表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/32

六話

 天正七年(1579年)に入り、上月城を巡る攻防では敗退したものの、大きなダメージを受けなかった秀吉は、その後は順調に播磨の支配を進めていた。

 とはいえ、三木城の城主である別所長治はいまだに抵抗を続けており、秀吉はそれに同調した東播磨の国人衆の諸城を次々と落として行く事になるのだが、その過程で多くの新顔の若武者がデビューを飾っていた。


 既に初陣を済ませつつ、先の上月城退却戦でシンイチに無理矢理付いて来て活躍した加藤清正と福島正則。


 彼らは退却先の姫路城内で、最初は自分の小姓でありながらその傍を離れた件で秀吉に怒られていたが、撤退戦での活躍では褒められ、共に知行三百石と金子などを褒美として貰っていた。


「小姓としての任を忘れないで武功を挙げていれば、間違いなく五百石だったのに残念じゃったの」

 

 秀吉はそう言いながら二人に恩賞を与えていたが、これは二匹目の泥鰌を狙って同じような事をしないように釘を刺したものと思われた。


「市松と虎之助が世話になったの」


「あまり世話などしていませんが、討ち死にでもしないかとハラハラしました」


「権兵衛も、安治も、且元も、良くやったの」


 秀吉は、秀久とシンイチと且元に刀や金子を褒美として与え、安治の知行を七百石に増やしていた。

 まだ播磨は不穏な空気が流れていたので、シンイチへの加増が無かったのはこれは仕方のない事であったし、横で神子田正治や尾藤知宣が物凄い表情をしていたので、かえって良かったと思うシンイチであった。


 そして他にも、後に有名となる多くの武将達が初陣を飾ったり、新たに羽柴家に仕官して戦いに参加している。


 同じく秀吉の小姓をしていた加藤嘉明、平野長泰、糟屋武則、桜井佐吉、石川一光などや。

 この頃から推挙されて仕官した佐吉こと石田三成、大谷平馬こと大谷吉継、石田正澄、谷衛友、片桐貞隆などもいた。

 

 他にも、生駒親正、中村一氏、堀尾吉晴、宮部継潤、一柳直末などの古くからの家臣達もいて、これから大出世を遂げる予定である秀吉を懸命に支えていた。



 


 上月城は落ち、尼子残党軍は尼子勝久以下一族が城兵達を助けるという条件で切腹し、降伏して捕らえられた山中幸盛は後に毛利家によって謀殺されたが、毛利軍のこれ以上の東進が無かったのは幸いで、その間に東播磨平定を進める事にした秀吉であった。


 攻略は順調に進み、天正六年(1578年)の六月から十月の間に別所氏の主だった支城を攻略。

 また、三木城に対峙する平井山本陣と包囲のための付城を築くに成功した秀吉であったが、ここでまた三木城攻略を遅れさせる事件が発生していた。


 上月城の戦いにも出陣していた、摂津に領地を持つ荒木村重が離反してしまったのだ。

 おかげで、摂津方面からの新たな補給路が誕生し、三木城の寿命を延ばす事になってしまった。


 そして、翌年の天正七年(1579年)の二月。

 一応の補給路は確保されたものの、安心は出来ない別所家側は局面打開のために平井山本陣に三千人の兵を出すが、これは敗北して別所長治の実弟別所治定が討死するなど、別所軍の敗北に終わっていた。


 続いて、同年の五月。

 織田軍は、摂津からの兵糧輸送の中継地点、丹生山明要寺と淡河城を攻略して再び補給を困難な状況にし、翌月には反織田の共同戦線の一角、波多野氏の八上城が攻略されて別所家側はますます不利な状況へと陥っていた。


 


 ちなみに、この最中にシンイチが世話になっていた羽柴軍の軍師とも言うべき竹中重治が病死していた。

 シンイチは、彼が労咳にかかっている事は知っていたが、大した物も持たないでこの時代に来ている彼に抗生物質などの治療薬など作れるはずもなく、ただ亡くなる彼を見舞う事しか出来なかった。


『この薬はいいな。呼吸が楽になる』


 シンイチは医学に関する知識も持っていたので、出来る限りの手間を惜しんで薬草を煎じたりもしてみたのだが、やはり彼の寿命を延ばす事は出来なかった。


『小一郎殿と信一がいれば、殿は大丈夫さ。才能の点で言えば官兵衛殿もなのだが、彼は欲が強すぎる。その点、二人は欲が無いからな。二人が、自ら加増を求めたなんて話は聞いた事が無い』


 何しろこの世は乱世であり、多くの武士達が出世に汲々としている時代であった。

 そのために、なるべく多くの禄を求める家臣達と、少しでも安く使おうと考える主君とであり。

 どんな武士でも、一度くらいは加増を願い出るものであったが、二人にはそれが全く存在しないのを重治は知っていたのだ。


『少し頑張り過ぎな面もあるが、今の羽柴家の状況では仕方が無いさ。お前は、家内に友人も多い。あまり欲をかかないで頑張ってくれ』


 これが重治との最後の会話となってしまい、シンイチはただ彼の死を悼んで涙を流すのみであった。



 


 そして更に時は進み、同年の九月。

 三木城を援護するために毛利軍は兵糧を運び込もうと画策して、ここに平田合戦・大村合戦が発生する。

 毛利軍の補給部隊が織田氏の武将谷大善の平田陣地を攻略するが、補給自体には失敗。

 合わせて出陣していた別所軍も、淡河定範など多くの武将が討ち取られて敗北していた。

 

 良くない事は続くようで、翌月には毛利氏側であった宇喜多氏が離反し、毛利氏の本国と播磨・摂津の間が分断されて、毛利氏による支援が不可能な状況となった。

 また同時期に唯一残っていた摂津側の支援ルートも、十一月に共同戦線を張っていた荒木村重の有岡城が織田氏に攻略され、彼は家族すら打ち捨てて逃亡している。

 これで三木城は完全に孤立してしまい、あとは翌年一月に別所一族の切腹によって二年近くにも及んだ篭城戦は終結を迎える事となったのである。

 





「見事な縄張りですな。誰に教わったのですかな?」


「長政様とか、秀長様とか、先に亡くなられた重治様からですよ。築城や建設に関する本などは読んでいたのですが、経験不足でしたので」


「私からは、直すべき点は見付かりませんな。このまま工事を進めると良いのでしょう」


 東播磨の状況がもう少し落ち着くという事で、今までは武将として奮戦していたシンイチであったが。

 後は大丈夫であろうという事で、彼は姫路城の改修や城下町の整備や、周辺の荒れた農地の開墾や、従っている国人衆の管理などの内政に属する仕事を秀吉に依頼されていた。


 そして同じく、この任に黒田官兵衛こと孝高も任じられていた。

 彼は、先の荒木村重の謀反に呼応して信長に背いた元主君小寺政職

の姓である小寺から信長の命で黒田の旧姓に戻していた。

 しかも、謀反した荒木村重を思い止まらせるべく有岡城へと説得に向かうものの、逆に捕らえられて幽閉されるという不運を味わっていた。

 更に、その際に信長から疑われて、秀吉は自分の下で人質となっている彼の嫡男松寿丸を処刑するようにと命令されたのだが、これは先に亡くなった竹中重治が、似たような子供の死体を信長に送り届けて誤魔化している。


「黒田様、足の方は大丈夫ですか?」


「何とかですかな」


 一年間にも及ぶ有岡城での監禁生活の後に救出された孝高であったが、そのせいで左足の関節を痛めて歩行が不自由になり、馬に乗る事が出来なくなっていた。


 現在姫路にシンイチと一緒にいるのも、半分その療養を兼ねての事であったのだ。


「しかし、降ったと思ったら背き。そんな世相とはいえ……」


「みな、生き残るために必死なのですよ。かく言う私もそうです」


 シンイチは、孝高と一緒に仕事をしながら色々な話をしたり、教わったりと貴重な時間を過ごす事となる。

 

 その間にも、播磨三木城の別所長治、但馬国の山名堯熙、因幡鳥取城の吉川経家と、秀吉は上月城では苦杯を舐めた毛利軍やそれに呼応する国人衆や大名を次々と討伐に成功。

 次第に、毛利軍を追い詰めて行く事となる。


 その間にも、シンイチは播磨の統治を手伝いつつ羽柴軍の中で自らの手勢を率いて多くの手柄を立てている。

 内政にも卓越し、軍においては先陣の猛将としても活躍。

 時に巧みに軍勢を操り、城攻めも上手く、後方支援などでもその手腕を発揮していた。


 それなりの能力を付与されてこの時代に送られて来たシンイチであったが、数々の経験を経てようやく知識と力だけの状態から脱したとも言えよう。


「権兵衛さんは、淡路だって?」


「そうなんだよ。黒田様も一緒なんだが、海を渡った経験が少ないから不安だな」


「上陸すれば、大丈夫だと思うけど」


 天正八年(1580年)に入り、シンイチは淡路島平定のために現地へと向かう仙石秀久を見送っていた。

 前年に、長年信長に反抗していた本願寺などの一向衆が遂に力尽きて拠点である石山を退去し、毛利方の水軍から制海権も奪っていたので、ようやく四国方面にも足を伸ばす事になっていたのだ。


「信一も、色々と忙しい身だしな」


「本当に、忙しいんですよ」


 既に何年も長浜近くにある自分の領地へは戻っておらず、育てている孤児達の顔すらほとんど見ていない状態であったが、ようやくにそれが解消されつつあった。


 シンイチは遂に一万石へと加増されたのであったが、所領が播磨へと移封になったからであった。

 元の領地から荷物と共に孤児達が播磨へと到着し、秀吉が孝高から譲り受け、それなりに手を入れている姫路城にて生活を始めていたからだ。


 ただ、今シンイチは三木城にいる。

 三木城は、ねねの叔父にあたる杉原家次へと与えられていたのだが、城の改築工事をシンイチが担当する事になったからだ。

 

 それと、本当は近くの印南郡がシンイチの新しい所領であったのだが、そこには城代を置いて対応する事としていた。

 何しろ押さえたばかりの領地なので、不安定で子供達や女性などを置くわけにもいかず、且元の妻子などもまだ印南郡へは移動していなかった。


「城代っ言っても、吾一なんだろう?」


「まだ元服すらさせてないんだよなぁ。杉原様が殿に頼まれているらしいから、近々元服の儀を行うらしいけど」 


 新参者なうえに家臣も少ないシンイチであったので、印南郡の掌握は、シンイチに拾われてから七年間が経ち、数えで十六歳になっていた吾一に任せていた。


 一番最初にシンイチに拾われ、他の孤児達の纏め役でもある彼は、根気良く勉学や武芸の稽古を続けて立派な若者になっていた。

 そこで、シンイチは自分の代理である義弟扱いで、彼を兵士達と印南郡へと派遣して領内の統治などを行わせていたのだ。

 他にも、年の近い数名の孤児達が印南郡へと向かい、浅野長政の家臣達に助けられながら懸命に頑張っているようであった。


 本当はシンイチが自分で助けるべきなのだが、彼には三木城の改築や、姫路城詰めをしながらの播磨統治の仕事もあるので、とても一人では手が回らなかったのだ。


 勿論、まだ若いシンイチがメインで播磨の統治を行っているわけでもなかったが、一万石にまでなったシンイチの重要度はかなり高かった。


 もはや、彼がいないと進まない案件なども存在していたのだ。


 更に、毛利攻めで前線に出ている秀吉に定期的に報告に行ったり、なぜか行くとまた戦の手伝いをさせられたりと、天正八年(1580年)から天正十年(1582年)までのシンイチは、戦に領地の統治にと忙しい日々を送るようになる。


 既に、シンイチは内外に若いながら戦にも政治にも長けた武将としてその名が有名になりつつあった。


「あのガキ共が元服か。俺も頑張らないとな」


「官兵衛殿も同行するとか?」


「軍師殿のありがたい意見を参考に頑張るさ」




 その後は、黒田孝高らと淡路島に渡って岩屋・由良城を陥落させる秀久であったが、秀吉も毛利攻めを続けていて次第に戦況を有利な方向へと進めて行く。


 この年に、以前に降伏をしていた備前・美作の大名宇喜多直家が病死し、彼は幼い跡継ぎである秀家の後見を秀吉に依頼していた。

 

 最初は、上月城の戦いから見ても毛利軍が優勢であったのに、僅か数年で織田軍は備中へと攻め入ろうとしている。

 近畿圏の経済力をバックに、常にある程度の兵力を前線に貼り付けておける織田軍と。

 国人衆の寄せ集めであり、以前のような十万人もの動員をそう簡単には行えない毛利軍と。

 

 きっと死の床にあった直家は、このままでは毛利軍の負けだと感じたのであろう。

 死の床で秀家や家臣達に、織田方に付くようにと話をしていたようであった。


 他にも、弟の秀長や宮部継潤が山陰方面へと侵攻・攻略も開始している。


 既に、戦略的には秀吉の方にシーソーが傾いていたのだ。


「それは良い事だけど、俺が物凄く忙しい……」


 シンイチにとってはほぼ正史との違いも無く、同じの歴史のはずなのに、秀吉にその才を認められて家臣として働いているという現実もある。


 大まかな歴史の流れはまるで変わっていないが、黒王号の孫馬などが武将や騎馬隊に貸与されるようになってその移動力や攻撃力を増している。

 それと、シンイチが天正十年(1582年)に始まった備中攻めでいくつかの城を落としたり、名のある武士を討ち取ったりする功を挙げつつ、自軍の管理を且元に任せてすぐに姫路城に戻って領内の統治をしたりしている影響で、ひょっとしたら多少の金銭や兵糧の蓄えなどに変化があるのかもしれなかった。


「佐吉、兵糧と金の積み込みを任せる」


「ははっ!」


「正澄、輸送の護衛の手配を。お前も付いて行くように」


「かしこまりました」


「平馬、あと書類はどのくらいある?」


「正確に報告すると、信一様がやる気を無くしそうなほどです」


「ああ、そうかい! 長盛殿、高松の状態はどうなっているんでしょうね?」


「包囲をして、兵糧攻めをしているくらいしか情報が無いですな」


 姫路城のいつもは秀吉や秀長が執務に使っている部屋で、シンイチは秀吉の小姓や近習達の中から政務などに長けた者達を使って、戦乱で荒れた播磨の復興・開発や、現在備中に軍を送っている秀吉への補給などを行っていた。

 他にも、秀長や浅野長政も出陣しているので、因幡や但馬や伯耆の一部などのかなり広範囲に渡る地域の統治と治安の維持などを行っていた。


 まだ数えで二十二歳の若造が、秀吉から借りた増田長盛、石田三成・正澄兄妹、大谷吉継、長束正家などのほぼ同年代の若造達と組んで、この平定されたばかりの播磨や山陰の国々を懸命に統治していたのだ。


「(少し前までは浅野殿や秀長殿の補佐をしていた若造が、人手不足が原因とはいえ羽柴軍の後方支援を一手に担うのか。私も、年を取るわけだ……)」


 秀吉からシンイチの補佐として付けられた増田長盛が、彼の方を見ながら今の状況について考えていた。

 

 自分と同じ頃に仕官したわずか二十二歳の若造が、一万石の知行を受けて秀吉からの信頼も厚いのだ。

 当然、多くの者達から嫉妬されそうなものであったが、彼は誰が見ても有能な男であった。

 

 体も大きくて力もあり、戦に出ると前線では闘将となり、後方でも上手く指揮を執れた。

 実際に備中攻めでも、最初の支城攻略などではその軍勢と共に先陣で数々の武功を挙げているし、自ら討ち取った将や兵の数も多い。


 そして、一番の目標である高松城を包囲し終わると、やはり後方も心配という事で姫路まで戻るように言われていた。

 シンイチは自分達を連れて自分の兵士達と一緒に姫路城まで戻ると、いまだに不安定な地域も多い播磨などの統治に入る。

 

 秀吉の代理人としてだ。


 現在の彼は、自分や三成達を上手く使いこなしながら、たまに出没する敗残兵の群や、落ち武者や、以前からいた山賊などの討伐を、舟橋軍を率いる片桐且元や、家臣が足りないという理由から秀吉側から移籍して来た片桐貞隆。

 

 更に、秀吉本軍からの応援である脇坂安治にも任せていた。


「(秀長様や長政様からはその智を愛され、先年に亡くなられた重治様もそうであった。蜂須賀様や前野様からも、戦で頼りになる男という事で信頼も熱いし。仙石や脇坂などの若手にも友人が多い。清正や正則にも慕われている)」


 シンイチ嫌いで有名なのは尾藤知宣と神子田正治であったが、それももう少しすれば表立っては言えなくなるはずであった。

 忙しいとはいえ、二十歳を過ぎて彼が結婚していないのには理由があった。


「(まさか、秀吉様が義息にするとは思わなんだ……)」


 秀吉は、妻であるねねの遠縁の娘を一旦養女としてから、その娘をシンイチに嫁がせる事を家臣達に発表していたからだ。


 つまりシンイチは、信長の四男で秀吉が頼み込んで養子とした秀勝とは違って直接養子にしたわけではなかったが、秀吉の婿で義理の息子という存在になる予定であった。

 

 しかも、秀吉には長浜時代に側室南殿が生んだ初代羽柴秀勝や、同じく女児が存在していたが、双方共に早世しているので現時点では実子が存在していない。


 一門衆としても、下手をすると後継者候補としての可能性もある。

 最低でも、これから秀吉から重用されていくはずであった。

 実際に能力はあるのだし、バカでなければ仲良くするのが普通であろう。

 

「(それに、悪い奴ではないしな)」


 最近では、秀吉に認められた家臣達に対して例の黒王号の子孫達が褒美として渡される事が多くなっていた。

 あの大きな馬に乗れるというのは非常に名誉な事であり、種付けにそれを気前良く貸しているシンイチは、一部の例外はあるが武に優れた家臣達から人気が高かった。


 牡馬しか与えられず、しかも去勢されているので繁殖には使えないが、これは秀吉とシンイチの持つ大切な切り札なので、仕方が無いのであろう。

 

 黒王号は、舟橋博士が余技で遺伝子改造を施した馬であった。

 近親交配を防ぐために毎日違うDNA型を持つ精子を作り出し、老化するまでの時間も長い。

 普通に飼えば人間くらいは長生きする馬なので、死ぬまでに沢山の子供を残せるはずであった。

 子や孫の代まで行けばかなりの数まで増えて、多くの日本産超サラブレッドの始祖を作りだせるはずであった。


 ただ、さすがに子供達の寿命までは伸ばせなかったのだが、大切に飼えば二十年は使える馬になるように改良されていた。


「ところで、増田殿も秀吉様から馬を下賜されたとかで?」


「ええ、あれほどの見事な馬を頂けるとは、武士冥利に尽きますな」


 シンイチと羽柴家で厳重に飼育・繁殖が管理されている馬なので、当然他の織田家の家臣達はこの馬を所持していなかった。

 去勢したセン馬を、五頭ほど主君信長に献上しただけであったが、その馬の大きさと扱い易さに、馬に乗るのが好きな信長は大喜びであったらしい。


 去年の京都御馬揃えの際にも、ただ一人だけその大きな馬に乗って参加している。

 ちなみに、秀吉も家臣達を連れて参加していたのだが、黒王号の子孫馬を与えられている家臣達には、わざと以前の普通の馬に乗って参加するようにと厳命している。


 シンイチも、この時代では普通の馬に乗って参加したのだが、可哀想に彼の体の大きさに耐えかねて一回で乗り潰してしまっていた。


 いかに、あの有名な前田慶次が馬で苦労したのかを地で理解したのだ。


「それは良うございました」


「ところで、どうして羽柴家の牧場を姫路城下に移したのです?」


「毛利が終われば、我が殿は明智殿と共に九州でしょうからね。今の内にと考えたのですよ」


 既に織田信忠の指揮する軍団によって武田家は滅び、先ほどは知らない振りをしていたが高松城の水攻めが始まっているはずであった。

 もう本能寺の変まで、二ヶ月と残されていなかったのだ。


 シンイチは、最初は信長を救った場合のIFを考えてみたが、それをするとまだ領地も権力も少ない自分がどう生き残って行くのかが想像できなかった。

 ならば、このまま秀吉の天下統一に力を貸して、その中で自分の居場所を見付けた方が良いであろう。


 将来の事はわからないが、自分の養女を嫁がせようと考えているのだから、暫くはシンイチの重用は続くはずであったからだ。


 なので、史実でも明智方に組した京極高次達の攻撃からや、羽柴家産の馬が戦に役に立つと考えている明智家の将兵に奪われないように、早めにこちらに牧場を移動させていた。


 長浜から京都を経由して姫路に至る、羽柴家専属の馬飼い達やその家族と数百頭の黒王号を先頭とした馬達は、多くの人達の注目を集めたようであった。


 ちなみに、この馬の管理もシンイチの仕事であった。


「なるほど、それは慧眼でしたな。ところで話は変わりますが、早く高松城が落ちると良いですな」


 長盛が、高松城の水攻めに使う土嚢を近隣の農民から買っているために急激に銭と兵糧の消費量が増えた事に頭を抱えていたが、シンイチは大して気にも留めていなかった。


 なぜなら、もう少しで本能寺の変が発生するはずであったからだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ