あなたとわたし
目覚ましに起こされて、まず一つ大きく欠伸をした後、鼻唄混じりに朝食を作りました。と言っても、トーストとサラダ、それからオレンジジュースだけなので、実に楽です。もりもりと食べていると、眠気はどこへやら、今日の元気がむくむくと湧いてきます。何故でしょうね、とても不思議です。
食器を片付けた後は、洗濯と部屋の掃除を簡単に済ませてしまいます。もうすっかり冬になってしまって、動いていても体温はあんまり上がりません。けれど、それはそれで嬉しくなります。寒いということは、私の好きな毛布がそれだけ活躍するということの証だからです。イガラシ家の女は代々毛布が大好きなのです。母も、三つ年上の姉もそうなのですから間違いありません。
家事を全て済ましてしまうと、約束の時間まで二時間程になりました。慌てて化粧をして、服を着替え、髪を梳かし、コートを羽織り、手袋とマフラーで完全武装です。寒いのは好きですが、それは防寒具あってのこと。このぬくぬくに包まれているのが、冬の醍醐味というものです。
よく晴れた日で、空は透明の向こうに青く、雲は薄く高くあって気持ちいいお天気です。はあっと息を吐くと、白くなったそれはふわりと浮かんでそのまま青さに溶けてしまい、私は思わずくふくふと笑いました。厚い雲に覆われた空よりも、こんな風に晴れて寒い空の方が好ましく思います。
百貨店などは一足先にクリスマス商戦に乗りだし、にわかに華々しい色合いの飾りつけが行われていましたが、街はまだ静かに、質素に、優雅に、冬の休日をのほほんと迎えています。てくてくと歩いているだけで、その清らかな安らぎに包まれて、ついまたくふくふと笑ってしまいました。
今日はカトウさん、同じ大学に通う人なのですが、その人に誘われて繁華街にあるという珈琲の美味しいお店というところに向かっているのです。カトウさんとは夏頃から仲良くさせてもらっているのですが、こうやって大学の外で会うのは初めてのことですから、些か緊張をしてしまいます。
横断歩道を渡ると、南にその喫茶店が見えてきました。教えてもらった通り、小さな看板が一つ掲げられているだけなので漫然と歩いていては見逃してしまいそうな、そんなお店でした。幅の狭い階段が下に伸びていて、入り口のドアーも壁と同系色の暗い色でしたので、これは確かにぱっと見ただけでは喫茶店があると判別のつかなそうな佇まいです。住み慣れた街の秘密の入り口みたいで、私はまた笑ってしまいました。小さい頃からよく笑う子供だったと、母が言っていたのを思い出します。
腕時計を見ると、約束の時間の十分前です。丁度良い塩梅でした。
ドアーを開けると、中では薄暗い照明と大きすぎない音楽とで、少しばかり大人な雰囲気です。からんからん、とドアーに付けられたベルが鳴りまして、その音に反応してかカウンター越しにいた男性が此方を向きますと、一つ会釈をなさいましたので、私もつられて会釈をしました。御立派な口髭と、ポマードで整えられた髪と、滑らかな手付きでカップを一つ一つ丁寧に拭いている姿から、恐らくはこのお店のマスターだろうと見当をつけました。
店内を見渡すと、中程のテーブルにカトウさんが座っていました。耳にかからない長さの黒髪を、大学でお会いする時にもよく着ているグレーのセーターを、ふわふわと柔らかい印象を与える後ろ姿を、そう間違えたりはしません。カトウさんはぼんやりとした様子で、壁に掛けられている絵を見ていました。それは湖畔を淡い色彩で描かれたもので、無知な私にはどなたが描いたのかは皆目見当もつきませんでしたが、とても素晴らしい絵だと思いました。
手袋とマフラーを外しながら、私はカトウさんのすぐ横まで近付きましたが、カトウさんは毛布の上でふにふにと休む子犬の様に、ただ絵を見ていましたから、どうやら私に気が付いていないようでした。こんにちは、と声を掛けると、カトウさんはびくりと肩を上げてから振り向いて、やあ、と声を発せられました。
「ごめんなさい、お待たせいたしました」
「いやなに、僕も今しがた来たところだから」
コートを脱いでカトウさんの向かいに座ると、若いウェートレスが注文を取りにきました。私も、カトウさんも、ホットの珈琲を頼みました。
「迷ったりはしなかったかい」
「ええ、教わった通りに歩いたので、無事に辿り着けました。それにしても、よくこのような隠れたお店を知っておられましたね」
「いや、昔、この付近のあらゆる店を制覇しようと友人間で話していて、その時に偶然見つけたのだ」
カトウさんは不思議な方です。なんと言いましょうか、一つ一つの理由が私の想像の範囲を超えていて、ですからお話もとても面白いのです。カトウさんの返答に私が笑うと、カトウさんは気恥ずかしそうに、頭をぽりぽりと掻きます。私の笑い声と、カトウさんのその仕草は、二人の会話の中で殆どセットになっていました。
先程のウェートレスが、カップを二つ、テーブルに置いて頭を下げました。途端に、珈琲の薫りが鼻腔をくすぐります。ほわりと湯気が立ち、お店の雰囲気も相まってか、とても背伸びをしている気分でした。
私が砂糖とミルクを入れてふんふんとかき混ぜていると、カトウさんはブラックのまま飲みました。私は珈琲をブラックで飲めませんから、ちょっと驚いてしまいました。
「カトウさんはブラックで飲むのですね」
「うん、砂糖やミルクを入れてもいいけれど、ほら、面倒だから」
私はまた笑って、カトウさんはまた頭を掻きます。今日は何だか、ふわふわした気分でして、よく笑ってしまいます。
こくりと一口珈琲を飲むと、ほろ苦さの中に砂糖の甘み、ミルクのまろやかさが合わさって、それが僅かに熱く、喉に流れていくと体の中央からほっこりと温まり、やわらかな味が舌の上に残ります。私はつい、はあ、とため息をついてしまいました。とても安らぐ、良いお味でしたから、こくこくとまた、珈琲を口に入れては、はあ、とため息をつきます。その繰り返しだけで、ずっと幸せでいられるような、それは冬の寒いお昼前、まだ時間がゆっくりと流れるばかりの休日の中で、緩やかな音と強すぎない光に包まれて、薫りと味と、その全て綺麗に整って初めて得られるような、そんな気がしました。
「とっても美味しいです。それに素敵なお店です」
「うん、僕も、珈琲の味も、この店の雰囲気も気に入っている。つまるところ喫茶店で珈琲を飲むという行為は、こういう雰囲気の中に身を置くということこそが醍醐味なのかも知れない」
私は、そうですね、と同意して、また一口、こくりとやりました。体の中に熱がほわほわと蓄積されていくのを感じながら、余分な力が抜けていきました。カトウさんを見やると、右手はカップの取っ手を掴んだまま、テーブルに置かれた灰皿を左手の人差し指で撫でていました。陶器でつくられたらしいそれは、歪な形状で、ターコイズグリーンのような色でして、確かに指で撫でたらその滑らかさの虜になってしまいそうなものでしたから、私も少し撫でてみたくなりました。しかしここで「私も撫でたいです」と宣言するのはあんまりにもはしたないので、代わりに珈琲の入ったカップの縁をつりつりと撫でました。
暫くの間、私とカトウさんは世間話をして過ごしました。私は友人のやっちゃんやみっちゃんと行ったパスタ屋さんのこと、先日レンタルした映画の概要、家から大学までの道にある並木のことを話して、カトウさんは私の話を聞きながら時々相槌を打って、もっと時々にはご友人と遊んだときの話をしてくださいました。その間に、店内に流れる音楽は緩やかなものからアップテンポなものに、そして静かなものに移っていきました。
思えば、こうしてカトウさんとお話しするのは初めてです。こうして、というのは、こうやって二人で向かい合って座って話す、ということです。これまで私とカトウさんは、講義の終わりや休み時間に、ちょっと立ち止まってその講義内容のことを話したり、後はレポートの話ですとか、試験についてですとか、そういった内容ばかりだったように記憶しています。ああ、そういえば私はカトウさんの何も知らないんだなあと、ふと思いました。
「カトウさんは、どのようなものがお好きですか?」
話が丁度一瞬途切れたとき、私はそう聞きました。人を知るときに一番いい方法は、その人の好き嫌いを知ることだ、という、姉の言葉にいつも従うようにしています。
「僕の好きなもの、か。そうだなあ、楽しいことは大抵好きだが、ううん、友人と一緒にいるときが一番楽しいかもしれない。何がなくとも、ただ友人と話していたり、飯を食べたり、ぼんやりと並んでいるだけでも、楽しいかもしれない。いざ聞かれると、案外わからないものだ。イガラシさんは何が好きなの?」
「私は、そうですねえ、毛布が好きです。ぬくぬくとしていて、私を包んでくれますから。それから、どちらかと言えば私は動きが鈍いみたいで、昔から家族にぼんやりしている子だと言われてまして、だから、こうやって誰かとお話をするのが好きです。焦らなくてもいいですし、ほんわかとしていられますから」
「そう、それは、とてもいいことのように思えるね」
カトウさんはふいっと横を向いて、またあの湖畔の絵を眺めました。顔が少しばかり赤らんで見えたのは、珈琲で体が温まったからでしょうか。
目の前に置かれたカップの中身は殆ど私の中に収まってしまいました。名残惜しく思いながら、残った僅かな液体を、カップを揺らして弄んでいると、カトウさんがこちらを見てくすくすと笑いました。私は急に恥ずかしくなって、つい頭をぽりぽりと掻きました。これではいつもと立場が逆ではありませんか、と思うと、私も何だか面白くなって、ふふと笑いました。
「イガラシさん、今日ここにお呼びしたのは他でもない、少し聞いてもらいたいことがあるからなんだ」
カトウさんが改まった声を出して、私にそう言いました。私もつられて、体勢をしゃんとして、カップを置いて、両手を膝の上に乗せました。にわかに鼓動が早くなるのを感じました。
「これから話すことは、もしかしたら、いや結構な確率で、君に迷惑になることかもわからない。これは僕の我が儘の話で、だから、もし不快に思ったりしたら、途中で遮ってくれて構わない。しかし出来ることなら、最後まで聞いてほしい」
カトウさんの顔はいつになく緊張しているような面持ちで、とても息苦しそうに見えました。これからどのようなお話がカトウさんの口から発せられるのか、私も緊張してしまいまして、口の中の唾液をごくりと音を鳴らして飲み込みました。
それから、カトウさんが話し始めるまでの時間は、きっとものの数秒も無かったでしょう。しかしその時の私は、それがとてつもなく、もしやこれが永遠というものかしらんと思うほどに長く感じられました。もしかしたら、そう感じたのは私だけではなかったかも知れません。
けれども、そうやって待っている間、私には不安というものはありませんでした。これからカトウさんが話す内容がとのようなものであれ、きっとそれは私をくふくふと笑わせてくれるような、幸福と呼ばれるようなものに繋がっているのだという、そんな確信があったのです。
何故でしょうね、とても不思議です。




