Midnight's Jester
この物語はフィクションであり、実在の人物及び団体とは一切関係ありません。
「今夜はやけに静かですね」
常の夜よりも存在感のある満月の下、男は独り呟いた。
その男、鼻より上を笑みを形取った眦と左眼から流れ落ちる紅い涙が印象的な白い仮面で隠し、黒を基調に所々を赤で彩った道化帽子と白黒で彩色された道化服を身に纏っており、誰もが目を見張って距離を置くか、どこかの芸人と思われて芸をして見せろと煽られること間違いなしの、非常に面妖な姿格好をしている。
そんな妖しい雰囲気を漂わせる男が先程述べたように、今宵、この場所は静かと言うわけではない。
彼が立つ場所はとある地方にある政令指定市新戸でも有数の歓楽街であり、新戸不夜城とも呼ばれる藍染町に軒を連ねた街ビルの一つ、その屋上である。当然、周辺には月の存在を霞ませるようなネオンサインやLED照明は元より、男の眼下にある藍染町通からも人の気分を高揚させる音楽や雑踏を行く人々の様々な音や声……猥雑な嬌声や威勢の良い罵声、熱の篭った笑声や戯れ半分の泣声が聞こえてくるし、新都を循環する高速道路や都市鉄道網からも騒音が伝わってきている。更に付け加えれば、数多の赤色灯がサイレンを鳴り響かせながら、近隣の大きな街路を右に左にと乱舞してもいる。
このように、どうにも男が言ったような静かとは言えぬ雰囲気なのだが、彼に言わせれば静かな夜なのである。
そう、彼にとっては、少々宝石店に忍び込んで一億円相当の宝石類を失敬した後、毎度の如く、血眼になった刑事達に追われる程度は、静かな夜なのだ。
働き者のパンダ達が忙しく走り回っている原因は詰まらなそうに肩を竦めて小さく首を振ると、道化帽子の両側面に結えられた鈴が軽い音を立てた。
「いつもなら、すでに大見得を……」
「今夜こそは逃がさないわよ! 道化師!」
「そうそう、こうでなくてはね」
仮面の男は何かに気付いたように目を細め、僅かに覗いた口元を皮肉げに綻ばせてると、彼を咎めた大声が発せられた方向へと向き直る。振り向いた先には、白い直垂に赤色系で彩りを統一された武者装束のようなものを身に付けた少女が立っていた。勝気そうな顔立ちをした少女は鋭い視線を向けると、勢い良く青年を指差して、己を鼓舞するように咆えた。
「今夜こそ……、今夜こそっ、絶対に! あんたを捕まえてやるっ!」
月光を受けて赤い光沢を放つ短髪の下で、ボーイッシュな少女の眼は燃えるように紅く輝いており、その視線は警視庁指定広域指名手配犯である仮面の男、通称〝真夜中の道化師〟を貫く。
だが、もう一方の当事者である人物は覇気に溢れている少女から放たれるプレッシャーを感じているのかいないのか、どこ吹く風というように面白そうに口を開いた。
「おやおや……、こんな真夜中に近所迷惑な大声を出すのは誰かと思えば、精霊巫の紅玉御前ではありませんか。幾ら、殺伐とした世とはいえ、お年頃の乙女が夜更かしとは感心できませんね」
「っ! だ、だだっ、誰のせいだと思ってるのよっ!」
「くくっ、さて、誰のせいでしょうかねぇ」
生暖かな夜の空気の中、ネオンの暖光と月の冷光に照らされた道化は舞台に踊り出るように屋上の中央部に立つと、剥きになって言い返す〝赤の精霊巫〟紅玉を嘲笑う。
「あんたのせいにっ、あんたが気紛れに犯罪を起こすせいにっ、決まってるでしょうが!」
「ほほぅ。……そうなのですか、蒼玉御前?」
「……ええ、そうよ」
そう答えたのは、つい先程まで道化師が立っていた場所にいつの間にか姿を現した、紅玉と似たような格好をした少女であった。彼から蒼玉御前と呼ばれた少女と先の紅玉との違いは、青色系で彩りを統一された武者装束と青味を帯びた光沢を放つ長い髪ぐらいであり、顔立ちも瓜二つと呼べる程に似ている。
だが、姿格好は似ていても有している雰囲気は間逆である。凍りつくような蒼い光を放つ瞳は油断なく道化師を捕らえ続けており、その少女に宿っている冷厳たる意志を顕わにしている。
「それはそれは……、世の調和を維持する為、人が道を踏み外さぬ為に、日々、努力しておられるお二方にはご迷惑をおかけしております」
ビルの屋上という舞台で、道化は二人の少女に対して、左手を腰に右手を胸に当て、気どった格好で深々と頭を垂れて見せる。
「とはいえ、花も恥らう乙女ならば、他にしたい事もおありでしょうに……、このような欲に塗れた場所で、このような道を外れた道化の相手などせずとも……。ふぅ、まったくもって、痛ましいことでございますね」
「くっ、くぁぁっ! げ、原因のあんたに言われるとすんごい頭に来るんだけどっ!」
「おやおや、そうだったのですか? これはこれは初耳でした。……いやはや、事ある毎に、夜毎、この愚かな道化めの戯曲に、毎度毎度お付き合いして頂いておりましたので、てっきり楽しんで頂けているのだとばかり思っておりました。それがそれが、この道化めがご不満の大元だったことをまったく見抜くことができぬとは、我が身の不明、この道化めの修行不足でございます。お二方には、まことにまことに、申し訳ないことを致してしまいました」
「む、むがぁぁっー!」
「……紅玉、落ち着いて」
適当な物言いと苦悩に満ちた風情を装う道化に煽られた紅玉は顔を真っ赤にさせて怒りを爆発させており、今にも飛び掛らんばかりである。それを止めたのは冷静に道化を見つめていた蒼玉だ。彼女は何もない虚空から唐突に長物、彼女の身につけた色と同じく、深い青で柄から刃までを染め上げられた薙刀を現出させて両手に握る。
「……道化師、言いたい事はそれだけ?」
「ふむ、お許しをいただけるのならば、一つ二つ」
「……なに?」
「蒼玉御前、ビルを跨いでの上方からの奇襲という狙いは良かったですが、今少し戦場の環境を考えつつ、相手の様子を把握し、なおかつ、相手の虚をつかないと効果的ではありません」
道化の見透かしたような物言いに蒼玉の青い瞳が細まる。
「……そう、今後の参考にさせてもらうわ」
「ええ、ええ、そうしてください。後、これが本命、本当に、本心より申し上げたき事、非常に重要なのことなのですが……」
「……続けて」
「はい、やはり、相棒というものはしっかりと選「もうっ、いつまでそいつと話してるのよ、蒼玉! さっさとやっちゃうわよ!」なんとっ!」
道化の助言を遮るように言葉を重ねたのは、痺れを切らしたのはもう一人の精霊巫。言葉を遮られた道化は片手で目を覆って月を仰ぎ、大げさに嘆く仕草をしてみせる。
「おお、おお。これはこれは、何と言いますか、野生の本能が為せる業という奴なのでございましょうかねぇ、蒼玉御前?」
「……いい、それ以上は言わないで、いつも思っていることだから」
「だ、か、らっ、道化の戯言に付き合うなァァ!」
紅玉は味方であるはずの蒼玉に魂が震え上がるような叫びをあげると、足元の落ちていた小さなコンクリート片を拾い、全力で道化に投げつけた。
「おっと」
「あツッ!」
残念な事に、紅玉の攻撃は道化が僅かに首を傾げた為に当たらず、更に向こうのいた蒼玉に、小気味良い打突音と共に命中する結果となった。命中した箇所……額を押さえて、蹲る蒼玉に対して、紅玉は謝りもせず、ただ、鼻息を荒々しく噴出するだけである。
「おやおや、近頃の乙女はケータイという利器を使うとばかり思っておりましたが、紅玉御前は随分と過激なコミュニケーションツールを使うのですねぇ」
「ふんっ、ふざけた道化専用よ、これでも十分すぎるわ」
「くくっ、ふざけた事をするのがお仕事の道化に言う言葉ではありませんな」
「言葉で遊ぶ相手には拳で語れって、わたしの中では決まってんのよ」
「これはこれは、昨今の男性に失われていっている雄々しさを感じさせるような男前な事を仰る。あ、ああ、なるほどなるほど、筋肉でモノを考え、力で意思を示す女と書いて、マッスルな漢女というわけですな。ふむふむ、この道化めも様々な女性を見てまいりましたが、確かに、紅玉御前は、中々の漢女振りでございます。ええ、ええ、そのスレンダーさは一見華奢なようでいて、実は弛まぬ鍛錬が生み出した奇跡のような体型なのですね。ええ、ええ、わかりますよ、はい、そんな体型だというのに、全身の筋肉量は下手な男よりもついているあたり、実にマニア受けしそうですね。うんうん、太腿の太さといい、上腕の太さといい、胸も実に男らしいです」
紅玉の形良い眉根や口元がヒクヒクと引き攣り、その視線は向けられるだけで燃え上がりそうだ。
「ケンカ売ってるなら、買うわよ?」
「おや? 褒めたつもりでしたが?」
「あんたの脳みそ、掻き回してあげたら、もう少しは、まともな褒め言葉が出てくるかもしれないわね」
「おお、怖い怖い。紅玉御前、あなた、沸点が低いとか、瞬間湯沸かし器とか、猪女って、周りから言われませんか?」
「……冗談抜きで、わたし、そろそろ、いい加減、ブチ切れそうなんだけど?」
「それは残念。私の誠心誠意なご忠告は届きませんでしたか」
「ふふ、届いてるわ。だから、たっぷりと拳でお返ししてあげる」
「どうやら、これ以上は、道化の戯れにお付き合い頂けないようですな」
紅玉の怒りに対してニヤニヤと笑みを隠さない道化。場の空気が変わり始めたのを受けて、ダメージを回復させる為に、微妙に膨らみ、赤くなった額を癒していた蒼玉も何とか立ち上がる。普通なら流血の一つもしそうな所だが、彼女が纏う精霊の加護によって緩和されたようだ。
「ふふっ、非常に残念なことにございます。この道化めは、この夜毎の逢瀬もとい戯れをとても楽しんでいるのですが……」
「……戯言を」
「いえいえ、これは、正真正銘、本当のことでございますよ?」
その道化の口調とは裏腹に、声音にはそれまでの戯言にはない重みがあった。それに気付いてしまった蒼玉は額の痛みも忘れ、自身でもわからぬ感情に突き動かされて、再び口を開く。
「その言葉が真実だと言うのなら……、その仮面を外して見せて」
「なっ、また!」
「……紅玉は黙ってて」
「な、なな、何言ってるのよ! こんな時に!」
紅玉が文句をいうが、それを聞き流す形で道化と蒼玉の視線は絡み合う。
「な、何、二人で雰囲気作っているのよ!」
「そうですね。……仮面の下を見るのは、私を見事に打倒した後の楽しみにしておいてください」
「……わかったわ」
「無視っ!? 私は無視なの!?」
「では、お二人の相手をすることに致しましょうか」
その道化の言葉に二人の精霊巫は先程までの緩んだ雰囲気を吹き飛ばし、即座に身構える。それを向こうに見据えた道化だったが、特に身構えることも無く、彼が有する魔宝具〝トランプ・レギオン〟を懐から取り出して、悠然とそれを切り始めた。
「また、いつもの足止めをする気ね!」
「あ、それもいい考えかもしれません」
「ふん、端からそのつもりでしょうが!」
いきり立った紅玉は鋭い目で仮面に穿たれた道化の目を見据えるが、それを道化は臆することなく鼻で笑って肩をすくめてみせる。
「まぁ、どうするかは紅玉御前のご想像にお任せしましょう」
「くぁぁ、もう! 蒼玉! 行くわよ!」
「えっ? ま、待って! タイミングを合わせた方がっ!」
「いいえっ! 先手必勝っ! 前から考えていたんだけど、奴が雑魚を召喚する今がチャンスなのよ!」
協同しようとする蒼玉の制止を振り切った紅玉が何事かを呟くと、両手に赤色の短刀が出現し、刃に炎が生じ纏わりついた。そして、紅玉は道化へと一直線に突進し、道化の身を断たんと、凄まじい勢いで右手の短刀を振りぬいた。
「おやおや、拳で語るのではなかったのですか?」
「安心しなさいっ! 峰打ちよっ!」
だが、その短刀は道化に中ることなく、炎光と余熱を残して空を切る。
「それにしては、刃が煌々と燃えているような気がするのですが?」
「少々焦げる程度よっ!」
振りぬいた勢いを利用し、次は左手での一閃。
「ご冗談を、その熱量、掠るだけで全身が燃え上がりそうです」
「蒼玉が即座に冷やしてくれるわ、よっ!」
それもかわされるが、紅玉は舞うように回転して、更に右手の短刀を振り上げる。
「やれやれ、お年頃の乙女があまりにも暴力的になるのは頂けませんな、紅玉御前」
「うるさいっ! もう、戯言は、ウンザリよっ!」
その言葉を最後に、連続して炎をまとった短刀が繰り出されていく。だが、その全てが掠りもせず、虚しくも空を切りだけである。
「このっ、避けるなっ!」
「ふふ、避けるなと言われると、つい、避けたくなりますね」
「なら、避けろっ!」
「はいはい、お言葉通りに致しましょう」
「き~~!」
この会話を聞いてしまった蒼玉は思わず天を仰ぐ。
父様、母様、私にもあのアホな子と同じ血が流れているのですか、と……。
〝青の精霊巫〟の密やかな嘆きをよそに、紅玉の攻撃は更に激しさを増す。対する道化は、短刀と刃から噴き出る炎を熟練闘牛士のようにひらりと交わし、攻撃に組み込まれた蹴り技を柳の如きしなやかさでするりと避ける。そんなやり取りが十数回繰り返されるうちに、紅玉の息が切れ始め、遂には攻撃も止まってしまった。
「くっ、ふ、ぅふぅ、ふぅ」
「おや、息切れとは、もう終わりですか?」
「い、まに、見てなさい」
「……あれが姉だなんて、何故に、このような理不尽が世の中に罷り通るのでしょうか? ……あっ」
虚空に向かってぶつぶつと嘆きを諳んじていた蒼玉が肩で息をする紅玉に気付いて慌てて駆け寄る。どうやら精神的なショックを受けていた彼女は紅玉の攻撃が終わるまで復活できなかったようだ。
その二人の似た姿……どこか抜けている姿を見て、道化は嘲笑ではない、仮面の下の素顔が持つ苦笑を浮かべた。だが、道化が切っていたカードは依然として手の内にある。
「さてさて、次はこの道化めの番ですぞ?」
「あっ、ま、待って」
「蒼玉御前、私としても本当は待ちたいのですが、残念ながら時間がおしておりましてね」
道化は謎な言葉と共に、三枚のカードを中空に放り投げた。
「ふむ、ダイヤのⅥ、クローバーのⅩ、おや珍しい……」
道化の言葉に応じてカードが輝き、そこから次々に現出するのは彼の忠実なる下僕、顔にそれぞれのカードを司るマークを貼り付け、胸に自らの数字をローマ数字で刻み込んだ人形、魔宝具〝トランプ・レギオン〟が作り出す魔法生命体、ナンバーズだ。
「くっ! 燃えなさい!」
「紅玉! 力の配分を考えてっ!」
蒼玉が悲鳴のような声をあげて紅玉を制止しようとするが、時既に遅く、紅玉は両手の短刀を振るい、道化に向けて強大な炎が繰り出していた。だが、その炎は全身を朱色で染められた大きい体のダイヤが遮り、同時に手刀によって真っ二つに切って流されてしまう。
「こんのぉ! 邪魔をするなぁ!」
まさか切り流されるとは考えてもいなかった紅玉はいきり立ち、その美麗な顔に似つかわしくない程の罵声を張り上げると、第二、第三の炎を立て続けて繰り出す。これらもダイヤは切り流そうとするが、流石に精霊巫の攻撃を三度も支えきれず、三撃目に直撃を受け、炎上して消滅してしまった。
だが、ダイヤは主人を護るという目的は達していたし、主人たる道化にとってもそれで十分であった。
「……スペードのエース」
「紅玉っ!」
聞き取った道化の呟き……ジョーカーに次ぐ切り札、その存在を呼ぶ声に嫌な予感を覚えた蒼玉が紅玉に警告を与えると、紅玉は荒い息のまま、道化へと突進する。そんな紅玉をフォローしようと蒼玉も後を追おうとする、が……。
「くっ」
小さく素早い身のこなしのクローバーが蒼玉の前に唐突に現れて進路を塞ぎ、蹴りを放つことでそれを妨害する。
「退きなさい!」
一蹴りで後方へと素早く下がった蒼玉の周囲に氷の塊が浮かび上がると、次々にクローバーへと向かって撃ち出されていく。だが、焦りの所為で狙いが甘かったのか、それらはクローバーに命中することなく、全てを回避されてしまう。それでも何とか蒼玉が攻撃を仕掛けようとし、紅玉が接近しようとするのだが、その僅かな間に、道化が最後に放ったカードが目映い光を放ち、スペードのAが姿を現した。
「我らが主よ、ご命令を……」
「精霊巫のお二人と遊んであげてくれ」
「承知」
道化に傅いたスペードのAの身体は黒一色で統一されており、体操選手のように均整のとれた体つきをしている。その上、先に召喚されていた二枚には存在しなかった、強者の持つ独特の雰囲気を、それこそ、主人たる道化以上に、ただ存在するだけで周囲を圧するだけの空気をその身に纏っていた。
「邪魔よっ!」
「未熟」
だが、それを察することができなかった紅玉は突進の勢いをそのままスペードのエースへと向け、常人では捉えることの出来ぬ疾さで手に持った炎の刃を繰り出しす。
「ッ!」
その一撃がスペードを捉えたかと思いきや、振り下ろされた右腕はスペードによって掴まれており、紅玉は左手での攻撃をする間もなく、自身の勢いをそのまま利用されて投げ飛ばされてしまった。もっとも、投げ飛ばされた紅玉も即座に頭を切り替えており、飛ばされた力を削ぐべく身体を丸めて回転し、結果、ビルの屋上から落下することなく縁に降り立つ。
「ふん、甘いわね」
「さて、それはどうでしょう?」
「ひゃん!」
間が悪いのか魔が降りたのか、ビル風が紅玉に吹き付け、その身体が大きく煽られる。更に、そんな紅玉の背中を道化が厭らしく人差し指でつつく。バランスが崩れてしまう限界ぎりぎりの力という見事なまでにに計算された道化の悪戯によって、大きくバランスが崩れてしまい、紅玉の身体は今にも地上へと落ちそうだ。
「紅玉!」
「ふふっ、精霊巫ならば、この高さ程度では落ちた所で怪我はしないでしょうし、いま少し踏ん張れば耐えられますよ。……もっとも、落下するかもしれないという、人としての恐怖感に負けなければ、ですがね」
蒼玉は即座に助けに走ろうとするが、油断無く身構えているクローバーを前に動けなくなる。そんな姿にお構いなく、道化は話を進めていく。
「さて、今宵の戯れはここまでにしたいと思うのですが、いかがですかな、蒼玉御前」
「わ、私達を見逃すと?」
「くくっ、私は君達と戯れたいのであって、命を奪う為に戦っているわけではないのですよ」
「やはり、あなたは他の人達のように、魔宝具に魅入られては……」
「おやおや、詮索するだなんて余裕ですね、蒼玉御前。そんな事をしていると、紅玉御前が落ちてしまいますよ?」
「あっ」
「う、うぁ、も、もう駄目っ、お、落ちるゥ~」
「相変わらず愉快な人達です。……では、名残惜しいですが、精霊巫のお二方、いずれまた、お会いしましょう」
そう言った後、スペードとクローバーをカードに戻して回収し、道化は紅玉とは少し距離を置いたビルの縁に立つと、蒼玉に対して例の如く気取った風に一礼して、背後に飛び降りた。蒼玉は薄情にも紅玉を放置して、道化が飛び降りた場所に駆けつけ、直下を見下ろす。
道化はまるで蒼玉がこちらに来る事を読んでいたかのように、見下ろす蒼玉にウインクを送り、口元に不敵な笑みを浮かべたまま、自らの姿を繁華街の光の中へと溶かしていった。
「消えた? ……それに、何故、道化師が世の調和の事を?」
彼女達精霊巫は、先程の道化師のように、人々が魔に魅入られて人の道を踏み外さぬようにするべく、魔宝具と呼ばれる不可思議な力を持つ道具を封印したり、国外より入ってくる魔術士達を牽制したり、犯罪を起こした術士こと〝外法士〟を捕縛したりする事もあるのだが、その本来の役割は、道理を外れた業によって乱れた精霊を調整し、世に満ちる精霊の調和を保つことである。
そして、その役割を知る者は彼女の同僚達……宮内庁精霊部に属する精霊巫達と宮内庁上層部の他は知りえないはずなのだ。
だというのに、道化師は本来の役割を知っているのは何故か?
「せ、蒼玉ぅ~、助けてぇ~」
道化師の正体について考え込もうとした蒼玉を邪魔するように、紅玉の情けない声が聞こえてくる。見れば、紅玉の姿は屋上には無く、恥も外聞も無く、ビルの縁にしがみ付いている状態だ。
その姿に溜息をついた蒼玉は考えるのをやめ、姉を助け上げるべく動き出した。
◇ ◇ ◇ 表 / 裏 ◆ ◆ ◆
藍染町からそう遠くない位置に新戸中央公園と呼ばれる広大な緑地公園がある。無味乾燥な都市の中心部、繁華街やオフィス街に近い立地にあって、緑豊かな木々が生い茂っており、オフィス街で働く者や繁華街を行く人々の目と肺に癒しを与えている貴重な存在だ。
そんな公園の一画に先程の道化は姿を現すと、予め定めていたかのように、迷う事無く公園の中心に繋がる整備歩道を歩き始めた。彼が歩く道は限られた地で生を謳歌する木々により、月の光も地面まで届くことは無い。それどころか、木々や大地の呼吸によって発生した夜霧の為、道標となる街灯もぼんやりと頼りない光を放つに過ぎない。
それに加え、公園内は人口百万を越える大都市の真ん中にあるとは考えられない程に静寂であり、騒音の類は耳を澄まさなければ聞こえてこない程に遠い。まるで人の世から隔絶された別世界のように……。
常世へと繋がっているような錯覚を与える薄い霧の中、歩道の両脇に立ち並んでいる木々が突然途切れる。道の一端である公園の中心、中央広場に到着したのだ。そこで道化も一度立ち止まり、帽子に結わえられた鈴を鳴らしながら広場全体を見渡す。
円形になっている広場の真ん中、何も置かれていない芝生の舞台で、影が二つ、十メートル程の距離を取って対峙するように立っていた。その光景を認めた道化は瞬間だけ面白そうな表情をしたかと思うと、澄ました顔で一方の影へと近づいていく。
「おやおや、大将軍殿が斯様な場所に御出でになるとは、実に珍しい」
「道化か……、ならば、終わらせるとしよう」
影の一方、道化に大将軍と呼ばれた存在、頭を除く全身に黒い西洋甲冑を着込んだ偉丈夫は太い眉根の下にある目を見開き、重々しい声で応じる。そして、威圧感を発する三白眼の目で退治する影を捉えると、自らの身長より長大な斧槍……ハルバードを構え、腰を据えた。
この動きに対して、もう一方の影、黒いローブを身にまとった若い男は険しい顔のまま、手にしていたスタッフで素早く中空に紋様を描き……、緊張に上ずった声で、一息に叫ぶ。
「ディ・クァフレッ!」
スタッフとその周辺より次々に炎の球体が生じ、夜霧を払いながら黒甲冑の男へと突き進む。放たれた炎はその一つ一つが、先程、紅玉が道化に対して放った火球よりも盛んであり、人一人を容易に焼き尽くしてしまうのでは思わせる程に強大だ。
そんな炎の一群が黒甲冑の男に当たる瞬間。
「フンッ!」
偉丈夫の一声で炎群は吹き散らされ、黒ローブの男の胸にはハルバードが突き抜けていた。
致命傷を負った男は信じられないといった表情を浮かべ、口腔より鮮血を噴き出すと、断末魔も出せぬままに絶命する。それを見て取った道化は乾いた拍手をしながら、黒甲冑の男〝制武大将軍〟へと近づいていく。
「いやはや、お見事でございます」
「この程度の輩が相手では、自慢にもならぬ」
道化の心無い賞賛につれなく答えると、浅黒い肌の偉丈夫は絶命した男に近づき、死者を縫い止めていたハルバードを引き抜く。胸部に大きく穿たれた穴から早くも黒くなり始めた血潮が流れ出し、先の鮮血に塗れていた芝生を新たに濡らす。その様に一瞥すら向ける事無く、ハルバードを一振りして、血糊を飛ばす大男に対して道化が問いかける。
「始末は如何いたします?」
「我に死人を弄る趣味は無い。燃やしてやれ」
「仰せのままに」
既に背を向けた大将軍に対して、恭しく頭を下げた後、道化は懐より六芒星とミミズが這ったような字が描かれた札を三枚取り出し、血の気を失った躯に貼り付ける。
「土は土に、灰は灰に、塵は塵に」
その言葉と共に札に蒼い炎が灯って躯や芝生に広がる血溜まり、身に纏っていた黒いローブを燃やし始めるが、不思議な事に芝生に燃え移る事は無い。いや、それどころか、人や繊維を焼く臭いすら感じられない。結局、札から生じた蒼い炎は三十秒も経たぬ内に躯のみを焼き尽した。残っているのは、かつては人やローブだった灰だけである。
一つの生命が敢え無く消えた最期の場所を感情の無い目で一瞥した道化は、先に歩き出した偉丈夫の後を追いかける。彼が背を向けた後、一陣の風が灰を芥の如く運び去っていった。
円形広場から伸び出る幾つかの道の一つへと向かう大男に追いつくと、道化は口元を軽く歪ませたまま問いかける。
「我らが本拠への侵入者とはいえ、制武大将軍ともあろうお方が自ら御出ましになるとは、どういう風の吹き回しです?」
「だからこそだ」
「ふふっ、なるほどなるほど、本拠の迷宮結界を抜けたとなると余程の術士か強者と考えられたと」
「偶然だったようだがな」
微塵も表情を動かさぬ偉丈夫の驕りも貶めも無い淡々とした物言いに道化は頷いてみせる。
「それはそれは、偶然にも迷宮結界を抜けてしまった結果、大将軍殿と戦う破目になるとは……、どこの何者かは存じませぬが、強運であり凶運でしたな」
道化が自然に帰った男に対する哀れみを表すべく、白々しく十字を切る仕草をする。その自らの心無い仕草に道化が嘲笑を浮かべていると、緑樹の陰より四足の獣が走り出て、道化の肩まで素早く駆け上った。
「おや、お役目ご苦労様です、黒猫殿」
道化が述べたように彼の肩に居座った黒い獣は猫のように見える。見えるのだが尻尾が二又に分かれており、明らかにただの猫ではない。そんな黒猫が道化の首に尻尾の一本を巻きつけつつ、その耳に顔を寄せ、ぼそぼそと何事かを呟く。
「ふむふむ、全ターゲットに対する奇襲及び後方支援施設への焼き討ちに成功ですね、ふむ、ターゲットに関しては粉々にバラシタ後、魚の餌にする予定、ですか、わかり、え、あ、はいはい、精霊巫のお二人もいつものように肩を落して引き上げた、ですね、それもわかりました」
道化は情報を伝えてくれた黒猫に対して、お礼代わりに喉を一頻り撫でる。黒猫は目を細めてそれを受けていたが、一声鳴くと道化の肩より飛び降り、二本の尻尾を立てながら木々の間へと消えていった。
「今宵、予定していた駆除は概ね終わったようです」
「そうか」
「しかししかし、我らが宮廷が彼の地よりこの地に逃れて以来、そろそろ二百年になろうと言うのに……、唯一神教会の皆様方も、いい加減に諦めるという言葉を覚えてくれぬものですかねぇ」
「つまらぬ面子か、或いは、内部闘争でも起きておるのであろう」
「その度に静かに闇夜に潜む我らが迷惑をこうむるとは……、おお、おお、唯一神教の権威を己が欲のままに利用する愚物共に災いあれ」
芝居がかった風情で道化は呪詛を吐くが、偉丈夫は黙して応じない。もっとも、道化は相手にされていない事を気にしていないようで、そのまま話し続ける。
「ところで大将軍殿、この所、我らが宰府内にて、唯一神教会を馬鹿に出来ない動きがございますが、ご存知ですかな?」
「夜魔共の事か?」
「おお、ご存知でございましたか。……して、如何いたします?」
「既に閣下の耳にも入っておる。しばらくの間、放っておけとのことだ」
「ふふ、一定のラインまでは不満の解消という扱いですな。承知いたしました」
道化が口元を歪ませながら応じた所で、彼らが歩く道先に、彼らが仕える主が住まう洋館が浮かび上がってきた。夜霧の中に浮かび上がるのは赤レンガで造られた二階建ての瀟洒な洋館であり、玄関に近い格子窓からは弱い灯りが漏れている。また、洋館の前面にはテニスコート二面分程のレンガ敷きの前庭があり、その周囲には蔦を絡ませた金属の格子塀が巡らされている。
二人が洋館の敷地と外とを隔てる門に近づくと、錆付いた門扉が動力源もないのに軋んだ音を立てて開いた。
「だいぶ錆付きましたね。ここもそろそろ電動式の自動門扉に変えたらどうです?」
「予算が足りぬ」
「自分で言うのもなんですが、私、結構稼いでいるはずですが?」
「洗う手間隙を考えよ」
世知辛い事を話す二人が通り抜けると一人でに閉まる。その不思議な門扉と格子塀を仕切る赤レンガの門柱には〝国立近代交流歴史館〟と銘打たれた、風化が著しいプレートがはめ込まれていた。
玄関より洋館に入ると床を赤い絨毯で敷き詰めたエントランスホールがあった。天井に設えられた時代を感じさせるシャンデリアと壁面の燭台に明かりが灯されているが、光量の不足からか室内の薄暗さは否めない。入り口から見て正面にある受付らしき場所があるが、誰もいない。そんな受付の左右には館を横断する廊下と緩やかにカーブする階段があり、階段は二階部分で合流している。
この人気の無い薄暗いホールに入ると、道化と偉丈夫は勝って知ったる様子で階段を上っていく。
「将軍、ホールも少々暗いようですが、灯りは電気式に換えたはずでは?」
「閣下曰く、節電だそうだ」
「おやおや、今の世に合わせたのでございますか」
生活感溢れる言葉を交わしながら階段を上りきり、ホールに面した両開きの扉の前に到達すると、ここもまた自然と扉が開いた。
扉の先にある三十畳程の室内には、五人の男女の姿があった。最奥の一段高くなった場所に二人、手前側の赤絨毯が敷かれている場所で跪く三人である。そんな彼らに道化が名乗りを上げる。
「道化めと制武大将軍殿でございます」
「ああ、二人ともご苦労だった。……これで全員だな?」
最奥の二人、出入り口に正対する椅子に座した一人の赤いドレスを着た金髪の少女が道化の言葉に応じると、椅子の左後部に立つ黒ワンピースの女に問いかけた。
「はい、閣下」
喪服の女が椅子に座る少女に応えている間に、制武大将軍と呼ばれた男は壇の手前まで進み、少女の左半身を守るように立つ。一方の道化も赤絨毯の三人と壇上の二人との中間、甲冑男の反対側、自らの存在を消すように壁際の暗がりに立つ。それを受けて、鮮血で染め上げたような紅を身に纏った少女が厳かに告げる。
「では、まず、今夜の掃討計画の首尾から報告を聞こう」
可憐でありながら不思議な重みが含まれている少女の声音に応じたのは、跪いた三人の内で一番左端に位置するスーツ姿の男、まったく感情の動きが感じられない怜悧な表情を持つ青年だった。感情の色が薄い声が広間に響き渡る。
「私からご報告申し上げます。今宵の計画ですが、道化の陽動により精霊巫や刑事警察の介入といったイレギュラーは発生することなく、全てが順調に推移し、先程、全目標の沈黙と破壊を確認致しました。現在は後始末に取り掛かっております」
「ふむ、それは重畳である。それで、我々の損害は?」
「この規模の行動としては至って軽微であり、我が方は若干名が負傷した程度で済んでおります」
「そうか、それは何よりだ。……が、件の連中が突飛な行動をとってもおかしくない狂信の輩である以上、これからどう動くは読めぬ。今後の警戒も頼むぞ」
その表情に微かな憂いを浮かべた少女に対して、無表情の男はただ静かに頭を下げた。
「次に、昨今、市井を騒がせておる魔宝具についてだが、何か新たな報告はあるか?」
「閣下、私から申し上げます」
そう応じたのは一番右端で畏まる大胆に胸元を見せる黒いドレスを着た豊満な女だ。少女の前で仁王立ちする制武大将軍に、並の男ならば、即座に心を搦め捕られそうな視線を微かに向けた後、艶がたっぷり含まれた蠱惑的な唇から色を含んだ吐息にも似た声が発せられる。
「まず、魔宝具の出所ですが、私が管理している物の数と作成できる者らを一通り調べてみましたが、特に不審な所は見当たりませんでした」
「では、外から入ってきている、ということか?」
「無論、我々の内から出ている可能性も残っておりますが、私は外からの可能性の方が高いと考えますわ」
「ふむ」
少女がちらりと暗がりに紛れた道化を見ると、その視線を受けた道化も常に浮かべている口元の笑みを消して頷き返した。
「ならば、そなたには我々が手に入れた魔宝具の解析を委ねる。何者の手によって作られたかを解き明かせ」
「心得ました」
「獣魔将」
「はっ」
少女の呼びかけに答えたのは、この場で言葉を発していなかった残りの一人、居並ぶ三人の中で真ん中に位置する制武大将軍に劣らぬ体躯を持つ男だ。ザンバラな黒い長髪に道着のようなモノを着こんでいることから、武術家のようにも見える。
「外から入ってくるルートの調査については、そなた達、獣魔に任せる」
「承知しました。早々に発見して見せましょう」
「うむ」
と、ここで言葉を切った少女は表情を改めて、その声音を厳かにする。
「この魔宝具の件は今宵の自衛と異なる性質を持つ故、宮内庁より要らぬ疑いを招くことになりかねぬ。彼の機関とは適度な信頼関係を保つのが最善である以上、この国の公安が動き出す前に、早急に解決したい案件である。よって、そなた等の働きを期待する」
「「「はっ」」」
三人の男女……魔将と呼ばれる幹部達は、彼らの主君たる少女に対して恭しく頭を下げた。
情報交換を兼ねた世間話をしてから、三人の魔将がそれぞれの役目を果たすべく広間を去っていった後、場に居残ったのは〝闇の女公爵〟や〝血塗れの乙女〟と裏の世界で綽名される紅の少女と、彼女を支える文武双方の重鎮、そして、道化である。
まず、口火を切ったのは、常の如く道化である。
「次から次へと、本当に、よくよく問題とは起こるものですねぇ」
「道化、この闇の宮廷においては問題が起きない方が珍しいわ」
そう道化に応じたのは紅い両眼で道化を見据えた紅の少女だ。その視線を受けつつ、道化は大げさに首を振って見せる。
「人より外れた我らですら、人から溢れ出る欲望に振り回される、といった所ですかな?」
「ふふ、そうよ、その通り。私も永い時を生きてきたけど、人は変わったように見えて、根元の所では昔とまったく変わっていない」
「人の欲深さこそが文明の原点、といった所ですかな? それにしても珍しいこともあるものです。閣下は滅多なことでは、ご自身の歳の事を仰らないというのに……、確か、今年で……、千八百十……」
「ッ! 道化……、それ以上言うと、殺すわよ?」
「おおぉ! それでこそ、我らが血塗れの乙女。やはり、我らが女公爵様はいつまでも精神がお若くなければ。ええ、ええ、自称永遠の十四歳、時を経ぬ淑女と主張できなくなりますからな」
道化がニヤニヤと笑みを浮かべながら自らの君主をからかっていると、少女が掴んだ椅子の肘掛がミシミシと音を立て始めたことを見るに見かねたのか、黒衣の女が口を挟む。
「道化、程々にお願いします。公爵様の椅子も高いのです」
「これはこれは、宰相殿、何とも世知辛いを仰りますな。そこは宰相殿の甲斐性の発揮どころでは?」
「ええ、ですから、今、発揮しております」
「むむ、この道化、一本取られましたな」
「あ、あなた達ね……」
腹心の悪意はなくとも手厳しい言葉にすっかり毒気を抜かれてしまった少女はそれ以上の言葉を紡ぐことができず、大きな溜め息を吐き出す。そして、息抜きは終わったと言わんばかりに、顔付きを君主としての真面目なモノへと切り替えて、道化に問いかける。
「道化、あなたは我が宮廷から魔宝具が流出していると思う?」
「さてさて、私は道化でございますので、まったくもって難しい事はわかりませぬ。けれどもけれども、人より外れた我らであっても、人の世より隔絶した世界で生きることはできず、それに寄り添って、或いは、関わって生きているのが現実であることは知っておる次第でございます」
「……そう、ね」
道化が言いたいことを察した少女は一つ頷いて見せると、道化に言い渡す。
「私からは……、我が宮廷は公には一切罪を問いません。それぞれにあった形で始末をなさい」
「御意にございます」
道化が抱えるもう一つの顔、闇の宮廷の掟から外れた者を取り締まり、時に粛清も担う監察者としての顔で一礼する。が、次の瞬間には道化の顔が再び表に現れており、一礼するまでの人物と同一であるのかと疑いを持ってしまいそうな程だ。そんな道化の変わり身の早さに、紅の少女は呆れた表情を作って見せる。
「変わり身の早さは流石というべきかしら?」
「いえいえ、この私めの変わり身の早さ等はあくまでも表立っての演技。真に大切な所は、閣下に対する忠誠は微塵も揺らいでおりませぬ。ええ、ええ、表面上は従ってみせる輩と同じではございませとも」
「……歴代の道化を見て、いつも思っていたけど、どこまで本当なのやら、怪しい所よねぇ」
「なんとなんと、この私めだけでなく、歴代誠心誠意お仕えしてきた、それこそ身も心も閣下に捧げてきた代々の道化をも否定する等、なんとも嘆かわしいお言葉。代々の道化を虜にしては情熱的に愛玩されておきながら、まったくもって出てくる言葉とは考えられませぬ。いやはや、以前から思っておった事でございますが、本当に閣下はツレナキお方でございます。はい、流石はどこまでも男心を弄ぶ永遠の乙女(笑)というべき所ですな、ええ」
道化が言葉を積み重ねるにつれて、闇の宮廷の主宰者の眉根がひくひくと引き攣り、口元には強い笑みが浮かび上がってくる。それに気付いていながらも、道化は言葉を止めない。
「しかししかし、齢を重ねても尚、年若い心根でおられるというのは、大変でございましょうなぁ。この前もケータイでメールを打つのに四苦八苦されていた姿を目撃した際には、この道化め、不覚にも感動してしまいました。ええ、ええ、常に進取に富んだ閣下の精神、実に素晴らしい。人間であろうとなかろうと、挑戦することを忘れてはいけないということを、不肖、この道化、しっかりと学ばせて頂きました。……おや、閣下、顔色が赤くなっておられるようですが、ご気分がすぐれないので?」
「ふふ、ふふふふふ、道化」
「はいはい、なんでございましょう、閣下」
「偶には、私も、運動したいと、思うのだけど?」
「それはそれは、運動不足の閣下には大変結構なことでございますな。して、運動の内容は?」
「追いかけっこなんて、どう? 私が鬼で、道化が逃げるの」
「なんともなんとも、とても楽しそうでございますね。ならば、精々、捕まって折檻されないよう、この道化めも逃げさせていただきます。それでは、閣下、ごきげんよう」
「あっ、こらっ! 道化、消えるのは反則よっ! ちょっと、待ちなさいよっ!」
がたりと椅子から立ち上がった少女だったが、既に道化は部屋に溶け込み、姿を消していた。そして、何もない空間から声だけが響く。
「では、閣下、次の会合にて、またお会いしましょう」
「こらーーーーーっ! この卑怯者ぉーーーーーっ! 逃げるなぁーーーーーっ!」
煽るだけ煽って逃げ出した道化に対して盛大な罵声を上げる女君主の年恰好相応の姿を、文武の重鎮達はそれぞれの常の表情を浮かべることで見なかったことにするのだった。
◆ ◆ ◆ 裏 / 表 ◇ ◇ ◇
昨夜の敗戦より一夜明け、紺のブレザーにチェック柄のプリーツスカート姿の〝青の精霊巫〟こと深山 藍とその姉で〝赤の精霊巫〟の深山 茜の二人は、彼女達が通う私立新戸光ヶ丘高校を目指して、春になると桜並木が美しい高校までの長い坂を駆け上っている。
「もう、姉さん、いい加減、自分で起きてよ」
「うぅ、昨日は遅かった上、家に帰ってからも母様に説教されて、睡眠不足になったんだから、寝坊しても仕方ないじゃない」
「それは私も同じよ。ほら、そんな情けない顔してると、姉さん狙いの男の子に幻滅されるわよ?」
「いいの、この程度で幻滅するような男はこちらから願い下げよ。そっちこそ、憧れの先輩にがっかりされるんじゃない?」
「はぁ、私にはそんな人はいないことくらい、知ってるでしょう?」
両者共に長短の髪を揺らせて言い争いつつ走っているが、彼女達と同じく学校までの道を急いでいる他の生徒たちとは違い、息を切らすようなことはない。この登校マラソンを見た目麗しい彼女達に声をかける好機だと考えて、時折、横に並んで走ろうとする男子生徒がいないこともないが、そのペースに付いていけず、声をかける事すらままならずに沈んでいく。今朝も家を出た当初よりまったく走る速度を落とさなかった結果、知らぬ内に、三人の勇敢な男子生徒達を通学路へと沈めていたりする。
そんな罪深き乙女二人が目指す場所、新戸光ヶ丘高校の校門が見えてきた。と、同時に、ほぼ毎日、校門の前に立って、遅刻者をチェックしている忌々しい存在にも気づいた。特に、その存在を苦手とする茜は、彼我の距離が声が聞こえる距離にも関わらず、思わずといった風情で声を上げる。
「げぇっ、久藤っ!」
「ね、姉さん……」
茜の声で存在に気付いたのであろう、久藤と呼ばれた男が掛けている眼鏡を押さえつつ、話しかけてきた。
「なぁ、深山姉。お前が俺の事を嫌うのは別に構わないんだがな、仮にも生徒が教師に向かって、げぇっ、とか、久藤っ、ってな、呼び捨てはないだろう?」
「あっ……、そ、その、すいません。先生が……、その、少し、私の苦手な人に似てまして……」
「……そうか」
嫌いの部分を否定されなかった所為か、年若い男性教師は若干落ち込んだようだ。この姉の失態をフォローする為、その妹が若い教師に話し掛ける。
「お、おはようございます、久藤先生。朝からお仕事、お疲れ様です」
「はい、おはようございます、深山藍さん。一応、仕事だから言わせてもらうけれど、もう少し、早く来た方がいいぞ?」
「ええ、今後、気を付けます」
「うん、まぁ、君自身は大丈夫なんだろうが……、その、なんだ、姉の面倒を見るのは大変だろうけど、頑張ってくれ」
「ありがとうございます。久藤先生位ですね、私の苦労をわかってくれるのは……」
「むぐっ」
妙に息の合った言葉による精神攻撃を受けた茜だったが、次の瞬間には復活して藍の手を引く。
「ほら、藍、遅刻したら駄目だし、行くよ」
「あ、うん」
「深山姉、できた妹にこれ以上の迷惑を掛けないよう、まっすぐ教室に入れよ?」
「それくらいはわかってるわよ、久藤、せ、ん、せ」
わざとらしい茜の先生付けに、久藤が嘆くようにがっくりと肩を落としてみせると、その仕草に面白いモノでも感じたのか、深山姉妹は揃って笑声を上げた。
二人が他の生徒達と共に昇降口に消えるのを見届けた後、久藤は少しずれてしまった眼鏡の位置を直しながら、小さく呟く。
「やれやれ、あの勘の鋭さ、野生の本能という奴なんですかねぇ」
その声に応えるように、久藤の傍にある門壁の上で、気持ち良さそうに朝日を浴びている黒猫が一声鳴いた。その声を聴いた久藤は軽く肩を竦めると、自身の表の仕事を全うすべく、再び教師の顔へと表層を切り替えた。彼にとっての穏やかな時間が始まる。
三人称形式練習用作品。
よくありそうな設定で内容も深く考えず、ただなんとなく一場面を切り取るように書いてみました。
当然ながら、練習用に書いたものなので、続編なんて気の利いたものはありませぬ。