七話
『我らはこれより備中より帰還し、明智に討たれた大殿の仇を討つ! 信一は、我が軍の移動速度を高めるために準備を怠らないように』
そして遂に、運命の時が訪れる。
天正十年(1582年)の六月二日。
やはり史実と同じように、明智光秀の軍勢が本能寺と二条城を襲撃して信長・信忠親子が自害した。
歴史でも有名な本能寺の変の発生である。
信長親子の死を確認した光秀は、畿内の掌握を急ぎつつも周辺の敵対大名へと密書を送り、前線に出ている軍団長の足を止めようとする。
だが、毛利家へと密書を届ける予定であった者が当時高松城を包囲していた羽柴軍の手の者に捕まり、その密書から信長横死の事実が漏れる事となる。
秀吉は急いで毛利家との講和を纏めると、高松城城主清水宗治の切腹を確認してから急いで畿内へと軍を戻す事になる。
かの有名な、『中国大返し』であった。
一方、姫路にいたシンイチは秀吉の迎え入れ準備を急ピッチで行いつつ、畿内の情報を収集するために多数の密偵を放ち、秀吉の許可を得てから大坂在陣中の丹羽長秀、神戸信孝及び、有岡城の城主池田恒興らとも連絡を取り始める。
他にも、丹後を有する細川幽斎と大和に領地のある筒井順慶の方は、下手な事をして敵に回られても面倒なので、これは放置している状態であった。
また、片桐且元に自分の手勢を預けて、播磨・摂津国境付近の偵察と羽柴軍の進路の安全確認なども行わせている。
「さすがは、信一よな。今回は姫路は長政に任せるので、お前は出陣せよ」
「ははっ!」
史実通りに、羽柴軍は一路山城を目指して出陣する事となる。
途中、明智方に付きそうな淡路に別働隊を送ってこれを落とし、先の丹羽長秀、神戸信孝、池田恒興とも連絡を取り合って彼らの軍勢と合流。
更に、茨木城主中川清秀、高槻城主高山重友などの摂津諸将の参加もあり、軍勢は一気に四万人以上に膨れ上がっていた。
もはやこの時点で、明智方に勝ち目は無かった。
遠戚のはずの細川・筒井にも見捨てられ、史実通りに明智軍は山崎の戦いで大敗。
敗走中に、落ち武者狩りの手にかかって命を落とす事となる。
「信一よ。ワシは、お前が二人欲しいと思う事があるな。戦か政務か、本当に迷ってしまうからのぉ」
シンイチはこの戦いでも前線で活躍し、同じ近江衆で本能寺の変後に長浜城を落とした阿閉貞征・貞大親子の首を獲っていた。
史実では共に秀吉に捕まって処刑された人物なので、基本的に歴史の流れとは大差は無いようではあった。
それと、既に元服して初陣を迎えていた吾一達も、それなりに名のある武将や、少なくとも足軽達をそれぞれに討ち取っている。
吾一こと、長江吾一郎真継という名前をシンイチが適当に付けていたのだが、他にも彼を含めて十一名の孤児全員が武士として初陣を迎えている。
急速に羽柴家内で出世を遂げたために股肱の家臣がいない事からシンイチが昔から教育を施していた事と、この乱世で己の身を立てようと考えるとやはり武士であり、しかも身近にチャンスがあるという理由から、彼らは迷う事なくシンイチから名前を貰って武士になっていたのだ。
それと、あとの残り九人は全て女子なので、嫁ぎ先をどこにしようかと親代わりとして悩んでもいたのだが。
「とにかく、まだ光秀の生死が確認できておらん。畿内の平定を急ぐ事とする」
山崎の戦いに勝利した翌日の六月十四日。
唯一の懸念であった光秀の死が確認されて、秀吉方の諸将の間に安堵が広がる。
秀吉は、明智方の勝竜寺城を配下に包囲させつつ近江に入っていたのだが、シンイチは先に自分の軍勢と秀吉から預かった合計二千人ほどで急ぎ安土城を押さえる事を進言していて、それが認められて軍を進めていた。
確か安土城の火災が十五日であったので、急いで確保しようと動く事にしたのだ。
理由は、せっかくの貴重な文化財産が惜しいからという、半分シンイチの趣味から出たものであったのだが、無事に安土城とその城下町に軍勢を入れる事に成功している。
「ところで、信雄様は?」
「どうやら、ご自分の領地に戻られたようで……」
本能寺の変の時は伊賀の国人衆に不穏な動きがあったり、四国攻めで兵力を出していたために光秀とは戦わず、今も安土にシンイチが軍を入れた途端にいなくなってしまう。
シンイチは、ただ信長の息子にしては残念な出来である信雄に呆れるばかりであった。
それでも、信長の家族を自身の根拠地に避難させていた蒲生賢秀・氏郷父子の内、息子である氏郷が手勢を率いて来たので彼と初めて顔を合わせる事には成功している。
「ほう。そなたが、亡き大殿もお気に入りだった信一か。本当に、大きいな」
シンイチは、まだ賦秀を名乗っている氏郷にバンバンと思いっきり背中を叩かれるが、どうやら彼に気に入られたようであった。
「蒲生様。すぐにも、秀吉様による近江の平定が始める予定です」
「そうか。ならば、俺達も共に行くとしようか」
安土城に留守番兵を残したシンイチと氏郷は、翌日から秀吉と共同して近江の平定に従事する事となる。
長浜城の妻木範賢、佐和山城の荒木行重、山本山城の阿閉一族残党・山崎堅家と。
シンイチと氏郷は、常に先陣も、敵城内への突入も、手柄首も争うようにして攻撃を行い、共に多くの手柄を立てていた。
「お前、大殿の言う通りにやるじゃないか」
「いえ、蒲生様ほどでは」
氏郷は、戦場では常に前に出て敵軍と戦うという、自分と同じ戦闘スタイルを持つシンイチの事をライバルであると感じると同時に、とても気に入ってもいた。
特定の武芸は習っていないようなのに、そのパワーと体の大きさに似合わぬ効率的な動きで敵を討ち倒す様子に、一対一では絶対に勝てないと感じたのだ。
遙か未来の軍の特殊部隊が会得している戦闘術なので、この時代の武芸とはかなり違うのは当たり前の事ではあったのだが。
一方シンイチの方も、氏郷の軍の統率の上手さに習うべき点は多いと感じていた。
つい最近になってから、ようやく千人単位の兵を率いるようになっていたので、兵士の統率という点ではどうしても氏郷の方に分があったからだ。
それでも、二人の活躍にあまり差が無い理由は、実は簡単な事であった。
この時代の武将は、年を取って経験を積んでいる人物ならともかく、若い武将などは兵士達を戦わせるために積極的に前に出る必要があったからだ。
シンイチも、氏郷も、常に自分が前に出て勇戦すると、他の家臣や兵士達にもそれが感染する。
逆にこの時代の足軽達は、士気が下がったり、少しでも戦に負けると簡単に逃げ出しもする。
『将が前線に立つのは良くない』などと後世の書物にも書かれていたがそれは相当に大物になってからで、最初は誰だって自ら槍を持って武功を稼ぐ事から始めるのが普通であった。
実際に石田三成や増田長盛なども、これら一連の戦いでは自分で敵軍の兵士を討ち倒している。
「お前、三国志の呂布みたいだな」
「いえ、蒲生様には勝てませんよ」
「信一、蒲生様とか言うなよ。同じ今は亡き大殿から目をかけられていた同士だ。俺達は謂わば兄弟のようなもの。今日よりお前は俺の義弟だから、俺を義兄さんと呼ぶのだ」
「義兄さんですか?」
「そうだ! 今から、義兄弟の契りを結ぶぞ!」
シンイチは、妙に気に入られた氏郷から勝手に義弟にされてしまっていたが、その他は概ね順調に事態は進んでいる。
既に、光秀の居城である坂本城は堀秀政隊が落としていたし、篭城を続けていた勝竜寺城も羽柴軍に降伏している。
明智家の重臣達も次々に戦死や自害が確認されていたし、唯一残った大物である斎藤利三も、捕縛され洛中引き回しのうえ六条河原で磔刑されていた。
「美濃や尾張にある、大殿と信忠様の所領の平定も終わりか」
秀吉の命令で若狭まで進出していたシンイチと氏郷は、そこでも明智方に組した元若狭守護職の武田元明や、その家臣達や、彼の甥でもあった京極高次・高知兄弟も討っている。
「(うーーーん、勢いで討ってしまったが……。歴史が変わったかも)」
いくら信長の妹であるお市の方の娘達の従兄弟や、名家出身者とはいえ、信長を討った光秀に組した罪は重いと感じたシンイチと氏郷は、逃げる彼らを追撃して、その逃亡先である若狭大飯郡で彼らの首を獲っている。
少し残酷な気もしなかったが、時は戦国時代である。
シンイチは冷静に彼らの首を獲り、一族の女子供達を捕らえていた。
「義兄さん、後で恨まれそうですね」
「それが、この時代の武士の定めさ」
捕らえた武田元明の正妻である竜子の刺すような視線を感じながらも、二人は急ぎ尾張への道を急ぐのであった。
六月二十七日に行われる、清洲会議へと向かうためである。
「信一よ。大方の流れは決めてあるのじゃが、お前に何か考えはあるか? どんな献策でもいいぞ。これはと思えば、採用するのでな」
自分達の主君であった信長親子を討った明智光秀も成敗され、亡くなった織田信長の跡目と領地を再分配するために、清洲にて信長の子息と重臣達が集まって会議が行われる事になっていた。
後の世に言う清洲会議である。
秀吉は信長の仇である光秀を討った立場であり、事前に丹羽長秀などにも事前に根回しをしていたので、筆頭家老である柴田勝家よりも優位な立場に立てるはずであった。
間違いなく勝家は自分が烏帽子親となった三男信孝を押すつもりであろうが、秀吉は亡くなった信忠の遺児である三法師を押し、その後見人に納まる予定であった。
「滝川一益様を欠席させるというのは本当ですか?」
「関東から、無様に逃げ戻って来たからの」
清洲会議に参加する予定の織田家重臣は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の四人であったが、武田氏滅亡後に信濃二群と上野一国の主なり、関東管領として赴任をしていた滝川一益は、信長の死後に乗じて侵攻して来た北条氏直に敗北。
本拠地であった上野厩橋城を放棄して、伊勢長島にまで逃げ戻っていた。
この無様な負け振りに、秀吉も勝家も激怒して清洲会議へは出席させない事をシンイチは歴史の資料から知っていたのだ。
「一益様の出席も認めるべきです」
「なぜそう考える?」
「次の戦いに備えるべきでしょう」
シンイチは、この会議で秀吉が自分の思う通りに跡目と領地を決めると、必ずあとで決着を付けないといけない人物が現れるという予想をする。
「誰だと思う?」
「柴田様以外におりますまい。信考様の烏帽子親で彼を押す柴田様と、三法師様を押す殿のよる争い。私は、合戦以外でケリが付くとは思っていません。ならば、敵は少ない方が肝要かと。彼も自分が負け戻って来ている事は理解していますから、加増などの要求はしないでしょう。ただ、織田家重臣としての名誉は保たせるべきかと」
秀吉の取り成しで清洲会議に出席できたとあれば、彼は必ず感謝するはずであった。
それに、既に彼は六十歳近くで、武田家滅亡の際にも領地よりも珠光小茄子を信長に求めたという。
ならば、あと数年を秀吉の忠実な協力者として頑張って貰い、あとは高価な茶器でも与えて優雅な引退生活を送らせてあげればよい。
彼の一族や家臣などには有能な人物も多く、彼らを味方とすれば大いに助けになるであろうと。
シンイチは、自分の考えを秀吉に語る。
「なるほどの……」
「それに、あの信雄様が黙っているとも思えません。最悪なのは、当面の対立関係を捨てて、信雄様と信考様が組んでしまう事です。更に……」
「まだ何かあるのか?」
「徳川殿の動きがわかりません」
信長の同盟者という事にはなっているが、立場的にはほとんど服属国に近い立場であった徳川家康。
彼が、信長という重石が取れた途端にどう動くのか?
シンイチは、甲斐の国主であった河尻秀隆が武田軍の残党に討たれ、信濃を領する森長可が逃げ出して空白地帯化した両国を彼が奪いに来るであろうと。
更に、両国の領有を認めて貰うために、信考や信雄と組む可能性があるという予想も伝える。
「徳川殿と争う際には、滝川様は使えます」
僅かし期間であったが、上野にいた一益は国人達からの支持が高かった。
でなければ、信長の死後にその事実を伝えたにも拘らず、二万人もの軍を集められるはずが無かったからだ。
しかも、上野より退去する際には、自身が預かっていた上野国衆の人質を解放して退去していて、その去り際を見た倉賀野秀景、真田昌幸らは木曾まで一益を警固している。
「将来的に、徳川殿から信濃と甲斐を取り戻す時にも滝川様は大いに貢献すると思われます」
「なるほどのぉ。信一がそこまで遠くを考えられるとは思わなんだ」
「あくまでも、ただの予想でなのですが……」
当然、これは嘘で歴史の資料からの話であったが、秀吉は素直にシンイチの将来予測に感心しているようであった。
「確かに、そなたの言う通りじゃの。このような時代とはいえ、武士の面目を潰す事は余計な恨みを買うか……」
その後、シンイチは清洲会議には出られないものの、未練があって近くにいた滝川一益主従と極秘に会談を行う。
「私や柴田殿でも、上野にいたら滝川殿と同じ結果になっていたのかもしれませんなぁ。丹羽殿や池田殿にも話をしておきますので、会議には出ていただきたく」
「本当か! 筑前!」
完全に清洲会議出席の目を摘まれたと思っていた一益は、秀吉の計らいに素直に喜びの声をあげる。
「ただし、大殿の遺領からの加増は……」
「いや、それは私もわかっているのだ。現状維持でも過分な温情だと理解している」
今までにも、多くの織田家家臣達が一回の失敗でも追放されている。
それが織田家という場所であり、そこに長年在籍する一益は、誰よりもそれを理解していた。
「それと、私は織田家の跡目は三法師様が良いと思うのです」
織田家は、既に尾張の一大名ではない。
となれば、その跡目は血統の正当性こそが重要であろうと。
確かに三法師はまだ幼かったが、それは彼が成人するまで重臣達で支えれば済む事だと。
「わかった。私は、筑前の意見に賛同する事としよう」
こうして、一益も清洲会議に参加する事となる。
会議の参加者で、事前にそれを知っていた池田恒興や丹羽長秀は特に何も言わずに彼の参加を認めていた。
彼らにも、光秀の傍にいながら自分達の軍勢を離散させて仇討ちの主導権を秀吉に奪われてしまったという痛い過去が存在したからである。
余計な藪は突きたくないのが、心情であろう。
だが、一益出席を事前まで知らなかった勝家の方は容赦なかった。
「どの面を下げて、関東から逃げ帰って来たのか!」
優秀な武将ではあったがその辺の配慮には欠ける勝家は、会議の場で大声で一益を罵倒する。
「(くっ! それは、私もわかっている事なのだ……)」
「勝家殿。光秀の謀反で、織田家は多くの貴重な人材を失いました。滝川殿ほどの有用な武士に次の機会を与えるのは当然かと」
秀吉の取り成しによって、清洲会議はほぼ史実通りの結果となる。
ただ唯一の違いは、滝川一益が勝家に対して隔意を抱いた事と、秀吉に対して恩義を感じるようになったという事実であった。
これによって、歴史の流れが変化を見せるのかはまだ不明であったが。