるよ」
「なんでだ、この世の誰よりもお前に言われるのだけは解せん」
「そうは言ってもな、男むさい場所で躍り狂い、男同士の熱でむせ返り、それで喜びながらも一方で色恋沙汰を求めておるのは、どうにも不自然で歪な状態じゃろう」
「……俺だって好き好んでむさ苦しい男連中の真ん中に座している訳ではない。本当はもっと桃色の人生を送りたかった」
「まあ無駄じゃの。お前さんはどうやっても馬鹿騒ぎしている連中の御輿になっておったよ。お前さんみたいな逸材は、きっとそうはおらんからな」
「そうかねえ、いや、一人いるぞ。過去の俺とそっくりで、女に一向にもてず、男むさい場所でくだ巻いてばかりで、そのくせ女が欲しい、女を寄越せと喚いているのが。だから案外どこにでもいるんじゃないかな」
「それはそれは、けったいな事もあるもんじゃのう。是非とも一目、見てみたいもんじゃ。お前さんの後を継ぐような人間ならな」
「と言っても、ヤマダ、そいつは同じサークルのカトウだぜ。知らないのかよ。何でも知ってるんじゃなかったのかよ」
「うんにゃあ、勿論知っておったとも、ああそうとも、儂に知らぬことはないからな」
「適当ばっかり言いやがって」
扉を開けて外に廊下に出ると、隣の九号室に人が入っていくところだった。エトウは幾度となくこのアパートを訪れていたが、他の住人を目撃するのはこれが初めてであった。きっと変人なのだろうなあ、というのがエトウの率直な感想であった。
「まあお前さんは精々まともに生きようと努力することだの」
「まともったって、俺は俺の思うまともを全うしてるつもりだがね、まったく周りが邪魔をする」
「ふん、ナカムラ女史には一言きちんと謝れば、別段何事もなかったかのように接してもらえるじゃろうよ」
「なぜそんなことがわかる、とは聞かないぜ。まあ、頭の片隅にでもしまっておくよ。お前もたまには部室に顔を出せばよいのに」
「かっかっか、後輩共を驚かすためか」
「いいや、いい加減いい生き方をしたっていいんじゃないかと思ってな。そんな風では疲れるばかりだろうし」
「なに、幸福になるよりましじゃわい」
「うん、わかったよ。じゃあせめて、長生きはしろよ、二十五歳に向ける言葉ではないかもしれないが」
「少なくとも儂に向ける言葉ではなさそうじゃな、しかしお前さんの心遣いは伝わった」
「ならそれでいい。またそのうち来る」
「ああ、酒と煙草を忘れずにな」
「お前、やっぱり好き嫌いあるだろう」
由緒もなく趣もない、ただ古いだけのアパートの二階、白熱灯の照らす廊下に、しゃがれた笑い声が響いた。