新年の夜 (本編第3巻までのネタバレあり)
この話は、本編第3巻『幻術の国の王女』第一話『月夜の出奔』までのネタバレが含まれています。
お読みいただく場合は、この点をご留意ください。
(ああ、もう。なんか急に難しくなって来たわね。こんなのわかんないわよ……)
パラパラと幻術の呪文書をめくり、パルフィはため息をついた。
アルティアにあるギルド宿舎の一人部屋。
パルフィは次のレベルの呪文を予習しているところだった。相当に難しいところに差し掛かり、疲れて椅子にもたれかかる。
クリスたちがギルド宿舎で借りている部屋は、5つの一人部屋に居間がついているという大きなものだった。マジスタはパーティーを組んで行動することが多いため、ギルド宿舎は、いくつかの個室や2~3名用の部屋にプラス居間で一つという作りになっている。
それぞれの一人部屋は、ベッドと机、それに小さなワードローブがあるだけの簡素な部屋だった。
パルフィが椅子にもたれてだれていると、コンコンと控えめなノックが聞こえてきた。
「はあい。開いてるわよ」
カチャリとドアが開いて、隙間から顔を出したのはクリスだった。
いつもの穏やかな微笑みを浮かべている。
「パルフィ。少し、いいかい?」
「え、ああ、クリス。いいわよ、どうぞ」
何気ないふりをしながら、クリスの方に向き直る。すでに、鼓動が少し速くなっているのを感じる。
「じゃあ、お邪魔します」
そう言って、クリスが入ってきた。そして、静かにドアを閉める。
このところ、パルフィは自分の気持ちに戸惑っていた。
クリスのそばにいると、わけもなく胸が高鳴り、頭がのぼせるようなふわふわするような気分になるのだ。それに、クリスが自分に微笑みかけてくれると、幸せな気持ちになるし、逆に、クリスがかまってくれないと淋しくてしかたがない。そして、夜一人でいると、気がつけばクリスのことを考えている。
(これって、好きってことなのかな……)
これまで、誰かに恋したことがなく、侍女たちの恋愛話を聞くしかなかったパルフィにとっては、これが、『好き』という感情なのかどうかわからなかった。
いくらお転婆でおはねといっても、あくまで王女としての話であり、基本的に王宮暮しのパルフィは深窓に育つ箱入り娘であった。そのため、このような話とは縁がなかったのだ。そばにクレアがいれば、相談に乗ってもらえるのだろうが、あいにくこちらは家出中の身である。
「夜遅くにごめんね」
「どうかしたの?」
「えっとね、ちょっと君に話があって……」
クリスは、それまでドアのそばに立って話していたが、どうしようかと一瞬悩む様子を見せた後、遠慮がちにベッドのふちに腰掛けた。
「あ……」
ここで、ようやくパルフィは、クリスが自分の部屋の中に入ってきたのはこれが初めてだということに気がつく。
これまでは用があれば居間に呼び出されるか、ドアのところから話しかけてくるのが普通だったのだ。
夜、遅い時間に狭い部屋に二人きり。しかも、クリスは自分のベッドに腰掛けている。初めてのシチュエーションに、パルフィは自分が緊張しているのを感じた。
「ど、どうしたのよ。何か心配事?」
「ううん。違うんだ……」
クリスは、言いよどんだ。何かいつもとは違って、思いつめた様子が感じられる。
「何よ、何でも言ってよね。相談なら乗るからさ。何かあったの?」
「いや、そうじゃないんだ。実はね……僕の気持ちをパルフィに伝えておこうって思って」
「えっ?」
一瞬、意味を掴みかねたが、やや緊張しているようなクリスの微笑を見て、鼓動がさらに速くなる。
(気持ちって、どういうことかしら……。今から告白されるとか……、まさかね)
もちろん、クリスがそんな言い方をしたからといって、恋愛の話とは限らない。今後のパーティの方針に関して、自分の考えをパルフィに述べるだけなのかもしれない。考えられることは山ほどある。
きっと自分の勘違いだと思い込もうとしながらも、胸の高鳴りを抑えることはできなかった。
「ごめん、ちゃんと向き合って言いたいから、ここに座ってくれる?」
クリスは、パルフィのベッドに腰掛けたまま、自分の右横に座るようにベッドのふちを指し示す。
「う、うん……」
パルフィはますます身を硬くしながらも椅子から立ち上がって、クリスの横に腰掛けた。密着するでもなく、離れすぎでもなく、微妙な距離を空けて。
何の話なのだろうという不安と、そして、もしかしたら本当にそうなのかもという淡い期待がパルフィの心にわきあがる。
(そっか、あたし期待してるんだ……)
自分はクリスに好きだと言ってほしいと思っている。そう気がついたとき、パルフィは自分の本当の気持ちが少し分かった気がした。
「パルフィ」
クリスが真っ直ぐにパルフィの目を見つめる。
「な、なに?」
パルフィは、やや震えた声で、そしてぎこちない微笑を浮かべて聞き返す。もう、普通に振舞おうとしても無理だった。
「僕ね……」
「う、うん」
「君のことが……好きだよ」
「え……」
パルフィは、大きく息を呑んだ。クリスの言葉が残響のように耳に響く。
心臓は激しく高鳴り、一瞬のうちに、顔がのぼせたように熱くなった。
まさか、本当にクリスが自分のことをそんな風に考えていたなんて、まったく気がつかなかったのだ。というよりも、むしろ、自分の気持ちがどうなのかばかり考えていて、当の相手の気持ちを考える余裕がなかったといえる。
(ホ、ホントに、言われちゃった……、ど、ど、どうしよう……)
しかも、まだその自分の気持ちも完全に分かったわけではない。そして、不意をつかれた形となったパルフィは、うれしさよりも動揺が先にたっていた。
「そ、そんな、急にそんなこと言われても……。う、うそでしょ?」
「うそじゃない。本当に僕はパルフィのことが好きなんだ。気がついたら、いつも君の事ばかり考えてる。いつも一緒にいるけど、それだけじゃ嫌なんだ。もう自分の気持ちを抑えておけなくて……。パルフィ、僕は君を愛している」
そう言って、クリスは体をパルフィに寄せ、手をとって両手でぎゅっと握り締めた。そして、真剣な目でパルフィを見つめる。
「あ、愛してるって、ク、クリス……」
パルフィは、握られた手から温かい電流のようなえもいわれぬ刺激が流れ込み、それが全身に駆け巡るような感覚にとらわれた。
普段から、何気なく触れる機会は多いのに、なぜ、こんなふうに手を握り締められると、まったく異なる感覚になるのだろうか。
それに、このクリスの目はどうだろう。見つめられるだけでふうっと吸い込まれそうな気持ちになる。
「ク、クリス……、あ、あたし……」
パルフィは何かを言おうとするが、自分の気持ち、そして、クリスの自分に対する想いに心がかき乱され、うまく口も体も動かない。視線を外すこともできず、ただ口ごもりながら、クリスの顔を見つめていた。
「パルフィ……。愛してる」
クリスは、そういうと、パルフィを引き寄せ、抱きしめた。
「あ、ク、クリス……」
パルフィはクリスの腕の中で、この展開にうろたえていた。恋をするのも初めてなら、誰かに告白されるのも初めてで、しかも、恋した相手に抱きしめられるなど、考えたこともない。ろくに心の準備もできていない状態で、このようなことになって、自分がどうしたらいいのかも分からないのだ。
「ク、クリス。お、お願い、ちょっと、待って……」
パルフィが泣きそうになりながら、ささやくような声でかすかな抵抗を見せる。
クリスは体を離し、パルフィの両肩に手を置いて、顔を覗き込んだ。
「パルフィ……。僕じゃダメかな?」
「そ、そんなこと言ってないけど、あ……」
クリスが右手をパルフィのあごに添えて、少しだけ上を向かせた。そして、そのまま顔を寄せてくる。何をしようというのかは明らかだった。
今日のクリスは強引だ。いつもは、自分が好き勝手言ってオロオロさせるのに、今はもうクリスのなすがままになっている。
だが、それがいやなのではないことは分かっていた。そして、自分が受け入れる気持ちでいることも……。
もう、クリスの顔は目と鼻の先にある。
(ほんとにあたし、クリスと……)
パルフィもぎゅっと目をつぶった。クリスの唇が自分の唇に近づいてくるのが分かる。胸の鼓動は、もうこれ以上速くなれないぐらいに高鳴っている。
(ああ、クリス……。あ、あたし……)
そして、まさに唇と唇が触れ合うその瞬間だった。
「……フィ、パルフィ」
どこからか遠いところから声が聞こえてくる。
(えっ……)
その瞬間、今までいた世界が急に色を失い、崩れていくような、消えていくような感覚が自分を包む。
「パルフィ、起きなよ。パルフィってば」
そして、体を揺さぶられて、目が覚めた。
バッと身を起こして、周りを見渡す。そこは、ギルド宿舎の中だった。ただし、自室ではなく居間だ。そして、自分は居間のソファに座っていた。
周りには、クリスだけでなく、グレンも、ミズキもルティもいて、おのおのテーブルの上の食器や食べたあとのゴミなどを片付けている。
「起きたか、ねぼすけ娘」
「よく眠ってましたね」
「そんなところで寝ると風邪を引いてしまうぞ」
(な、何、これ……?)
一体何が起こったのか全く理解できず、ただ呆然と目の前の光景を見つめる。
(ゆ、夢だったの……?)
そして、ようやく、こちらが現実であることに気がつき、一気に虚脱感が体を襲ってきた。
「はあああ……」
大きなため息をついて、ソファにもたれかかる。
なんと生々しい夢だったのだろう。あれが現実でなかったということが信じられないぐらいである。手を握られた感触も、抱きしめられたクリスの腕の強さもまだ体に残っている。胸の高鳴りもまだ収まりそうにない。
「パルフィ、居眠りしてたんだよ。気持ちよさそうだったから起こさなかったんだけど、もうそろそろお開きにして寝ようよ」
「……え、ええ。そ、そうね」
今日は新年最初の日。クリスたちはこの日、昼間はゆっくりと過ごし、宿舎の食堂で夕食を食べたあと、特別にデザートやら焼き菓子やら飲み物やらを多数買ってきて、さんざん夜中になるまで居間で盛り上がっていたのだ。そして、いつの間にか暖炉の暖かさとソファの心地よさで、眠ってしまったらしい。
(あたし、もうすこしでクリスと……)
パルフィは、ぼんやりと夢の続きを見るかのように、クリスの顔を見つめ、そして、自分の唇に手をやった。
「ん? どうかした?」
「え、あ、ううん、なんでもないわよ」
頬を染めながら、慌てて目を逸らす。
「? そう?」
パルフィは、まだ恥ずかしくてクリスと視線を合わせることができなかったのだ。
「そっか、夢か……」
そして、頬に手を当て、ぼそっとつぶやいた。
「なんだ、パルフィ、夢を見ていたのか?」
その一言がミズキには聞こえたようで、手を止め、パルフィに聞き返す。
「う、うん」
「そうか。では、それが初夢になるのかもしれないな」
「初夢?」
「うむ。ヒノニアでは、年の初めに見る夢を初夢といってな、初夢に出てきたことは必ずかなうという言い伝えがあるのだ」
「えっ、ホントに?」
「ああ」
それを聞いて、またパルフィは頬を染めた。
(あれがホントのことになったら……)
「なんでえ、いい夢だったのか?」
「う、うん、まあ」
「それなら、かなうといいですね」
「え、そ、そうね……」
「どんな夢だったの?」
何も知らないクリスが能天気に聞いてくる。
「う、い、いや、たいしたことはないのよ」
「ふーん」
赤面しながら懸命にはぐらかすパルフィに、クリスは聞いてはいけないと察したのか、あっさりと引き下がった。
(まあ、いいわ。ホントにこんなことになったら、次はもう少し落ち着いてられるわよね……)
夢だったのは残念だったが、これが予行演習になって、今度はもう少し大人びた対応ができるかもしれない。そして、現実にクリスに好きだといわれたら、本当に幸せな気持ちになるに違いない。パルフィは、そう思って納得することにしたのだった。